第7話 再会とバイバイ

 上へ向かって強く吹く風に押されながら、岩山を登っていく。雲に隠れていた峰々の連なりが見えてきた。周囲を漂う氷の粒が皮膚を湿らせる。吐く息は暖かく、しかし吸い込む空気は酷く冷たくて肺が凍りそうだった。元来、暖かい場所を好む質のホルスには過酷だったが、腕の中のトドゥルユルは気持ち良さそうだった。

「なんか、懐かしいな」

「嬉しい?」

 トドゥルユルは目を伏せた。

「分かんない。けど、嫌な気分じゃない」

 そっか、と返し、ホルスは寒さで声が震えないよう喉に力を入れた。

「そろそろ峰に近づいてきたけど、どの辺に行けば会えるか分かってきた?」

 一番近い峰なら、十分で着くだろうが、遠くとなるとここからでも骨が折れる。しかも初夏の今は、おそらく高いところにいるだろう。食べ物を集めて、朝まで休んだ方がいいかもしれない。けれど、トドゥルユルの指し示した場所は、思ったよりも近かった。

「俺が人里に下りる前にいたのは、ここから二つ目の峰だ。一番低いところ。でも、移動するから、そこにいるかは分からない」

「でも、そこにいる可能性もあるんでしょ。それなら、行ってみよう」

 トドゥルユルは「うん」と短く答えて、前方の峰をじっと見つめた。

「緊張する?」

 訊ねると、トドゥルユルの目元が少し緩む。

「いや。ただ、会って、俺は無事だって伝えたら、二人は何て言うかなって」

「仲は良かったの?」

「俺がいつも不貞腐れてたから、あんまり仲は良くなかったかも」

「そっか」

 ホルスは、そう言ってから声を明るくした。

「まあ、なるようになるよ。大丈夫。俺もついてるからさ」

「うん」

 力のこもった返答に、ホルスは安心した。

 しばらく進むうちに、空が白んできた。そろそろ夜明けだ。トドゥルユルの言う二つ目の峰も一段と近づいてきた。もうゴツゴツした山肌まではっきりと見える。一歩、また一歩と進んでいき、とうとうホルスの足は目的の峰へ降り立った。

「ここ、遠くから見るより、かなり急だね」

「岩山の峰だからな」

 トドゥルユルはキョロキョロ辺りを見回した。ホルスも歯がカチカチ鳴りそうなのを堪えて、視線を巡らせる。

「誰もいないね」

 声をかけても、トドゥルユルは何も応えず、目を閉じた。ピンと立った耳が前後に少し動く。近くに潜む微かな気配がないか、確かめるように。ホルスも目を凝らした。

 しばらく続いた沈黙は、トドゥルユルがカッと瞼を開いた瞬間に破られた。ビュンと鋭い音を立てて、何かが飛びかかってきたのだ。

「あっ」

 急なことで、ホルスは反応できなかった。胸に来た強い衝撃。足を踏ん張ってよろけそうな体を支えたが、しかし、その時既に、抱えていたはずのトドゥルユルは腕の中にいなかった。

「トドゥルユル!」

 叫んで、辺りを見回す。なびいた白い髪が、斜面を転げ落ちて行くのが分かった。ホルスはタンと地面を蹴って、後を追った。胸がドクドクと激しく鳴る。けれど、彼が落っこちた辺りへ駆けつけてみれば、気軽い感じの笑い声が二つ重なって聞こえてきた。

「アケオイアルアイ、テデュ」

 先程「何か」と思ったそれが、トドゥルユルに話しかけていた。彼とよく似ている。長く豊かな毛に覆われた尻尾も、長めの毛が蜜に生えた体も、花柄のような斑点模様の美しさも、瓜二つだ。けれど、髪は肩にかかるくらい長く、体格はトドゥルユルよりも少しばかり華奢に見える。女の子なのだろう。満面に笑みを広げている。

 トドゥルユルの頬にも、嬉しそうな気配があった。

「テオデアイ厶オ」

 トドゥルユルは短く答えたが、女の子の方は言葉が追いつかないくらい捲し立てている。ホルスには何を言っているかは分からないが、けれど、トドゥルユルの帰りを喜んでいるのは一目瞭然だった。

 心が、軽くなった。トドゥルユルの話から想像していたよりも、ずっと親しそうだ。またきょうだいで仲良くやっていけるだろう。

 けれど、女の子が言葉を紡ぐ間に、トドゥルユルの表情は曇っていった。

「ヌオヌタマ、アマルユオヌオイナ?」

 やっと口を開いた彼の声は、語尾の上がった疑問で、怒りを含んでいるように思えた。女の子はきょとんとしている。

「ビテスウヌアイ」

 トドゥルユルの眉が苦しげに寄せられる。彼は、ぐっと歯を食いしばったかと思うと、気持ちを抑えたような静かな調子で言った。

「アイスイチアナイルヤ、アイアロアレノアイ」

 ついさっきまで元気に立っていた丸耳は、萎れた花のようになっていた。

「ジヌキデイ」

 言い切ると共に、俯いたトドゥルユルはきょうだいへ背を向けてこちらへ戻ってきた。

「行こう」

 彼がホルスの横を掠めた時、活気がごっそり抜け落ちた声がした。仕方がない。ホルスも踵を返した。その時、

「テデュ!」

 背後から大きく張った声がした。振り返る。女の子はこちらへ向かって、何かを叫んでいた。その顔は、土砂降り間際の空のように歪み、けれど愛情が満面に輝いているような、美しい表情だった。その言葉は長くて、ホルスには、聞き取ることが難しかったが、トドゥルユルを意味しているのだろう「テデュ」と「ドアイスウキャイ」という単語だけが、何とか聞こえた。寒空の高くまで上るような声だった。トドゥルユルも、彼女に背を向けたままではあったが、それでも、こう返した。

「アアリマ、ドアイスウキャイド!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る