第6話 アルガリの目とお母さんの瞳(2)
さらに時が経ち、トドゥルユルたちもあと一年で独り立ちかという頃、母が怪我をした。大きな怪我だった。崖から落ちそうになったトドゥルユルを庇い、代わりに母だけが落ちてしまったのだ。岩面に何度も体を打ち付けながら転げ落ちた母は、トドゥルユルたちきょうだいが駆けつけた時には虫の息だった。どうしようと途方に暮れていた時、別のユキヒョウ獣人が現れた。大人の男だった。彼は母の状態を見て、すぐに言った。お前たちの母は助からない。楽にしてやろう。
彼が首へ鋭い牙を立てて噛み付くと、母は事切れた。
眼前で行われた非情な行いに、トドゥルユルは愕然となった。母の瞳から命が消える瞬間を見た。見てしまった。アルガリの目に宿った魂が消えたのを見たのと同じように、母がただの肉の塊になった、その時が、目の奥にまで焼き込まれた。
しかし、それだけでは終わらなかった。母の命を取ったユキヒョウ獣人は、トドゥルユルたちにこう言ったのだ。
「さあ、これでお前たちも、しばらくは食うに困らないぞ」
弾丸のようだった。熱く、無慈悲な弾丸に胸を撃ち抜かれたようだった。心が血を流しているのが分かった。
しかし、トドゥルユルのきょうだいたちは、そのユキヒョウ獣人の言葉をあっさり受け入れ、母の亡骸をむさぼり始めた。今の今まで、彼らを守り育ててくれた母を、何の躊躇いもなく食らっていた。母の体に流れていたはずの血が、きょうだいたちの口を汚していた。母を食らえと言ったユキヒョウ獣人は、「それはお前たちのものだ」と言い、去っていった。
トドゥルユルは目の前の光景を受け入れることができず、母をむさぼるきょうだいたちへ何も告げずに、その場を離れた。そうして、崖を下りた。ここは自分のいる場所ではないと思ったからだ。人間たちとの方が、きっと分かり合えると思っていた。山で親しくなった、あの白衣の男の元へ行くつもりだった。けれど、そこで彼を待ち受けていたのは、拘束、監禁、実験の日々だった。そして、数日の内に、研究所本部であるアームリムカークへと連れていかれたのだ。
トドゥルユルが言葉を切ると、見計らったかのようにビュンと風が唸りを上げて走り抜けていった。尻の下の岩面が、急に冷たく硬くなった気がする。ホルスはしゅんと垂れたままの片耳を見つめていた。
「今では、分かるんだ」
トドゥルユルが再び口を開いた。
「お母さんを殺した、あの人の言ってたことは、きっと間違ってない。あの時期は雪も深かったし、食べるのに苦しかった。母親なしで俺たちが生き延びるには、ああするのが一番だった。それに、あの人は、俺たちからお母さんを奪ったりしなかった。自分も食べるのに苦労していたはずなのに、横取りしようと思えばできたはずなのに。だから、きっとあの人はいい人だった。客観的に見れば。でも……」
トドゥルユルの声は、そこでさらに力なくなった。
俺の気持ちは、ついて行かなかった。お母さんを食べろなんて当たり前みたいに言うあの人も、言われた通りに平然と食べるきょうだいも、受け入れられなかった。
ホルスは何と言えば良いか分からず、ただ項垂れるトドゥルユルの後頭部を見つめていた。サラサラと美しく風になびく純白の髪。汚れなど知らなそうなその持ち主は、これまでどれほどの辛さを舐めてきたのだろうか。
しかし、同時に引っ掛かりも覚えていた。トドゥルユルは思った通りユキヒョウ獣人としては異例と言える知能を備えている。だからこそ、彼は生死の概念を理解し、豊かな感情や倫理観を身につけ、そして自然の理の非情さに気づいてしまったのだ。彼だけ、どうして? いや、彼だけではないのかもしれない。話を聞く限り、彼の母親もまた、他の獣人とは違っているように思える。この母子は、もしかしたら特別だったのかもしれない。
一度、大きく深呼吸する。白くなった自分の息が、風にさらわれて飛び去っていった。
「じゃあ、これからどうするつもり?」
「分からない」
トドゥルユルは、そう答えつつも、俯けていた顔を上げ、真っ直ぐに前方の岩山を見た。
「けど、きょうだいの無事を確認するくらいはしたい。無事を伝えるくらいはしたい」
「そっか」
ホルスは応じ、すっくと立ち上がった。膝の上にいたトドゥルユルも持ち上げられる格好になり、彼は驚いた様子でホルスを見た。その丸くなった目を見つめ返し、にっと笑ってやる。
「だったら、サクッと行っちゃおうよ」
う、うん……。語尾のぼやけた調子で返してきたトドゥルユルの頭を、ポンと軽く叩く。
「君は偉いね。立派だよ」
トドゥルユルは首を傾げた。瞳には、全く意味が分かりませんとでも言うような疑問の色がある。ホルスが吹き出すと、きょとんとするばかりだったトドゥルユルの顔が不満げに歪んだ。
「なんだよ?」
「いーや、なんでもない。かわいくってさ、つい」
「あんた、俺のこと子どもだと思って馬鹿にしてるだろ?」
「してないよ」
そうだ。馬鹿になどするはずがない。本当に立派だと思ったのだ。受け入れられないきょうだいへ背を向けて去るだけでなく、ちゃんと向き合おうと思っている。それを実行しようという勇気がある。ホルスにはできない、立派なことだ。
「よし、じゃあ、ちょっとペース上げよっかな。ちゃんと掴まっててね」
言えば、トドゥルユルはギュッとホルスの服を掴む。素直だな、と思う。そうして、タンと岩を蹴った。
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