第11話 方便と正論
女の子を呼びつけたその声は、酷く荒っぽい調子だった。見れば、ひょろりと背の高い色白の男がいた。彼は、つかつかと大股でやって来ると、女の子の手を掴んだ。女の子――アラメアは再びビクッと体を強ばらせ身を縮める。
「どうして降りた車両の近くにいない! 探すのにどれだけ苦労したと思ってる!」
怒鳴りつけられ、アラメアは首をすくめ両腕をかき抱いて震えている。尋常ではない怯え方だ。ホルスは止めようと口を開きかけたが、トドゥルユルの方が早かった。
「やめろよ。怖がってるだろ」
トドゥルユルの睨めつける視線に肉食獣らしい凄みがあったからか、それとも彼が高貴なミューテルと思しき容姿をしていたからか、男は明らかに弱腰になった。
「いえ、怖がらせるつもりは……。ただ、この子には教育が必要なんです。叱る時は叱ってやらないと――」
「そうですよねぇ。分かります」
ホルスは愛想の良い笑みを作って言った。視界の隅に、眉をひそめたトドゥルユルの顔が映ったが、無視して続ける。
「でも、どうか今回は怒らないであげてください。このお嬢さんは、迷った俺たちをここまで連れてきてくれたんです。人の少ないところで、落ち着いて地図を見た方がいいと言って。お陰で道が分かりましたよ」
目をぱちぱち瞬くアラメアへ、にっこり笑って頷く。調子を合わせて、という意味を込めて。そうして、再び男の方を向き、おもむろに財布を取り出した。
「本当に助かったので、お礼をさせてください。これをどうぞ」
財布から、紙幣を三枚取って差し出すと、男はギョッと目を見開いた。
「こ、こんなに……」
男が面食らうのも無理はなかった。イグゾー紙幣はミューテルや一部の大富豪しか使用できないような、高価なものだ。ホルスの場合、研究所で稼いだ金をほとんど使っておらず、また、彼を気に入っているジマーマンが気まぐれでくれる小遣いもあった。世界的に名を馳せている研究者が寄越す小遣いだ。イグゾー紙幣を数枚手渡して来ることも少なくなかった。それで、金はそれなりに持っていたのだ。
「そのくらい助かったんです。どうかそれで、お嬢さんにチョコレートを買ってあげてください。お好きなようですから」
男は瞬きすら忘れて紙幣とホルスを交互に見ている。道案内程度のことでイグゾー紙幣を三枚も差し出すほどの大金持ちと思い、驚嘆しているのだろう。金で全て解決できる相手は、説得が楽でいい。男の顔から驚きが引いていき、代わって下卑た笑みが広がった。
「では、遠慮なく頂きましょう。良い旅を」
男は背を向けた。アラメアは目をキラキラさせながらも、定まらない表情をしてこちらを見ている。ホルスはニコッと笑って手を振った。
「またね」
すると、アラメアも心が決まったように笑顔になった。そうして手を振り返し、くるりと背を向けて小走りに男の後を追った。
ホルスは男とアラメアが雑踏の中へ消えるまで、見送っていた。あの子がまた、理不尽に怒鳴りつけられはしないかと心配だったのだ。そうならないように話したつもりだったが、しかし、理不尽というのはこちらの意図を無視して簡単に行われるものだ。ハーブたちがトドゥルユルに振るった暴力のように。
そのトドゥルユルの視線を、斜め下から感じた。二人の姿が見えなくなってから、やっと彼に目を向けると、不満を眉間に掻き集めたような顔をしていた。
「さっきの、何だよ?」
「まあ、嘘だね」
「なんでこっちが嘘つかなきゃならないんだよ。あいつの言ってること、おかしいだろ? あんなに人が多くて、あんなに小さい子が、あの場に留まっていられるわけないのに。そう言ってやればいいだけなのに」
「正論を突きつけても、相手に届かないことってあるんだよ」
トドゥルユルは納得しきらない様子で唇を噛み、俯いていた。その頭へ手を乗せ、ホルスは軽く息をつく。
「ごめんね。嫌な嘘に付き合わせちゃって」
トドゥルユルがゆっくり顔を上げた。もう不満の色はほとんどない。
「あんたが好きで嘘ついてるわけじゃないのは、分かってるよ。けど、あんたのあれはその場しのぎにしかならないだろ?」
分かっていたことが、言葉にされるとなかなか堪えた。ホルスは「そうだね」と返し、視線を落とした。確かに、あの子のあの環境をどうにかしてやりたい。でも、どう考えても無理がある。下手なことをしてより状況が悪くなるようなことがあってはならない。無責任に、助けたい気持ちだけで動くわけにはいかないのだ。何より、ホルスたちにとってリスクが大きい。正体を知られるリスクが。
自分を引き止める一番の枷が保身なのだと思い当たると、心はじくじく痛んだ。トドゥルユルの顔を見ると、じくじくはいっそう強くなった。
「助けてやれないかな?」
「無理だよ」
即答するしかない自分が悲しい。けれどトドゥルユルは引き下がらなかった。
「すぐ決めんなよ。ダメならダメでしょうがないけど、考えるくらいはしたっていいだろ」
言葉が重く、胸に来る。それを堪えて返すと、口調にも言葉にも尖りが出た。
「考えたって答えは変わらない。それとも、考える振りした方がいい?」
「そんなこと言ってない。方法がないか、考えようって言ってんだよ」
「ないよ」
「だから、考えてから言え――」
言いかけたトドゥルユルを、ホルスはひょいと抱き上げた。
「下ろせよ」
噛み付くような調子で言ったトドゥルユルへ「下ろさない」と静かに返す。けれど、聞き分けなく腕の中で暴れられ、カッと頭に血が上った。
「あのさぁ」
凄味を利かせた声が出ていた。構わず続ける。
「君、かわいそうなんて幼稚な感情だけで動いたり、他人を責めたり、やめてくれないかな?」
トドゥルユルは目を見張った。一瞬の間の後、下りてきた瞼が瞳の輪郭を悲しげに隠していく。
「俺、あんたを怒らせるようなこと、言ったか?」
震えを抑え込んだような声が来て、ホルスは自分がこの子を傷つけたのだと分かった。ホルスの声も震えそうになったが、無理矢理平坦にする。
「ごめん、違うんだよ。君のせいじゃない。ただ、悔しいんだ。俺にも助けてあげたい気持ちはあるから」
ふうと、深い息が出た。いつも本心を隠している彼にとって、正直な気持ちを口にするのは酷く緊張する。
トドゥルユルの表情から、悲しげな気配が引いていった。
「あんたも助けたいんだな」
柔らかくなった声に、こちらの気持ちも解れてくる。
「うん、君の言う通り考えるだけ考えてみようか。でも、まだどうなるかは分からないからね。あと、まずは泊まるところ、探さないと」
そう言い、足を踏み出す。トドゥルユルは、やはり「下ろしてくれ」と言ったが、ホルスは取り合わなかった。
「君を抱いてると、暖かいんだよ」
アードウィッチは豊かな都市だ。財政が安定しているというだけではない。活気に満ちており、若者、家族連れ、老人などどの世代の人も肩身の狭い思いをせずに暮らしている。異性愛者も同性愛者も互いを認め合い、様々な人種が対等な関係を築いている。建前の上では。
行き届いた治安のお陰で、夜でも安心して外へ出られる。そのため、どの時間も町が寝静まることはない。常にエネルギーに溢れている場所なのだ。
ホルスとトドゥルユルが宿を探し始めた時は、もう夕刻だった。オレンジ色に染め上げられた背の高い建物の足元からは、濃い影が伸びている。
トドゥルユルは、またしても目を丸くしてあちこち見回していた。
「人が住んでるとこって、すごいんだな」
「どこもこんな風なわけじゃ、ないけどね」
ホルスは笑って言い、大通りを歩きながら説明した。
「もう少しこの道を行くと、交差点がある。そこで、右に曲がって少し進めば、ホテルに着くよ」
トドゥルユルは不思議そうに首を傾げた。
「あんた、なんでそんなにここのこと、よく知ってんだ?」
予期せぬところ、しかも説明しにくいところを射抜かれて、ドキリとした。ホルスがここや他のいくつかの町に詳しいのは、「調査」の賜物だ。アームリムカーク研究所で共に暮らすことになった同僚たちの素性を調べたのだ。自身の身を守るには、まず周囲の人間を知る必要がある。そう考えた彼は、体調不良と偽って取った休みを使い、危険視していた同僚の周辺を探った。出身地、家族、暮らしぶり、他人からの評判など、聞き出したことはたくさんある。このアードウィッチは、あのハーブの出身地でもあるため、特に詳しく調べていたのだ。
「ちょっと休日に観光したことがあるって感じかな」
へえ。応じる声は平坦で、納得したのかしていないのか、分からなかった。けれど、食い下がっても来ない。ホルスは意識をあの研究所から引き離そうと、大きく息を吸って吐いた。
「さ、そんなこといいから、行こう。ずっと歩きっぱなしで、ヘトヘトなんだよ」
「だから、下りるって言ったのに……」
「俺が疲れてるのは、歩きっぱなしだから。君を抱えてることは関係ないよ」
そんなことを言い合い、ホテルに到着した。
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