ハーピーとユキヒョウと甘酸っぱいぶどうの話

ぞぞ

第1話 ホルスとトドゥルユル

 ある生き物は森の中に住み、醜い怪物と蔑まれていた。そして、また別の生き物は崖の上に住み、神獣と崇められていた。

 

 甲虫のように黒光りする鉄の檻。扉部には物々しいほどの存在感を放つ太いスライド錠と南京錠が取り付けてある。ホルスは黒い手袋をはめた手で素早く南京錠へ鍵を差し込み、スライド錠を横へ滑らせ解錠した。バケツを持つ手に力がこもる。少し息を整え、扉を押した。

 ギイという低く太い音。扉を後ろ手に閉めながら、おはよう、と声をかけたが、中の毛の塊には動く気配すらなかった。昨日まではピコンと丸い耳を立てて身を起こしたのに。まさか、と思って駆け寄ると、毛の塊が静かに膨らんだりしぼんだりを繰り返しているのが分かった。耳をすませば、微かな空気のそよぎも感じられる。間違いなく夢の中にいる者が立てる音だ。胸を撫で下ろし、ホルスは顔を寄せて、もう一度、言った。

「おはよう」

 途端、毛の塊からピコンと丸い耳が立ち上がった。ゆっくり体を起こし、重たそうに瞼を開いた「彼」が尋ねてくる。

「もう飯の時間?」

「そうだよ」

 応じながら、ホルスは「彼」を正面に見る。先程まで毛の塊に見えていたその大部分である尻尾は、長く太く豊かな毛に覆われている。丸めた体に巻き付けて眠っていたのだ。体の方にも、顔と手のひら、足の裏以外には長めの毛が密に生え、まるでプラチナのように滑らかな白銀色だ。花柄を思わせる斑点模様が、さらに美しい。顔を見れば、白髪の中からピョコンとのぞく丸耳以外は人のそれとほとんど変わらないこの少年は、ユキヒョウの獣人だ。


 初めて獣人が現れたのは、もう百年以上前のことだ。南国の孤島で見つかった一人目はワニの獣人で、調査の結果、普通のイリエワニの子であることが判明した。

 突然変異という現象に違いなかったが、一体なぜこんなにも急に大きな遺伝情報の変態が起こったのか、著名な研究者をもってしても、皆目見当もつかなかった。そこで人々は原因究明と生態調査に乗り出した。イリエワニの獣人の血液や皮膚片からDNAを採取して調べたり、鏡や迷路を用いて認知能力を測ったりと、様々な調査や実験が行われたのだ。慣れない環境で眠る暇もない程いじくり回されたイリエワニの獣人は衰弱し、一ヶ月も経たずに死んでしまった。

 その間にも、二人目、三人目、四人目と獣人が発見された。彼らは捕獲後、研究対象となったが、どんどん現れる獣人を全て捕らえることはできず、次第に野生の獣人が増えていった。一方、野良や放し飼いの犬や猫が突然獣人の子を産むケースも起こり、いつしか獣人のペットも、そう珍しくはなくなっていった。依然、獣人の生まれた原因は解明されないままではあるが、ここまで数が増せば、受け入れる他にない。獣人に関する法が整備され、獣人のための様々な商品が開発された。今では獣人用のペットフードが売っている商店も珍しくはない。

 とは言え、獣人が研究対象でなくなったわけではない。百年余りの間に彼らを取り巻く環境は変化したが、未だに獣人実験は多くの専門機関で行われている。その中でも、最も権威ある学者、ジマーマン博士を有するのがアームリムカーク研究所――ホルスが獣人の飼育員兼施設の警備員として働く場所だ。


「どうぞ」

 ホルスは手に持ったバケツを差し出し、床へ置いた。少年は眉も動かさないまま、バケツへ手を突き入れると、生肉を掴み出し食べ始めた。ネコ科の獣人は、顔を直接バケツへ突っ込んで食べる者も少なくないが、この子は必ず手を使った。おそらく、「こちら」を食べるために、手先が器用になったのだ。

「ほら、これも食べるだろ?」

 ホルスが手にした小さな包みを顔の横で揺らせば、今度は少年は嬉しそうに目尻を下げる。

「うん」

 包みを受け取り、複雑に絡んだ紐を手早く解く様子は、本当に人間のようだ。獣人にはヒト程高い知能を持つ者は少ない。唯一、鳥の獣人のそれだけは人を凌ぐのではとも言われているが(羽とは別に手が発達したことにより、知能が高くなったのではないかとの仮説が唱えられている)、ネコ科の獣人に関しては、そう賢くはないと見るのが一般的だ。けれど、このユキヒョウ獣人の少年は、他の同族よりも高い知能を有している。少なくとも、ホルスにはそう感じられた。そもそも、こうしてヒトの言葉で会話できることも、野生の獣人では珍しいのだ。

「ねえ、君、トドゥルユルっていったよね?」

「うん」

 そう応えた少年――トドゥルユルが包みの中の木の実を丁寧に一つ一つ口へ運ぶのを見つめる。

「君の仲間が、君をそういう風に呼んでたってこと?」

「うん、仲間っていうか、家族だけど」

「じゃあ、その家族もヒトの言葉を話せたの?」

「いや」

 トドゥルユルは相変わらず木の実をカリカリ噛んでいたが、その目には少し悲しげな気配が差した。

「他のみんなはヒトの言葉は話せなかった。俺は……人間の友だちがいたから喋れるんだ」

「人間の友だち?」

 つい、トドゥルユルの言葉を繰り返していた。普通のユキヒョウ自体が最も高地に棲息する哺乳類と言われているくらいだ。その獣人も、当然、同じように標高の高いところに住んでいる。厳しい環境ゆえ人と出会すことは滅多にないはずだ。だからこそ、ユキヒョウ獣人は神秘的なイメージを抱かれ、神獣とまで言われているのだ。

「それって、どういうことかな? 人間が君たちの住む場所にやって来たってこと?」

「うん、そう」

 もしかしたら、研究のために派遣された人たちがいたのかもしれない。

「君の友だちってくらいだから――」

「うるさい」

 トドゥルユルの声は、急に暗く低くなった。木の実を見つめていた目が、ホルスの方を向く。その眼差しには、獲物を狙う猛獣の鋭さがあった。

「静かに食わせてよ」

 ごめん、とホルスが言うと、トドゥルユルは再び木の実を摘んで口へ放り込み始めた。力が抜け、ホルスは自分の肩が強ばっていたことに気がついた。この子は無邪気なのかと思いきや、急に態度を尖らせる。人間の子どもも似たようなものだろうが、殊に彼は威圧的だった。肉食獣ゆえの殺気とでも言うのだろうか。そういうものを彼は既に身につけていた。

 しばらくして、木の実を食べ終えたトドゥルユルは、また体を縮め、長い尻尾を巻き付けた。ぐるっと回した尻尾の先が、ちょうど顔の前へ行く。彼はそれを、はむっと口に咥えた。これも彼の世話をしていて不思議に思っている点だ。どういう訳か、尻尾を咥えるのが好きらしい。フサフサの自分の尻尾に顔を埋めて、気持ち良さそうに目を細めている姿から、先程の獰猛さの片鱗はうかがえない。

 ユキヒョウって、不思議な生き物だな。

 そう頭で言葉にし、ホルスは深くため息をついた。

「もう行くよ。ゆっくり休むといい」

 檻から出る時、ありがとう、という声が聞こえた。


 この研究所の廊下は細長く、仄暗い。壁も床も鉛色をしている。トドゥルユルの檻は一番奥にあるため、彼の所へ行った帰りは長い距離を歩かなくてはならない。そして、慎重に足を踏み出しても、いやに音が響く。警備員の中にはこの音の反響しやすい環境を利用し、収容されている獣人を驚かせて面白がる輩もいる。警棒を檻に激しく打ち付けたり、急に大声を出したり。トドゥルユルのようなネコ科の獣人は耳が良いので、そういった悪戯は相当堪えるらしかった。びっくりして跳ね起き、檻の隅で小一時間震える者も、威嚇して叫び続ける者もいる。トドゥルユルの場合は、あの丸い耳を両手でおさえて身を縮め、長い尻尾を咥えてなんとか耐えている様子だった。その姿を面白がった騒音の元凶たる警備員が、トドゥルユルの檻をしつこく警棒で叩いたことがある。他の獣人に食事を与えていたホルスが、あまりの音の大きさに慌てて駆けつけた時、ちょうどトドゥルユルの我慢が限界に達したらしかった。彼は崖の上で培ったのだろう跳躍力で瞬きより速く檻の格子に飛びつくと、その隙間から腕を突き出し、警棒を握る手を掴んだ。驚いた警備員は警棒を落としたが、しかし、トドゥルユルは手を放しはしなかった。拳の骨が浮き上がり、手に力がこもったのが分かった。

 彼を止めたのはホルスだった。檻から伸びる美しいプラチナの毛に覆われた腕にそっと触れ、駄目だ、と言った。

「やめよう。怒る気持ちは分かるけど、こんなことをしても何にもならないよ」

 トドゥルユルは目だけ動かしてホルスを見た。切り付けるような、鋭い眼光だった。

「なんで分かる?」

 彼の言葉を初めて耳にして、ホルスは心底驚いた。語りかけはしたものの、言葉が通じるとは思っていなかったのだ。ただ真摯に応じれば、声の調子や雰囲気から、こちらの気持ちは伝わるだろうと考えただけだった。

 目を見張るホルスをよそに、トドゥルユルは続けた。

「あんたはこんな扱い、受けたことないだろ。いい加減なこと言うな」

 頬の筋肉が変に動いて、表情が歪んだ。その通りだ。これまで彼は多くの獣人に対し、細部の意味までは分からないだろうと、言葉を選ばずに話していた。そのことに初めて気がついていた。でも、と思い、トドゥルユルを見つめ返す。

「悪かった。『分かる』なんて言葉は、軽々しく使うべきじゃなかった。でも、何にもならないのは確かだよ。だから手を放すんだ」

 ホルスの真っ直ぐな視線の先で、ピンと立っていた耳が垂れ、瞳に差した敵意が引いていった。険が取れた目は丸くて澄んでいて、まるでガラス玉のようだった。いっぺんに幼い雰囲気が濃くなり、ホルスはやっと、このユキヒョウ獣人が十を少し越した程度の子どもであることに気がついた。ふうと息をつくと、もう力のこもっていない手を、そっと引き離した。

「ごめんね」

 トドゥルユルは俯いて首を振った。その時、ホルスの隣で気配が大きく動いた。

「このガキ……!」

 ひっくり返った怒声と共に警棒が掲げられていた。それが思い切り振り下ろされる、という間際、ホルスは手で掴んで止めた。ぐっと握り込むと、手袋越しに鉄の硬さが伝わってきた。

「懲りない人だな」

 どんどんどんどん、手にこもった力は増した。獣人たちをいじめて面白がることへの嫌悪感が手に宿り、収まらなくなっていた。さらにさらに強く握ると、

 途端に、パキ、という手応えがし、鉄の硬い抵抗が消えた。怒りが霧散し、代わって理性が戻ってくる。しまった……。

 ホルスは、すぐさま手を放した。

「すみません、俺、握力強くって」

 ヘラっと作り笑いを貼り付けて、先程、警棒を破壊してしまった手を開いて振る。

「おやすみなさい、ハーブさん。ここの後片付けは、俺がやっとくんで。また明日」

 ハーブが物言いたげに睨んできたので、すぐにこう言葉を繋ぐ。

「俺、ハーブさんを心配してんですよ。ハーブさんが今やってたことは、ここの就業規則にも獣人保護法にも抵触しちゃうでしょ? だから今回のことが知られたら大変じゃないですか。でも、俺としては、後で事実が分かった時に『見て見ぬふりをした』って責められても困っちゃう。だからお互いのために、こういうことは起こらないようにした方がいいと思うんです。監視カメラもあるから、上の人たちが急に、警備員の素行を見直す、とか言い出したら即アウトだし」

 目の前の顔が、砂でも噛んだように歪んだ。けれどすぐ、ハーブは地図のような亀裂の入った警棒を放り捨て、背を向けて廊下を闊歩していった。二重、三重になって響く足音が、長い廊下の先へ遠のいていった。

 ホルスはトドゥルユルへ視線をやった。彼は丸い耳を前へ傾け、硬直していた。ハーブの足音の残響すら届かなくなって、ようやく耳から緊張が解ける。

「ありがとう」

 トドゥルユルが口を開いた。先程は彼が人語を話せることへの驚きで気が付かなかったが、その声はいかにも声変わりの途中という掠れたものだった。トドゥルユルは少し耳を後ろへ下げてホルスを見つめている。

「あの……あんた、もしかして――」

「握力が強いんだって」

 ホルスは明るく、けれど強めた調子で遮った。

「鍛えてるからさ」

 そうおどけて、肘を曲げ、上腕にぐっと力を入れる。大してできない力こぶにどれだけの説得力があるかは分からないが、そうする他にない。

「それから、ごめんね。君のこと止めておいて、俺の方があんなことしちゃってさ」

 首を振ったトドゥルユルに、ホルスは笑った。

「まあ、またいじめられても、ああいうことはしない方がいい。警備員は警棒だけじゃなく、何らかの薬を持ってることもある。それを使われて暴力振るわれたら、大変だよ。今回みたいに大きな音が鳴れば俺がすぐ来てあげるから」

 トドゥルユルはホルスの視線から逃れるように顔をそむけて「うん」と言った。ホルスは檻の中へ手を入れる。そうして、ぽんぽんと優しく頭を叩けば、その髪は真綿のように柔らかく絹のように滑らかだった。

「じゃあ、またね」

 そう残し、ホルスはその場を後にした。

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