第2話 「ハーピー」と灯台の足元
あれは、酷かったなあ。ホルスは細長く伸びる廊下を歩きながら、思い返していた。あの「事件」があったからトドゥルユルと親しくなれたのは確かだ。そして、ホルスにとって、話の通じる獣人との関わりは喜ばしいことだった。けれど、あんな仕打ちをするなんて、あまりにも酷だ。ここにいる獣人のほとんどは無理矢理仲間や家族から引き離され、あるいは自由な孤独を奪われ、狭い牢に放り込まれたのだ。毎日、調査や実験のためにいじくり回され、満足などするはずもない僅かな食糧しか与えられない。その上、あんな虐待を受けるなんて。身が持たないだろう。ここの人間は百年前のイリエワニの獣人の頃から、ちっとも変わっていないのだ。
握った拳に力が入った。分厚い手袋越しにも、爪は皮膚に食い込む。それでも廊下を蹴る足は、なるべく音を立てないよう、そっと動かした。獣人たちの休息の時間を邪魔したくはない。
けたたましい声がしたのは廊下のはずれまでやってきた時だ。
「ホルス! ホルスじゃないか! お前、まだここで働いてんだねえ!」
見れば、短く切られた太くて真っ黒い爪をした両手が、檻の鉄格子を掴んでいた。その間から、格子にぴったりつけた顔がホルスの方を向いてギョロギョロ目を動かしている。ホルスと視線が重なると、その獣人の口は両端から裂かれたような笑みを形作った。
「灯台は足元が暗いし、鼻の下のもんは見えにくいからねえ。あんたにとっては、ここが一番安全なわけだ。狡い奴だねえ。アタシみたいに捕まっちまった他の獣人を利用して」
「うるさい、ハーピー」
そう言い、ホルスは顔をそむけた。背中へ蛆虫の群れが這い上ったかのように嫌悪感が走り、耐えられなかった。肌が粟立ち、髪の根元はぎゅっと縮まっている。ヒャッヒャッヒャッヒャと甲高く粘っこい笑い声がした。黒い爪が格子を引っ掻いたのか、鋭い金属音が鼓膜を切りつけてくる。
「それは、あんたもだろう! 醜いハーピーだ! たまたま見目よく生まれたって、中身は怪物だ! ゲャヒャヒャヒャヒャッ!」
「他のみんなは休んでるんだ。静かにしてくれ」
「黙らせたいなら、その警棒を使うといいよ! ここの警備員はみんなそうしてるだろう? どうしてやらないんだい? あいつらの仲間になりたいんじゃないのかい? それとも――」
ハーピーは、そこで言葉を止めるとヒャッヒャッと掠れた笑いを漏らした。そして、いかにも内緒話をしていますという風に声を低める。
「その手袋を外してみるかい? それでアタシを切り付けたらい――ア゛ッ」
ハーピーの声を絶ったのは、ホルスの手だった。首を掴み、手袋をはめたままでも鋭いその爪で頸動脈をつつく。
「手袋を外すまでもない」
白目の濁ったハーピーの目を睨んだ。
「他の獣人を利用して? あんたの言えたことじゃないだろ」
口にした途端、頬が引きつった。自分のしていることと、過去に目の前の老婆のしたことが同時に脳裏に去来し、思考も感情も大きく波打って、どうしようもない。俺だって、本当はこんなこと――。
ホルスは手を放した。四つん這いになって咳き込むハーピーを見ると、不思議と胸が痛んだ。その気持ちを認めたくなくて、逃げるように踵を返す。そうして、先程、辿っていた通路へ戻った。一階の自室へ行くために。
ベッドへ潜り込み、頭から布団を被った。この研究所では従業員に寝泊まりするための部屋が与えられている。二人一部屋がほとんどだが、運良くホルスは一人部屋だ。夜行性の者も昼行性の者もいる獣人の警備や世話を二十四時間体制、且つ少人数で行うには、泊まり込みが一番効率が良いという訳だ。担当は時間ごとに入れ替わる。そのため、アラームは欠かせない。ホルスは二時間後に音がなるように時計をセットし、目を瞑った。
疲労が体をベッドの底まで沈めようとしている。一般的な成人男性よりも余程体力のあるはずのホルスでここまで疲れるのだ。他の従業員は、さらにだろう。そう、ここで不当な扱いを受けているのは、獣人だけではない。従業員もまた、酷使されている。睡眠は一時間から三時間の短いぶつ切りの時間を、一日に数回しかとれず、食事もゆっくり味わって食べる余裕などない。誰もが五分程度でかきこみ、すぐに仕事へ戻るか、あるいは少しでも多く睡眠をとるためベッドへ直行する。
トドゥルユルを酷くいじめるハーブも苦労しているには違いないのだ。彼は十代で出産した娘と生まれた子の生活を支えるべく、ここで働き続けている。仕事に就いたばかりの頃はフサフサだった髪は、ストレスのせいか僅か五年の間で禿げ上がり、今は頭頂部に産毛のような毛が少し生えているだけだ。以前は健康的に見えていた象牙色の肌も、だんだんに暗くなり、今では土気色と言っていいものに変わってしまった。それもあり、まだ四十を越えたばかりだというのに六十近くにしか見えない。肉体的にも精神的にも蝕まれているのだ。それで、日々積もっていく苛立ちを、ああして発散させているに違いない。同じ状況にいるホルスには、理解することならできた。
けれど、許すことはできない。そう思うからこそ、ホルスはここに居続けているのだ。そのつもりだった――いや、そういう風に思い込もうとしていた。先程のハーピーの言葉に、思いがけず自身の卑怯な心を言い当てられて、酷く動揺していた。動揺したから、暴力に訴えた。きっと、それはハーブがトドゥルユルにしたことと、大差はない。
ぴったり閉じた瞼の裏に、様々なものが浮かんでは消えていく。ハーピーの下卑た笑みと苦しげに咳き込む様子。ハーブの暴力の快感に恍惚となった表情。トドゥルユルの丸耳を抑えて耐え忍ぶ姿。手にはホルス自身が振るった暴力の感触が甦ってきていた。
疲れているのに、全く微睡みに落ちていけない。神経がギンギンに起きている。一時間もぎゅっと目を瞑っていたが、ついには眠るのを諦め、上体を持ち上げた。ちょうどその時だった。
笑い声に気がついた。二重、三重に反響しながら、廊下を走ってくる。
とっさに頭に浮かんだのは、ハーピーだったが、それなら、もっと近くから聞こえるはずだ。けれど、声はずっと遠く、そして複数だった。獣人たちの檻の奥の方で何かが起こっている。
ちくしょう、と唇を噛み、ホルスはベッドから飛び出した。布団なんか被っていたせいで、気づくのが遅れた。
当然のことだが、ネコ科の獣人に比べて、ホルスはそう耳が良くない。それなのに寝室で耳を塞いでいた。とんだ間抜けだ。
急げ、急げと、頭で言葉にし、自分を急き立てながら進んだ。嫌な予感がしていたのだ。ちょうど、ハーブとトドゥルユルの件を思い出したからかもしれない。トドゥルユルの檻は最奥にあるし、彼は他の獣人と比べても虐待されることが多かった。おそらく、彼の美しい毛並みや整った顔立ちが嗜虐心を刺激するのだろう。神獣を虐待しているのだという恍惚感もあったのかもしれない。
そして、あの笑い声。近づくにつれて、聞こえるそれが一人ではないことに気がついていった。いかにも大勢で何かを痛めつけることを、面白がって居るような下品さがあった。開けっ広げた残酷さを肌にビンビン感じて、総毛立った。いつの間にか、もう聞こえなくなったそれらは、今なおホルスの胸を抉っていた。何人もの人間に暴行されていたのだとしたら、怪我をしているに違いない。酷く怖い思いもしたことだろう。どうにか、早く駆けつけたかった。
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