第5話 アルガリの目とお母さんの瞳(1)
「急がなくていいの?」
大きな岩に二人並んで座り休んでいると、トドゥルユルが訊ねてきた。
「さっきまで、すごい焦ってたのに」
「ううん、もういいんだ。予定変更したからね」
へえ、と返したトドゥルユルは納得しきっていない様子だったが、それ以上食い下がっても来なかった。
ホルスは、声をより和らげた。
「それよりさ、君、体は痛くない? 横になってもいいんだよ」
「いいよ」
「でも、岩は硬いし、無理すると体に障るよ。俺の膝の上に来る?」
「……いい」
応じる声は、少し小さくなった。顔を隠すように俯いた彼を見て、照れているのかもしれないなと思った。
「恥ずかしくなんかないよ。君、十歳かそこらでしょ。そのくらいの子だったら、大人にくっついてても全然変じゃない。遠慮しなくていいよ」
「十三歳」
トドゥルユルは顔を下へ向けたまま言った。
「君の歳?」
うん、と答えたトドゥルユルの頭へ、ポンと手を乗せる。
「十三歳でも、おかしくないよ。でも、嫌なら無理にとは言わない。体がキツくならないようにね。痛いの、我慢しちゃ駄目だよ」
トドゥルユルは、また「うん」と応じた。
それからは、あまり話さなかった。ホルスはトドゥルユルの後ろに座って、その背を見つめた。頭に辛うじて残った片方の丸耳。大事にすると言ってくれたことは、ホルスにとっても救いのようだった。
しばらく休んで進み始めると、不思議と先程までより楽な道に思えた。歪な形の岩々の織り成す道は確かに険しかったが、その歪さのお陰で引っ掛かりができ、むしろ滑らずにすんだ。平滑な岩だったら、足を取られてかなわなかったはずだ。
トン、トン、トンと、落ち着いて岩から岩へ跳んでいく。本格的な岩山が目の前に迫ってきていた。聳える岩と岩の間を強風が吹き荒ぶ。立ち止まり、風に煽られる髪をそのままに、ホルスは訊ねた。
「君、家族と一緒だったって言ってたよね。どの辺に行けば会えるか、分かる?」
少しの間があった。ビュンと音を立てて風が走っていく。
「分からない。それに……俺、家族と一緒に暮らすつもりはない」
思いもよらない返答だった。
「どうして?」
問えば、トドゥルユルは物憂げに瞼を伏せた。
「たぶん、俺は他のみんなとは合わない」
「合わないって?」
また訊ねながら、ホルスは岩に腰を下ろした。今度はトドゥルユルを抱いたまま。「下りる」と急にジタバタしだした細い体をギュッと力を込めた腕で押さえつける。
「だーめ。体、痛めてほしくないからね。今回は俺の膝の上にいて」
はっきり言葉にすると、トドゥルユルは意外にもあっさり観念したらしい。なんだよ、と不満を零しながらも、おとなしくなった。ホルスは肩で息をついた。
「で、さっきの話。合わないって、どういうことなの?」
トドゥルユルの目に、再び悲しげな気配が差した。
「俺は……みんなと違うんだ。みんなが普通にやってることを、俺一人、受け入れられない」
「普通にやってること?」
片方だけの丸耳が、後ろ向きに倒れた。岩と平行になるくらい頭を垂れたトドゥルユルは、掠れ声で答えた。
「他の生き物を食べること」
それから、彼は自身が生まれてから人に捕まるまでの間のことを、少しだけホルスに明かしてくれた。
従来のユキヒョウも、その獣人も、人里離れた崖の上でひっそりと暮らしている。冬は雪をしのぐため比較的低地で、夏は暑さから逃れるために高地で過ごす。そのどちらの環境にも彼らの美しい毛並みは溶け込み、外敵や獲物から見つかりにくい。カムフラージュのための白銀色と斑点模様をたよりに、彼らはたった一人で他の生き物を狩って生きてゆく。
けれど、子どものうちは母親と共に行動する者がほとんどだ。ユキヒョウは生後約二年、獣人は約十二年を経て独り立ちする。細い岩の隙間に産み落とされたトドゥルユルも、また崖の上でのほとんどの時間を母と過ごしていた。母は彼の他に二人の子を産んでおり、三人の子どもを連れて崖の上での生活を送っていた。険しい高地には生き物も少なく、それだけ狩りも難しくなる。母は、やっと捕まえたなけなしの食糧のほとんどを子らに与え、自分はその残りで何とか飢えをしのいでいた。
「お母さん、僕、他の動物を食べたくないよ。かわいそうだもん」
そろそろ九つになるかというある日、トドゥルユルは、そう打ち明けた。他のきょうだいは、さも当然のようにアルガリやバーラルの肉をむさぼっていて、いつ頃からかそれを目にするのも自ら食すのも苦しくなっていた。それは、つい先刻まで命あったはずのアルガリの目に、まだ魂の宿って見える瞬間があったからだ。自分の食べているものが「生きていた」のだという実感と共に、それを食らうことへの嫌悪感にゾッと肌が粟立ち、どうしようもなかった。母はトドゥルユルの思いを聞いて、丸い目を優しく細めた。
「お前は賢い子ね。賢いからこそ、優しい。でも、それはとても辛いことね」
賢く、優しい。そして、辛い。その時のトドゥルユルには母の意味することを理解するのは難しかったけれど、それでも言葉一つ一つに自分の感情をそっくり認めてもらえたような気がした。自分はおかしくも間違ってもいないのだと思えた。しかし、母は表情を曇らせた。
「でもね、トドゥ、お前は他の生き物を糧にしなければ生きてゆけないの。そういう風に生まれついてるのよ。だから、食べなくては駄目。食べないと、お前は死んでしまう。そんなことになったら、お母さんは悲しい」
まっすぐ見つめてくる切なげな目は、トドゥルユルの胸をギュッと締め付け、心へ影を落とした。その影は今もまだ残っている。とてもとても優しいのに、酷く悲しくなるような、そんな目であり言葉だった。
母を悲しませたくなかったトドゥルユルは、アルガリを食べた。バーラルもマーラルも食べた。仕方がなかった。きっと、そうしなければならないと決まっているのだ。だから、嫌だと思う気持ちになんとか蓋をして、少しずつ、少しずつ、食べた。
トドゥルユルに人間の友人ができたのは、母に食べたくない気持ちを打ち明けた一年ほど後だった。彼と会話を重ねるうちに、人間の中にも他の生き物を糧とすることに心を痛める者がいると知った。雑食性である彼らは、菜食主義を貫き、肉を糧とすることを拒んでいるという。その話を聞いてから、トドゥルユルは肉以外に植物も多く食べるようになった。元来、肉食である彼には、植物のみで生きることはできなかったが、それでも肉以外の物で少しでも腹を満たせることで、心は少し軽くなった。人間のことを色々と教えてくれた白衣の男は、山を去る前、トドゥルユルにこう告げた。君は他の獣人よりも、ずっと賢い。人間社会でも生きていけるはずだ。もしここでの生活が嫌になったら、私を訪ねて来るといい。ここを下りてすぐの研究所の支所にいるからね。
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