第14話 「かわいい」
弾丸のように飛び出した二人は、そのままの勢いで走り続けた。景色がどんどん後ろへ流れていく。ホルスはアラメアを落っことさないよう、抱える腕に優しく力を込めた。太腿にはめいっぱいの気合を入れて、地面を蹴っている。しかし、それでも後に付いていくのがやっとなくらい、トドゥルユルは足が速い。怪我をしているとは思えないスピードだった。それだけ、険しい岩山で生きてきたユキヒョウ獣人の脚力は、凄まじいものだということだろう。かなり息が上がってきたが、お陰でアリスターから逃げ切れそうだ。
「なあ!」
トドゥルユルが振り向きざまに声を張った。
「そろそろ大丈夫じゃないか?」
「いや、あと少し走って巻こう。俺たちがあの家を出た時、あの人はすぐに追わず、何かを探してた。おそらく、車のキーだ。俺はあんまり耳は良くないけど、君なら後ろからエンジン音が聞こえるんじゃない?」
話しながら、この子は車を知っているだろうかという疑問が頭を掠めたが、すぐにトドゥルユルが返してきた。
「帽子ではっきり聞こえないけど、確かにエンジンの音が後ろから来てる」
知っていた……。岩山にやって来た人間たちの影響だろう。
「よし、じゃあ、細い路地に入ろう」
「ロジって?」
「そこ、曲がってってこと」
ホルスは前方右手の狭い道を示した。分かった、と言い、トドゥルユルが右へ曲がった。
かと思ったが、しかし、横を向いて道へ入り切る直前、パンッと何かの爆ぜる音がし、彼は腕を押さえて倒れ込んだ。
「トドゥル――」
パンッと再び爆音がし、ホルスの叫びを遮った。殺気が頬を掠める。続けて、血と火薬の臭いがした。銃弾だ。パンッ、パンッと立て続けに撃ち込まれる弾を避けようと体を低くし、ホルスはトドゥルユルの腕を掴んで路地裏へ入った。
肩で息をし、アラメアとトドゥルユルを抱えて細道を奥へ走る。銃を持ち出してくるとは思わなかった。そもそも、アードウィッチでは銃の使用は禁じられている。どうしても必要な場合のみ、申請して認められれば許可を貰えるようになっているはずだ。そして、許可が下りたら、自宅の前に銃を所持している旨を示す貼り紙をする義務がある。アリスターの家に、それはなかった。無許可で使用した場合は、罰金を支払わなくてはならない。ホルスが駅で渡した金額よりも、ずっと大きな額の罰金を。
うう、と苦しげな呻きが聞こえ、ハッとなった。
「一旦、止まるよ。止血しよう」
「あいつに……追いつかれるんじゃ――」
「結構奥まで来たから、大丈夫。すぐ処置して、また進むから」
この道が、入ってすぐに行き詰まらなくて良かった。どこまで続いているかも分からないが、しかし、今はどこかへ出ると信じて進むより他にない。
傷を確認する。撃たれたのは右肩近くだ。弾は抜けているようだが、出血が酷い。ホルスは傷口の少し上をハンカチでギュッと縛った。その時、
「だいじょうぶ……?」
周囲の気配に負けそうな程頼りない、今にも泣きだしそうな声がした。見れば、アラメアは唇をわなつかせ、目を濡らしてトドゥルユルを見ていた。ずっ、と鼻をすすった彼女に向かって微笑みかけ、ホルスは「大丈夫だよ」と応じた。一音一音、はっきりと。
「君がそこに落ちてる木の枝を拾ってくれたら、もっと大丈夫になる」
アラメアはびっくりしたように目を見張り、あわあわと辺りを見回した。すぐに路の端に落ちていた太めの枝に気が付き、小走りに行って持ってくる。
「ありがとう」
ホルスは声に不安や焦りが滲まないよう気をつけて言うと、その枝を先程縛ったハンカチの間に差し入れ、ぐるっと回した。より強く締め付けて、しっかり止血するためだ。腕時計を確認する。午後八時五分。ホルスはジャケットの内ポケットからペンを取り出し、トドゥルユルの頬に時刻を示す数字を記した。彼のパチクリする丸い目をみて、少しほっとする。
「今の時間を書いたんだ。あんまり長く締め付けたままだと、縛ったところより下が壊死しちゃうからね。うっかり緩め忘れないように」
そう言い、後ろを確認する。まだ追いかけてくる様子はない。よし。心で呟いて、二人の方へ向き直る。その瞬間だった。
血の気がサーッと引いていくのを感じた。アラメアがトドゥルユルの被る帽子へ手をかけていたのだ。
「駄目だ!」
ほとんど叫んで言った。しかし、それは逆効果だった。アラメアは大きな声で咎められたことで体をすくめ、手は帽子を下へ引っ張ることになったのだ。つば付きの帽子の下から現れた、プラチナの毛に覆われた丸耳。アラメアは、そして見られてしまったトドゥルユルは、揃って目を見開き硬直した。しんと、辺りの気配が緊張する。長い長い一瞬で、トドゥルユルの顔は蒼白に、アラメアの顔は赤く色づいた。
「かわいい……」
幸せな夢にゆられているような、うっとりした声が言う。ゆっくりと手が伸び、丸い耳の先に触れる。ビクッとトドゥルユルは肩を跳ね上げたが、アラメアの手から逃れようとはしなかった。その手からは緊張が取れていき、形を確かめるように、慈しむように、丸耳をよしよしと撫でた。
「かわいい」
今度はその言葉を噛み締めるように言う。丸い頬へ、フワッと笑顔が溢れた。
「すごく、かわいい」
トドゥルユルは、ぽかんと見つめ返すばかりだった。
ホルスは深く息をついて帽子を拾い上げると、アラメアの手をそっと引き離し、トドゥルユルの頭にかぶせた。顔を俯け、平坦な声で告げる。
「秘密にしなくちゃいけないんだ。誰にも言わないでね」
「どうして? こんなにかわいいのに」
ホルスは、ぐっと手を握り込んだ。
「かわいくても、人と違うから。人と違うと、いじめられる。だから秘密にしなくちゃいけないんだ」
そうなんだ、と寂しそうに呟いたアラメアに、ホルスは少し声の調子を強めた。
「ちゃんと約束して。絶対に誰にも言わないって」
叱られていると思ったのか、アラメアは体をすくめ、か細い声で答えた。
「分かった。誰にも言わない」
再び路地を進み始めた。ホルスはアラメアを下ろし、トドゥルユルだけを抱いていた。道が悪すぎたのだ。幅はどんどん狭くなっていき、十分も行くと、もうホルス一人がやっと通れる程しかなくなった。しかも、塀の向こうから飛び出した木の枝や乱雑に捨てられた物で、いっそう歩きにくい。トドゥルユルを抱えるのも、ギリギリだ。
そのトドゥルユルは、横抱きにして進み始めて間もなく、眠ってしまった。昨日から今日にかけて、目まぐるしい程いろんなことが起こった。疲れているだろうし、傷も深い。このまま寝かせてやりたいと思いながら、歩いた。
道は、続いている。いや、それだけではない。夜目の利くホルスには、見えていた。ずっとずっと先に、小さな明かりのあるのが。この道は、どこかに通じているのだ。
「もう少し行くと、どこかに出るよ。そうしたら、何も心配いらないからね」
アラメアを元気づけようと、そう言いながら、ホルス自身は身構えていた。この道がどこへ続いているかアリスターが知っているとすれば、待ち伏せされている可能性も高い。突然、銃撃されるかもしれない。そうなったとしたら――。考えていると、自ずと手に力がこもった。この手袋を外すしかない。アリスターが引き金を引く前に、あの首に爪を立てるしか。
アラメアがいるとはいっても、進めば当然、道のはずれは近づいてくる。少し前まで遠くにある小さな明かりの点でしかなかったそれは、いつの間にか大きくなり、今では四角く切り取られた向こう側の様子まで、よく見える。アリスターの姿はなさそうだったが、油断はできない。ゆっくり息をして心を静め、指の動きを確かめる。大丈夫。一瞬で仕留められる。人に見られても、首の傷口を隠しさえすれば、酔い潰れた友人を介抱しているとして誤魔化せるだろう。上手くやりさえすれば。
いよいよ出口が目の前に迫ってきた。トドゥルユルを片腕で抱え直し、息を止め、腹に力を入れ、そして空いた方の手の爪を立てる。路地の暗がりから明るい開けた通りへ足を踏み入れた瞬間、左右に視線を走らせたホルスの目に、男の姿が飛び込んできた。
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