第16話 ホルスときょうだいたち

 ベッドへ体を仰向けたホルスは、真っ直ぐに天井を見つめていた。やはりやけに高く、明かりを落とした部屋の中、人の目にはどこまでも続く闇に見えるだろう。けれど、暗い夜でも目の利くホルスは、木目調の模様まではっきりと見ることができた。さざ波のように、うねうねと捻れながら走る木目を目で追っていると、迷路に迷い込んだ気分になってくる。どう進んでも、そのうち幾本もの他の線に紛れて、辿っていた木目がどれなのか分からなくなる。深い溜息が零れた。迷子。今の自分には、その言葉が酷くしっくり来た。決意を固めてトドゥルユルと共にあの研究所を出てきたものの、時間が経ってだんだんに、胸の底へ不安が立ち込めてきているのだ。あそこにいる時は、危険が身近にあった分、自分のすべきことがはっきりしていた。それが今は、全く分からない。トドゥルユルを守るために、危険を避けるために、何が最善なのか。迷子のようなこの気持ちは、それが分からないからなのだろう。いや、もしかしたら、新しい環境へ飛び込んだことへの漠然とした不安か? 振り返ってみれば、研究所へ行ったばかりの頃も、ホルスは酷く怯えていたのだ。


 ホルスがアームリムカーク研究所へ向かうことになったのは、およそ六年前だ。始まりは、カッ、というイヌワシの鳴き声だった。何かを警戒する強い調子の声に、十六歳のホルスは危険を察した。

「みんな、まずいよ。あのイヌワシの声、ただごとじゃない。早く帰ろう」

 一緒にいたきょうだいたちは、皆表情を曇らせ「嫌だよ」と言った。きょうだい五人で鉤爪の決闘の真似事に興じていたところだったからだ。ちょうど、長兄のヒューと長姉のメイジーの決着がつきそうだったので、尚更だ。

「ホルスは相変わらず臆病だな。イヌワシなんて、いつも鳴いてるだろ」

 ヒューの声には、いい所を邪魔された苛立ちが滲んでいた。確かに、彼の言う通りではある。しかし、あの鳴きようには危機感だけではない、未知の侵略に戸惑う恐怖のようなものを感じた。それが、どうしようもなくホルスの腹の底を冷たくしていた。

「いつもと様子が違う。だから早く帰ろう」

「変わらないよ」

 きょうだいたちは口々にそう言い、逆にホルスを窘めた。お前はそうやってなんでも怖がるから駄目なんだよ、と。

 ホルスは、それならもういい、と他のきょうだい四人を残して、寝床へ戻った。危険が迫っていると確信していたにもかかわらず、彼らが痛い目を見ればいいのだと意地の悪い考えで、置いてきたのだ。そのことを一生後悔するなど、僅か程も思っていなかった。


 一時間もしないうちに、高い悲鳴が響いた。木々をザザザと揺らし、ガッガッ、ギャァギャァ、ロッロッロッと様々な鳴き声を上げながら、イヌワシやツリスドリが一斉に飛んでいく。森全体が張り詰めていた。

 寝床で横になっていたホルスは、飛び起きた。胸が早鐘を打っている。何かあったんだ。分かっていたはずの出来事に狼狽えながら、大きな翼を広げ、タンと地面を蹴った。両の羽を二、三度、バサバサとあおぐと体は空へ舞い上がり、風に乗った。身を斜めにし、緩やかなカーブを描いて飛ぶ。眼下の森をじっと見つめる。鳥や猿が逃げてゆくのを逆に辿ると、ちょうどホルスがきょうだいたちといた開けた水辺に行き当たった。

 いた。

 きょうだいたちは、四人ともそこにいた。彼らもまた、逃げようともがいていたが、けれど、皆、ロープや網や金具で体の一部を捕えられ、思うように動けない様子だ。長姉のメイジーは鉤爪でロープを引きちぎったが、すぐに大きな刺又で動きを封じられた。彼らを捕らえようとしているのは、人間だった。翼や鉤爪、体の一部に生えている羽毛こそないが、それ以外はほとんどホルスたちと違わぬ容姿をした人間だ。

 助けなくちゃ。

 ホルスは思った。自分を奮い立たせようと、頭で言葉にもした。しかし、体は彼のそういう意志ではなく、怖いという感情に従った。動け、動け、動け。何度も何度も自分で自分を叱咤したけれど、それでも体は硬直したままだった。そのうち、メイジーの動きを封じていた刺又がビリッと大きな音を立てた。メイジーの体は反り返って緊張したかと思うと、クタリと倒れた。

 メイジー! ホルスが心で叫んだと同時に、悲鳴に近い声がした。見れば、ヒューが目をカッと開いてメイジーへ駆け寄ろうと必死で手足を動かしていたが、それでも彼の右足首をがっちり捕らえた金具は外れなかった。

「お前ら、ふざけんなよ!」

 ヒューの言葉を聞いて、数人の人間が笑った。

「本当に人間の言葉を話すんだな。獣人は、みんな喋ったって訳分かんねぇ言葉使うのに。変な鳥どもだ」

 そうして、一人がメイジーを気絶させたのと同じ刺股を手に取り、ヒューへ向けて振り下ろした。ギュッと押し付けられたせいか、メイジーの時よりも大きな音がビリビリッと響き、ヒューは体を仰け反らせ、ちょうど身を隠すホルスの正面を向く格好になった。黒目は上へ寄り、大きく開いた口から声とも息ともつかない音が漏れた。そのまま地面に突っ伏したヒューを、人間たちは残酷な笑い声を上げながら、踏みつけたり蹴りつけたりした。

「この刺又、高電流が流れるとは聞いてたけど、すげえな。いい気味だぜ、化け物が」

 他の二人、エマとラースは涙で頬を濡らして倒れた二人のきょうだいを見たり、歯を食いしばり顔を伏せたりしていた。すると、バチッと視線が重なった。ヒューへ視線を向けたのだろうエマとホルスの目が合ったのだ。いや、ホルスは草木の中に身を隠している。実際にエマがホルスの視線を感じたかは分からない。それでもホルスの方では、エマの助けを求める視線を感じた。その時、彼の心へ迫ってきたのは――恐れと焦りだった。エマがホルスに向かって名を呼びだすのではないかと思い、戦慄が走った。

 実際にはそんなことは起こらず、エマは、メイジー、ヒュー、ラースたちきょうだいは、みんな人間たちに連れ去られていった。

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