霧の幻影:Side 蚕飼白 5


 「ハァッハァッハァッハァッ……」


 ひび割れたアスファルトに、枯葉、暗闇と霧の中でそれらを踏みしめて越えてゆく。深い霧の中で、おれは計測山へ向かっている。……霧のせいで進めているのかは全くわからない。あの幽霊魔術師のせいでおれは霧の中に閉じ込められているのだと言われても不思議に思わない。それだけこの深い霧は幻のような感覚を覚えてしまう。

 どれだけ走っても、どれだけ進んでも、同じところをめぐる、うねり曲がった道をぐるぐると進んでいるようだ。

 だが、それでも、おれは進む。

 絶対に、奴を、殺す……。人を、殺すことになる……か……。

 あのようなカスでも人を殺すというのは罪深い。だが、罪を背負うならおれが適任だろう。これから何をする予定も……ほとんどない。由美だけが心残りだが……奴を殺さねば、由美も死ぬ。家族も死ぬ。世界も終わりだ。おれたちが……終わらせねばならないのだ。


 霧の果てに駐車場が見えた。

 ――着いたか……。

 確信。

 勘の良いおれは気づき始めている。

 だからこそさっきまであんな事を考えていたのだろう。

 おれは、ここで死ぬ。

 なんとも、弱気な勘だ。だが、間違いはない。

 だが、一矢報いずにここでただ殺される気はない。どうせ殺されるのならば、奴の腕でも足でも、道連れにしてやる。

 

 おれは駐車場を越え、計測山展望台へ向かう。奴は、おそらく展望台の上だろう。展望台へ続く道を進む。霧の中で、前も見えない筈なのに、道筋がしっかりとわかる。おれの勘は冴えわたっている。今なら銃弾だって避けられる。だからこそ……おれの死も確信できる。


 ……由美……。


 死の確信を得る度に、由美の顔を思い出して、何か、大きなものを失った気がする。まだ失ったわけじゃない。まだ終わったわけじゃない。まだおれは死んでいない。勘が良かろうと、確信を得ようと、それが決まりきった未来じゃない。

 おれには……由美との約束がある。


 おれは鉄製の階段を上ってゆく。おれはバットをがっしりと握りしめる。

 おれは更に確信する。

 奴を見れば、おれは怒りを爆発させて、冷静ではいられないだろう。

 ――それでいい。ゴタゴタとくだらない事を考えて足をすくませるよりも、派手に怒りを散らして、奴に一泡吹かせてやる。


 展望台の上は、雲海の中、孤立した島のように、霧が晴れている。海の方が騒がしいが、そんなことはおれには関係ない。

 おれの目には幽霊を引き連れたあのフードの馬鹿しか見えない。


 「一人で来たのか……お誂え向きに……。君、バカだね」


 嘲笑が飛ぶ。だが、そんなものはおれの耳には入らない。奴の隣にはあの高校の女子生徒が動けずに捕まっている。おれの手で助けられる存在が、居るのだ。このクズに一矢報いる意味が、更に増えた気がした。

 殺す。

 おれは真っすぐ奴に向かって駆けだす。バットをしかと握りしめて。


 奴は幽霊野郎を飛ばしてくる。幽霊野郎の突撃をおれは飛び、宙返りによって真っ直ぐ避け、その回転と落下の力をそのままにバットを奴の頭に叩き込む。


 『ガキィイイイイン!』


 奴は両腕でバットを受け止める。金属音が鳴り響く。


 「……!?ッ」


 『ミシッ……』


 奴の骨が鳴る感触が、おれの手に伝わる。ヒビが入った。

 おれは後ろから来る幽霊野郎の気配を察し、フードの奴を蹴り、後ろ目掛けてバットを振りながら飛ぶ。再び回転と位置エネルギーを利用して叩き付ける。おれに死角はない、この空間全てがおれの手中にあり、全てが完璧だ。

 奴はおれが殺す。

 殺す。

 殺す。


 『バシュウウウウウッ!』


 バットを受け止めた幽霊野郎の腕が蒸発する。既におれのバットには、あのカス野郎を凌駕する呪いがこもっているンだ。この街で殺してきた怪異。殺された人間。怯える人々。おれたち。そして、由美……全員の呪詛がこのバットには籠っている。おれはそう感じる。このゴミクズを掃除できるだけの力が、ここにある。

 ――このバットは、奴を殺すだろう。

 また、確信を得る。

 安心したぜ、ここでおれが死んでも、奴はこのバットに殺される。

 由美の呪詛も奴に届く。


 おれは着地し、振り向きざまに幽霊野郎に留めのフルスイングをお見舞いする。両腕が吹き飛んだ幽霊野郎は何か呪文を口走ろうとしていやがったが、それが完了する前に、おれのバットが奴の身体を消し飛ばす。


 『バシュウウウウウウウウウウウウウウウウッ!』


 「一手、足りなかったな」


 おれの周囲に突然、前に見たタコの化け物の腕が見える。拳と、手。避けることは不可能。おれはスウィングを切り返し、その出現した拳と手を叩く。


 『ゴンッ……』


 おれはその瞬間、あまりにも大きく、深く、そして、偉大な……存在としての格が違うものを見た。おれのバットはそれに比べ、酷く矮小で、弱々しく、頼りないものに思えてしまった。

 怒りも立ち消え、残っていたのは、恐怖だった。

 死への恐怖ではない。

 これは、全てを呑み込みうる力の、無限性への恐怖だ。

 おれは何度生まれ変わろうと、何度必死に生きようと、この存在の足元にも及ばず、この存在の一存で生かされているに過ぎない、ノミのようなものなのだと、直感的に理解できてしまった。

 巨大な手はおれをわしづかみにし、拳はおれの身体を幾度も殴りつけた。

 だが、そのどれもがどうでもよかった。

 おれは自らの意識にすら侵食する『それ』をただ茫然と見つめていた。


 「いあ、いあ、くとぅるふ、ふたぐん、ふんぐるい、むぐるうなふ、くとぅるう、るるいえ、うがふなぐる、ふたぐん」

 

 妙な発音で魔術師野郎がそう呪文を口ずさむ。

 おれは、目を閉じる。

 ああ、大きな、本当に大きな、『神』がおれを見ている。

 それは遥か海の底へとおれを引き込んでゆく。

 冷たい、深淵の海水の中で、おれは肺に残った僅かな空気を吐きだし、そのまま底へと引きずり込まれてゆく。

 

 声にならない喉の震えは最期。

 由美。

 そう、海水を震わせた。

 もう、夢へ落ちる。

 さようなら。


 ○:魔術師はバットを持ったまま死んだ、蚕飼白の死体に手を伸ばす。


 『バチッ!』


 「……ッ! ……コイツ……まあいい。生贄の一匹目がコイツとは、幸先が良い。すぐにキミも彼と同じ『幸福なる夢』へと送ってやるぜ? 加藤稲穂チャン」


 「……!」


 加藤稲穂は涙をにじませ、拳を握る。それ以上の身動きは取れない。


 「配下の夜鬼に死霊に全部奪われた気分はどうだい? ま、その状態じゃ喋れないけどネ……あ、そうそう」

 

 魔術師は蚕飼の死体に印を刻みながら、返答のできない加藤に一方的に話す。


 「キミのクラスの担任、『深きもの』の一族の末裔みたいでさぁ……あの人も好い生贄になると思うから……次はそっちに行こうかな……勿論、キミの生贄準備が終わってからだけど……ヨシ、じゃ、行こうか、楽しくなるよ~。くふふふふ……」

 

 彼は加藤と共にふわりと空へ飛び立ち、バイアクヘーや更なる怪物たちを伴って『世界岬』の灯台へとものすごい速度で飛んで行く。その途中、もう一筋の光が、『野鳥平』の方向へと別れていった。それはバイアクヘーら怪物を伴っていた。

 免田四恩らが展望台に着くのはその数分後のことであった。

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