第9話 これからのことと人間の街

 二人は峰をゆっくり下った。さっきと同じようにトドゥルユルが前になり、すぐ後ろでホルスが支えながら。白い毛に覆われた足の出す一歩一歩は、ホルスの思っていたよりしっかりしていた。

「案外、ちゃんと歩けるみたいだね」

「うん、慣れてきた」

「良かった良かった」

 軽い調子で返したが、本当は心底ほっとしていた。

「それとさ、今後のことなんだけど、君、俺と一緒に来ない?」

 トドゥルユルの足が止まった。振り返った顔は、目玉が零れ落ちるかと思う程、瞼を開いていた。ホルスは慌てて付け加えた。

「心配しないで。俺、あの研究所に戻るつもりはないから。別の場所で、新しい生活を始めるよ。人に紛れてね」

 トドゥルユルはゆっくり前を向いた。再び足を踏み出し、口を開く。

「人の振りをして暮らせってことか?」

「まあ、そういうことになるかな」

「獣人のまま、人間たちの中で暮らすことはできないのか?」

「そしたら、また捕まって研究所に入れられちゃうよ」

「獣人を飼ってる人もいるんだろ? そういう風にはできないのか?」

「獣人保護法っていうのがあってね、獣人についてのルールみたいなものなんだけど、それではペットにできる獣人は限られてるんだよ。特に、大型のネコ科動物の獣人は危険性も高いって言われてる。暴れたりしたら、人間には抑えられないからね。それで、飼うことはできない決まるになってるんだ」

 トドゥルユルは物言いたげに目を細めた。そっと、残った片耳に触れる。

「大事にしろって、言ってくれたのに」

 掠れた声に、ズンと心の深いところを突かれた。彼の耳のことを思うと、ホルス自身の羽や爪のことも、心に引っかかる。以前、捨ててしまった、そして今も捨て続けるしかない羽と爪が。

「大事にしてほしいと思ってるよ。でも、人間社会で安全に暮らすためには、人間の振りをするしか、方法がないんだ。切り捨てたりする必要はないけど、隠しておかないと」

「あんたは、ずっとそうしてきたんだもんな」

 またしても、心の深いところを――さっきよりも、もっとずっと奥まで貫かれた。顔の筋肉が変に動いて、表情が歪む。

「そう、なんだ……。俺には、それしか方法がない」

 声に動揺が表れないよう注意したが、口調は少し乱れていた。幸い、トドゥルユルは気づいていないようだ。前を向いたまま、そうだよな、と言う。

「あんたは、強いもんな。すごいよ」

「え? どこが?」

 意外な言葉すぎて、つい力一杯訊いてしまった。むしろホルスは、自分を平気で捨てる薄情さを恥じていたから。

 トドゥルユルは目を丸くして振り返った。彼にとってはホルスの反応が、予想外だったらしい。

「『どこが?』って、あんたは生きるために、たった一人で獣人差別が当たり前のところで暮らしてたんだろ? 自分で自分の羽を折ってまで。なのに俺は――この耳を隠すだけで、辛いなって思っちまう」

 トドゥルユルは自身の丸耳を手で押さえた。それを見ると、ホルスの内には嬉しさも悲しさも、それから先程感じた恥ずかしさも、とにかくいろんな感情が泉のように湧き上がってきた。また思いがけず認めらたことは嬉しかったが、それ以上に自分が失ってしまった心の柔らかさや素直さが眩しかった。きょうだいに対する彼の思いも、そうだ。その生き方を自分のものとしては受け入れられなくても、向き合うことから決して逃げない姿は目映いばかりだった。トドゥルユルが自分のすごさには気づかず、ホルスのことを「強い」なんて言うことすらも、なぜかとても煌めいて見えた。

「君の方こそ、すごいよ」

「え?」

 トドゥルユルは「本当に何を言っているのか分かりません」という感じに目を丸くしていた。つい、ホルスは吹き出してしまった。

「なに笑ってんだよ?」

「ううん、馬鹿にしてるわけじゃないんだよ。ただ、俺とは全然ものの見方が違うんだなって、思ったんだ」

「なんだ、それ」

 トドゥルユルは前に向き直って言い、再び足を踏み出した。ホルスもそれに続いた。


 下りながら、話をした。トドゥルユルは、ホルスが口を切らなければ何も言わないけれど、話しかければよく喋った。

「俺さ、果物が好きなんだ。みかんとか、さくらんぼとか、それに、ぶどう。うまかったな」

「君の住んでたところでは、そんなの手に入らないんじゃない?」

「やって来た人間が持ってて、分けてくれたんだよ。今から思えば手懐けようとしてたんだろうけどな」

 そっか、と返しつつ、複雑な思いになった。けれど当の本人はケロリとしている。

「人間の暮らしをするんだったら、果物、たくさん食べれるかな?」

「食べようと思えば、食べれるんじゃない?」

「あんたは、食べたことある?」

「ううん。果物は、そんなに。俺、酸っぱいのが苦手でさ。甘いやつならおいしいだろうけど、酸っぱいと、こんな顔になっちゃう」

 言いながら、ホルスは振り返ったトドゥルユルに向かって口をすぼめて目を細めたしかめっ面をして見せた。トドゥルユルはきょとんとしていた。

「何してんだ?」

「なんでもないよ……」

 面白いことをしたつもりなのに、意味すら通じないのは辛い。


 それよりさ、とホルスは声に張りを出した。

「さっきの続きだけど、俺と一緒に来るなら、アードウィッチっていう町が良いんじゃないかって考えてるんだ」

「アードウィッチ?」

「ああ、君の住んでた岩山からもそう遠くないし、かと言って標高は高くないから、俺でもそこまで寒くない。アームリムカークからは、まあまあ距離もある。それに、いろんな人種の人間が住んでるから、見た目で目立つことも少ない」

 へえ、と応じてから、トドゥルユルは眉をひそめた。

「ジンシュって?」

「簡単に言えば、ヒトの種類のこと。肌の色や骨格、それに髪質みたいな遺伝的な特徴で、人間はいくつかの種に分類されてるんだ。君みたいな髪の色をした人種もあるから、毛の生えた部分と耳を隠せば獣人とは思われないよ」

 「隠していれば」というフレーズを口にした時、胃に重いものを感じたが、トドゥルユルには気にした素振りは見られなかった。

「じゃあ、帽子かぶって袖の長い服を着ればいいんだな」

「そういうこと。服は俺が途中にある村で、適当に調達してくるよ。その間、ちょっと隠れて待っててね」

 トドゥルユルの頭が前へ傾いた。頷いたのだろう。

「よーし。じゃあ、とりあえず人里近くまで行こう。それと――」

 ホルスは言いながら、ひょいとトドゥルユルを抱き上げた。目を白黒させる彼に、笑ってみせる。

「練習は、もう十分だよ。早くこの寒いとこから抜け出さないと、俺、凍えちゃうからさ」

「そんなに寒い? 今、六月だぞ」

「そりゃ、マイナス四十度とかの環境にいた君には余裕だろうけどね。俺は元々、暖かいとこにいるイキモノなの」

「でも、鷲かなんかの獣人だろ? この辺りにもいるよ」

「鷲にだって種類があるんだよ」

「じゃあ、あんたはどんな種類なんだよ?」

 何気ない問いは、けれどホルスの胸の痛いところへ、真っ直ぐ飛んできた。心がさざ波立つ。そっと目を閉じてそれを静め、足でタンと地面を蹴る。

「ハーピーだよ」

「ハーピー?」

「そう。ハーピーイーグル。鷲の中でも、かなり大きい部類じゃないかな。まあ、俺は獣人だから大きさはそんなに関係ないけど。ジャングルに住んでる鷲だよ」

「ジャングルって、本当にあるんだな」

 トドゥルユルの言葉は、実際にジャングルに住んでいたホルスにとって、思いがけないもので、少しおかしかった。そのお陰で、強ばりかけた心が解れた。ハハ、と声を上げて笑うと、トドゥルユルはいよいよ不愉快そうに顔をしかめた。

「なんだよ、お前、そうやって俺のこと馬鹿にして」

「いや違うんだよ、ごめん」

 笑いすぎたのか滲んできた涙を手の甲で拭い、ホルスはトドゥルユルのプラチナの髪を撫でた。

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