第4話 旅立ちと少しの救い

 トドゥルユルを残し、ホルスは再び檻へ向かった。監視カメラの映像を抜き取るために。もうこれ以上、トドゥルユルをここには居させられない。安全な場所へ逃がしてやりたい。けれど、カメラにホルスが映っていては、即疑いの目が向けられる。だからカメラのデータは処分しなければならない。

 脚立に乗り、天井の角に取り付けられたカメラの小さなカバーを開ける。そこにはカバーから想像されるよりもさらに小さなカードが差し込まれていた。引き抜く。しかし、胸を撫で下ろす間もなく、声が飛んできた。

「やっぱりなあ」

 振り返れば、ニタリと粘っこい笑みを貼り付けたハーブとガチリと視線が重なった。

「お前、あのガキと随分仲が良かったからなあ。まあ、そうだよなあ。『お仲間』だもんなあ」

「どういう意味ですか?」

 肩で息をつき、再び背を向けてゆっくり脚立から下りる。

「言葉通りの意味だぜ。あの握力。普通の人間じゃねえ。どういう訳か、てめえはジマーマンのお気に入りだから正体バレずに何年も働いてるがな、俺ら同僚はみんな気づいてるぜ。てめえは――」

 言いかけたハーブは、しかし、続く言葉を口にはしなかった。いや、口にできなかった。瞬きの間に詰め寄ったホルスが、首へ手をかけたのだ。ぎゅっと握って、喉を押し潰す。

「そこまで分かってたなら、どうして俺にこうされると思わない?」

 手に込めた力を、少し緩める。決して放しはしなかったが、それでもハーブの気管には僅かに空気が入ったらしく、ハア、ハアと息が漏れ始めた。

「あんたらが疑ってることくらい、知ってる。でも、あんた自身、言ってたじゃないか。俺はジマーマンさんに気に入られてる。だから、あんたがいくら俺の正体について騒ぎ立てたって、痛くも痒くもないよ。でも、物証はさすがにまずいからね。これは、ちゃんとしないと」

 監視カメラから取り出した小さなカードを顔の前で振り、ニコッと笑ってポケットにしまった。そうしてハーブを解放する。

 ハァッ、ハァッ、ハァッと、深く荒い呼吸が狭い狭い檻に反響する。両手を床につき、肩を上下させる姿を見つめる。次第に肩の動きが小さくなってくると、ハーブは下から睨み上げてきた。

「今に見てろ、いつか、てめえを……地獄に落としてやる……!」

 苦しげな息の隙間から、何とか話しているという様子だった。ホルスは、またニッコリと笑みを貼り付けた。

「地獄に落とす方法って――」

 言いながら、ハーブの上着のポケットへ手を突き入れる。

「もしかして、これですか?」

 引き抜いたそれを、先程のカードと同じように顔の横で揺らしてみせる。小型ボイスレコーダーだった。ハーブの顔が、鳩尾に一発食らったかのように歪んだ。

「物証は困るんですよ。だから、ごめんね」

 ホルスはボイスレコーダーをぐっと握り込んだ。パキパキパキッと軽い音がして、中の薄く小さな物体は粉々になった。手を開ければキラキラ光を反射しながら破片が落ちていく。

「じゃあ、俺、急ぐんで。また」

 言って背を向けたが、すぐ「そうだ」と立ち止まる。

「妙な真似したら、今度こそ容赦しないんで、そこんとこ、よろしく」



 言葉通り、早足で部屋へ戻った。ドアの前で深呼吸し、心を平たくしてから慎重に開ける。

「トドゥルユル」

 囁くくらいの声で言った。返事はない。まだ眠っているのだろうか。ゆっくり近づけば、トドゥルユルの体が呼吸に合わせて僅かに膨らんだり萎んだりしているのが分かった。ひとりでに頬の筋肉が緩んでくる。

 ホルスは机へ向かい、先程手に入れた小さなカードをパソコンへ差し込んだ。カタカタとキーボードを叩き、自身がトドゥルユルの元へ駆けつけた部分のみ映像を削除する。そうして、再び部屋を出ると、元のようにカードをカメラへ差し込んだ。


 また部屋に戻った時には、既にホルスの警備時間が始まっていた。今ならトドゥルユルを安全に逃がしてやれる。寝息を立てるトドゥルユルを、そっと揺すった。

「トドゥルユル、トドゥルユル」

 低めた声で呼べば、トドゥルユルは薄く目を開いた。

「ヌオナイ?」

「え?」

 ヌオナイ、と聞こえた。語尾が上がっていたから、おそらく疑問形ではあるのだろう。ヌオナイ? どこか気の抜けた感じのする音で、かわいらしい。

「今から、ちょっと外に出るよ」

 この状況で抱きうる疑問に答えようと思って、そう言う。トドゥルユルは瞼を大きく開けた。

「外に?」

 人語になっている。目が覚めてきたらしい。

「そう、君を逃がしてあげようと思ってさ」

 視線を合わせて、片目をつぶってみせる。トドゥルユルはきょとんとした。

「目、どうかしたのか?」

「なんでもない」

 ホルスは肩で息をついた。文化の壁は厚いな。

「とにかく、急ごう」と、ホルスはトドゥルユルを横抱きに抱え上げる。

「自分で歩ける」

「いーや。今は、ただ歩けるだけじゃ駄目なんだよ。速く歩かなくちゃ。いや、走った方がいい。とにかく、急ぐからね」

 そう言って、奥の壁際まで行くとガラリと窓を開けて外へ出た。


 ほとんど、風はなかった。けれど、あの研究所のように空気が重く滞っている感じもしない。草木は絶え間なくサラサラと微かな音を立て、虫の音は空高くまで響いている。全てが軽く、流れている。緩やかに動くひんやりした夜気は、肌を湿らせ心地良い。

 ホルスは腕の中のトドゥルユルへ話しかけた。

「君、どの辺りで暮らしてたの? 北の山の方?」

「うん」

「じゃあ、そこまで連れてってあげるね」

 地面を蹴る足へ力を込めた。早くしないと他の従業員が起きてしまうかもしれない。いや、ハーブが誰かに告げているだろうから、少なくとも彼に近しい人間にはバレているには違いない。けれど、疑われるのは「ハーブに近しい人間」に留めておきたい。これ以上、敵を増やすのは得策ではない。何より、気が休まらない。

「あのさ」

 頭の中でつらつら考えを巡らせていると、トドゥルユルが切り出してきた。

「何?」

 応じれば、トドゥルユルの体が少し緊張する。

「悪かったよ。助けてくれたのにひどいこと言って。ごめん」

 一瞬、ポカンとなった。それから、急に笑いが込み上げてきて、つい吹き出した。トドゥルユルが声を尖らせる。

「何笑ってんだよ?」

「ごめんごめん。なんかホッとしちゃってさ」

「なんでホッとするんだ?」

「さあね、俺にもよく分からないや」

 言い切ると同時に、ターンと岩を蹴って跳び上がり、別の岩へ着地する。大きな岩が目立ち始めた。足場がどんどん悪くなる。トドゥルユルの暮らしていたのだろう北の山は、大小様々な岩が天に向かって切り立った峰だ。写真で見たのみではあるが、灰色の岩肌が露出した山の頂きは、見るからに険しく、羽もないのにここに住みつくなどホルスには考えられなかった。しかし、ユキヒョウもユキヒョウ獣人もそこで暮らしている。飢えて絶滅していないところを見るに、他の生き物も生息しているのだろう。

 羽さえ使えればな。

 つい、そう考えてしまったが、この背の羽の小ささでは、ホルス一人であっても飛べない。トドゥルユルを抱えた状態では、羽ばたいたところで体は僅かほども浮かばないだろう。であれば、とにかく急がないと。

 再び焦り出した時、トドゥルユルが口を開いた。

「羽、使えないのに、ごめんな」

 ハッとした。余裕のなさが伝わっているのだ。ホルスは跳び乗った岩の上で足を止めた。

「謝んのは俺の方だよ。こんな焦りまくってたら、不安になっちゃうよね。ちょっと、休もうか」

 そう言って、そっと下ろしてやる。自分の足で立ったトドゥルユルは、けれど、すぐによろけた。

「大丈夫!?」

 慌てて体を支えた。足にも怪我をしていたのだろうか? その疑問にトドゥルユルがすぐ答えた。

「なんか、上手くバランス取れない。尻尾がないからかも」

 トドゥルユルを座らせてやる間に、理解が追いついた。トドゥルユルは、というかユキヒョウやその獣人は、あの尻尾で体のバランスを取っていたのだ。そう思えば、切なくなった。いつも体に巻き付けていた、大事そうに咥えていた尻尾。

「辛いよね。尻尾、大事そうにしてたのに」

 トドゥルユルは目を丸くした。その驚きを、下りてきた瞼が呑み込んでいき「いや」という返事が来た。

「辛くないわけじゃないけど、でも、あんたの方が辛いだろ?」

「え?」

 今度はホルスが目を白黒させていた。トドゥルユルは少し顔を伏せる。

「だって、俺のこれは一度きりだけど、あんたは何度も羽とか爪とか、折ってんだろ? しかも、自分でさ。何度も自分を傷つけて、それでもこうやってニコニコしてさ。キツくないわけないよ」

 パッと、心へ陽が差した。なぜだか分からないが、トドゥルユルの言葉はホルスの心を明るく照らしてくれた。

「大事にするよ」

 トドゥルユルが、急に声の調子を落とした。「え?」と、また疑問が口から零れる。トドゥルユルは声に力を込めて、繰り返した。

「大事にする。この残った右耳。あんた、そう言ってくれただろ。だから、大事にする」

 先程、心へ差した陽が、さらに明るさを増してくる。どういう訳か、目の縁が沁みる。

「ありがとう」

 白髪にポンと手を乗せて言った。その時、ホルスは心に決めた。この子を、ちゃんと最後まで守ってあげよう。故郷に置いてきて終わりにするのではなく、ちゃんと。

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