第8話 「大好き」と「会いたい」

 さっき通ってきたところを逆に辿り、ホルスとトドゥルユルは峰を下っていた。行きにはあった緊張と高揚がすっかり消えたせいか、体が重く、足は進まなかった。もうすっかり夜の闇は消え、太陽が高く上っている。

 トドゥルユルはホルスが抱きかかえようとすると嫌がった。その抵抗は本気のそれで、めいっぱいの力を込めた腕も押し戻される程だった。これでは、それこそ体に障る。そう思い、ホルスは自分の手を拒む頑なさを受け入れることにした。その代わり、トドゥルユルがよろけたり足を滑らせそうになった時にすぐさま助けてやれるように、彼のすぐ後ろにぴったりくっついて進んだ。


 思った通り、トドゥルユルはしょっちゅうよろけたし、足を滑らせた。その度にホルスは彼の体を支えたが、毎回激しい抵抗にあった。何十回と続くと、さすがに我慢も限界だった。

「いい加減にしてくれないかな?」

 しばらく行くと、ホルスは声を尖らせた。転んで尻もちをついたトドゥルユルは俯いていた。その頭へ向けて、ホルスは言った。

「その怪我した体を、あちこちぶつけてちゃ、もたないでしょ。尻尾なくて上手くバランス取れないなら、無理して険しい道、歩くなよ。あと――」

 ホルスはドカッとトドゥルユルの隣に腰を下ろした。

「今はここで休憩」

 それから、トドゥルユルの頭へ手を伸ばす。そっと、触れるか触れないか程度の力で撫でる。トドゥルユルはビクッと肩を跳ね上げたけれど、もうその手を払いはしなかった。

「ねえ、あの子と何を話したの?」

 トドゥルユルの整った顔が、大きく歪んだ。より深く俯き、垂れた髪で表情が隠れる。ホルスはトドゥルユルの髪へ触れていた手に、今度はしっかり力を込めて撫でた。

「無理に聞き出そうなんて、思ってないよ。でもね、君はとても辛そうだから」

 つい先刻、ホルスはトドゥルユルの言葉に救われたのだ。「お前の方が辛いだろ」「大事にするよ」そんな言葉が嬉しかった。だから、少しでも今の彼を救ってやりたかった。

「話して楽になりそうなら、話してみて」

 トドゥルユルは俯いたままだったが、しばらくすると掠れ声がした。

「同じことが起こってた。俺のいない間に」

「同じこと?」

 繰り返せば、トドゥルユルの体が強ばった。ギュッと力のこもった拳が、震えている。

「子どもが産まれたって。もう一人のきょうだいに。俺と同じでまだ子どもだけど、俺たちはたいてい十二歳で独り立ちするし、そのくらいの歳で子ども産む子もいる。けど、まだ体が小さくて、産むのに酷く苦しんだらしい。何とか産んでも弱ってて、それでも子どもたちに乳飲ませてやらなきゃならなくて、一ヶ月で弱りきって死んだって」

 トドゥルユルの引きつった声は、そこで途切れた。「同じこと」が何を意味するのかが分かったホルスは、トドゥルユルの背に手を当てた。そっと、さする。

「分かったよ。話してくれて、ありがとう」

 トドゥルユルは、ずっと鼻をすすった。

「イツァピは産まれた子どもを、自分の子として育ててるって。ノビヌに似てて、とてもかわいいって。それで――ノビヌのお陰で飢えなくて済んだって。子どもたちも、早い段階で乳離れすることになったけど、きっと初めに食べたのがノビヌの肉だったから大丈夫だったんだろうって。ノビヌが、みんなを助けてくれたんだって」

 トドゥルユルの声は、そこで大きく震えた。そんな都合のいい話、あるかよ。ノビヌが死んでくれて良かったみたいなさ。ノビヌがどんだけ苦しかったか、考えないのかよ。トドゥルユルは、「でもさ」とホルスの方を向いた。目は濡れて、鼻は少し赤くて、髪が一房、頬に貼り付いていた。

「イツァピは最後、俺のこと、大好きだって言ってくれたんだ。どこにいても大好きだって。それは本当なんだ。分かるんだ。イツァピは俺のことも、お母さんのことも、ノビヌのことも、大好きだった。きっとノビヌの子どもたちのことも、大好きなんだ。お母さんの時の、あの男の人と同じなんだよ。イツァピはいい子で、ただ生き物は当たり前に死ぬし、死んだらただの肉だって割り切れるだけなんだ。それだけ。俺にはできない。できないけど、でも、でも――」

 トドゥルユルが瞼を下ろし、両の目から涙が転げ落ちた。抑えきれない潤みで揺れた声が言う。

「俺もイツァピが大好きだ」

 嗚咽が出始め、トドゥルユルの背中が震えた。ホルスはそこへ置いた手で、ぐっとトドゥルユルを引き寄せて、抱きしめた。


 ホルスの腕の中でたくさん泣いたトドゥルユルは、疲れたのか、それとも気持ちを吐き出して安心したのか、眠っていた。美しい絹のような白髪をそっと撫で、ホルスは周囲を見渡した。まだ標高が高く、雲の切れ端が所々に浮かんでおり、四方に広がる灰色の山々は空の中で切り立っている。下の方へ目をやれば、全てのものが小さい。渓流は糸のように細く、割れた地表は地図のようだ。少し遠くまで視野を広げると、地球の丸みまで分かった。トドゥルユルはこんなところで暮らしていたんだなと思うと、不思議な感慨が湧いてきた。信じ難いほど壮大で、厳しい環境。死と隣合わせだから尚のこと、死生観の違いは重くのしかかっていたのだろう。自然の残酷さに気がついた時点で、きっとこの子はここの住人ではなくなっていたのかもしれない。


 考え事をしていると急に辺りが陰って、緊張が走った。とっさに上を仰げば大きな雲が頭上を横切って行った。ほっと息をつく。すると、腕の中がもぞもぞと動いた。

「どうしたの……?」

 頭をもたげ、まだ開ききらない目をこする姿には少年らしさがあってかわいらしい。ホルスはポンとトドゥルユルの頭に手を乗せた。

「いーや、なんでもないよ。ちゃんと休めた?」

「うん……」

 まだ眠たげな、語尾のぼやけた返事だった。

「急がないから、まだ寝ててもいいよ」

「いや、大丈夫」

 少し声がしっかりしてきた。

「じゃあ、ちょっとずつ進もうか」

 ホルスはトドゥルユルを抱えたまま立ち上がった。

「いいよ、自分で歩く」

「そうやって、また無理する気でしょ。駄目だよ」

「違う、そうじゃない。さっきのは――悪かったよ。ひどい八つ当たりだった。ごめん」

 この子は本当に素直だな。そう思ったが、だからといって無理を認める訳にはいかない。

「謝ってくれて、ありがとね。けど、俺は君に無理して体痛めてほしくないんだって」

 ホルスはトドゥルユルを抱えたまま歩を踏み出しかけた。けれど、トドゥルユルは「待って」と言った。

「自分で歩くって。俺は尻尾がまた生えてくるわけじゃないから、バランス取って歩く練習しないと。体は随分楽になったし、無理は絶対にしないからさ」

「そう?」

 予想外のところに言葉が来て、弱い疑問系の返答しかできなかった。仕方がなく、トドゥルユルを下ろす。確かに、これから先、生きていくには今の体に慣れる必要はあるだろう。けれど、このタイミングでそんなことを言い出すなんて。気持ちの切り替え、というか、回復の早い子だ。

「きょうだいのこと、残念だったね」

 ゆっくり歩き始めながら、切り出した。トドゥルユルの今の気持ちを知りたいと思ったのだ。

「うん。でも、起こっちゃったもんは、しょうがないよ」

「平気なの?」

 少しの間があった。

「うん、まあ、大丈夫。泣いてすっきりしたし」

 それにさ、とトドゥルユルの声が急に深まった。一音一音、大事にするように言葉にする。

「俺、イツァピに会えて、嬉しかった」

「そっか」

 ホルスはそう返して、前を向いた。自分もきょうだいに会えたらいいのにと、少し、思った。

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