第3話 暴力と告白
トドゥルユルの檻まで来た。瞬時に、夜目の利くホルスには全てが見え、胸を貫かれたような衝撃と痛みが来た。
トドゥルユルはうつ伏せに倒れていた。普段眠っている時ならば、体にしっかり巻き付けているはずの尻尾はない。本当に、ない。尻尾のあった場所からは、とめどなく血が流れ、床に真っ赤な血溜まりを作っている。
「トドゥルユル!」
ほとんど叫んでいた。駆け寄り、抱き上げ、顔を見た時、ハッとした。真っ白だったはずの髪の左半分が、赤く染っている。その赤色は、上の方へ行くに従って濃くなり、一番濃いところ、そこにあったはずの丸耳が、ない。ホルスは考えるより早く、まだ残っている右側の耳に触れていた。大丈夫だ。こっちはちゃんと付いている。それから、ぐったりと垂れた腕を持ち上げ、手首の脈を確かめる。トク、トク、トク、と一定のリズムで打つ脈動に少しホッとはしたが、それでも深く抉られるような心の痛みは一つも和らがなかった。トドゥルユル、トドゥルユル、トドゥルユル。縋るような気持ちで何度も名前を呼んだ。
すると、突然、カッと目が見開かれた。その瞳は、一瞬酷く怯えた光を映したが、すぐに敵意を孕んだそれに変わった。トドゥルユルは眉間と鼻柱に幾本もの皺を作って表情を凄め、ホルスの肩に噛み付いた。が、痛くない。いや、痛いことは痛いのだが、ネコ科の動物に本気で噛み付かれたならば、激痛が走るはずなのに、そこまでの痛みではないのだ。まさか、と思って、無理矢理トドゥルユルの体を自身から引き離すと、暴れようと藻掻くのを抑えつけ、正面から歯を隠す唇を押し上げた。思った通り、最も鋭い四つの牙が、全てへし折られていた。
顔面の筋肉が強ばり、目の縁が熱くさえなってきた。トドゥルユルは相変わらず必死でホルスを威嚇しようとしている。そして、彼は牙を失ったその口を動かし、何かを言った。何かは、分からない。けれど、それははっきりと意図を持った言葉に違いなかった。おそらく、ユキヒョウ獣人が使っている言語なのだろう。それが、真っ直ぐにホルスへぶつけられていた。いつくも、いくつも、ホルスには理解できない言葉が紡がれた。石つぶてのように飛んできた。意味は分からなくても、非難されているのは痛いほど分かった。当然だ。ホルスと同じ、ここで働く警備員がこんなことをしたのだ。何かあれば駆けつけると約束したのに、ホルスは来なかったのだ。
ごめん。
自分の声が聞こえた。繰り返していた。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。そうして、トドゥルユルを抱きしめた。また噛みつかれるだろうと思ったけれど、そうせずにはいられなかった。いや、噛みつかれれば良いと願った。傷ついたトドゥルユルがどれだけ強く歯を立てたところで、ホルスが彼ほど傷つくことなどできない。その上、負うだろう怪我も、すぐに治ってしまう。トドゥルユルは取り返しがつかないほど痛めつけられたというのに。だからせめて、思い切り噛み付いて傷つけてほしかった。彼の痛みの何分の一かでいいから、与えてほしかった。
けれど、トドゥルユルは、もうホルスに歯を立てたりはしなかった。いつの間にか、意味の分からない罵倒も終わっていた。腕の中の、まだ筋張ってばかりの細い体は、すっかり力が抜けた様子だった。そうしてホルスの肩に額を当て、泣き始めた。噛み締めた歯の隙間から、すぐに嗚咽が漏れ始める。押し殺しているのだろう、その小さな声が、ホルスの鼓膜に貼り付いて離れなかった。
ホルスはトドゥルユルを自室へ運び込み、手当てをした。牢ではあれだけ敵意を剥き出しにしていたというのに、彼は終始、おとなしかった。傷口に触れると、ビク、と体を強ばらせはするものの、それでも声は一つも出さなかった。
一通りの処置が終わると、ホルスはトドゥルユルを自身のベッドへ運んだ。そっと布団を掛けてやる。頭を撫でれば、視線を上げた大きな目と目があった。ひとりでに口角が上がる。トドゥルユルの頭に当てていた手を、耳の方へ持っていった。まだ残っている、けれど萎れた花のように下を向いた丸耳へ。
「これは大事にしなくちゃね」
途端に、丸耳が動いた。やや後ろへ向かって突っ張ったそれは、怒りを表していた。
「分かったようなこと、言うな」
トドゥルユルがやっと発した人語は、ホルスの心を抉った。ハーピーに狡い内面を言い当てられた時のような、初めてトドゥルユルと喋った時に目から鱗が落ちたような感覚が、甦ってきた。
でも、違うんだ。
心の中で、言った。
全てが分かるわけじゃない。でも、分かる部分も、あるんだ。
ホルスは頬の筋肉を押し上げ、申し訳程度の笑顔を作った。
「これを、見てくれる?」
分厚い手袋を、外す。
トドゥルユルは目玉が零れ落ちそうなくらい、瞼を見開いた。視線の先のホルスの手は黄色く、そして鋭い鉤爪を思わせるような漆黒の爪が付いていたのだ。しかし、それは途中で折れ、先が磨かれ丸くなっている。
「それ……」
続く言葉がなかったのか、トドゥルユルは声に詰まった。ホルスは、また少し笑うと「もう一つ」と言い、警備員用のジャケットとシャツを脱いだ。背を向ける。息を飲む気配を、羽に感じた。
そう、羽だ。ホルスの背中には羽が生えている。小ぢんまりとしたものだが、確かに羽が。背の方から見える肩羽は黒く、そして内側は真っ赤。いや、そこは本来、白かった。それが赤くなってしまったのだ。
正体を隠すため、爪を折って手袋をはめ、羽を折って切り捨てた。当時は激しい痛みと自己を捨てる辛さに苛まれはしたが、こうすればなんとかなると信じてもいた。
大間違いだった。絶ったはずの爪が、羽が、一日経つと生えてきてしまったのだ。どうしてかは分からなかったが、血を分けたきょうだいの中でも、どうやらホルスだけがこうだった。何度折っても生えてくる。折って、折って、また折って。繰り返すうちに血が羽に染み付いた。そしてある時気がついたら、新たに生えてくる羽までも、内側は真っ赤だった。
ホルスはトドゥルユルに、自身が爪と羽を折った経緯と、その後の再生について、ざっと語った。背を、向けたまま。トドゥルユルの声が訊ねてくる。
「その羽、本当はもっと大きいの?」
「うん」
短く答えた。本来、この羽は広げれば四メートルは優に超える巨大なものだ。そうでなければ、人と同程度の大きさの体で飛ぶことはできない。ホルスの羽がこんなにも小ぢんまりとしているのは、一度切り落とし、再び生えてきてジャケットの下に隠しきれなくなってくると、また折る、というのを繰り返しているからだ。
「痛くないの?」
「痛いよ」
振り返って、笑ってみせる。
「だから、君の痛み、少しは理解できるんだ。そりゃ、自分の意志で折るのと、他人に無理矢理引きちぎられるのとでは、違うけどさ」
しゃがんでベッドの縁に頬杖をつき、トドゥルユルを見つめる。
「少し眠るといい。それまで傍にいるから」
トドゥルユルの眉根が不安げに寄る。おそらく「それまで」という言葉に含まれる意味に気がついたのだろう。眠ってからは、ここにはいないという意味に。けれど、彼は頷いた。また、頭を撫でてやる。
「大丈夫。鍵はかけておくし、すぐ戻ってくるから」
もう一度、トドゥルユルが頷いたのを確認し、ホルスはそっと彼の瞼に触れた。
「だから、ちゃんと眠ろうね」
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