霧の幻影:Side 免田四恩 2

 巨大で生気のない顔面はその無限とも思える肉を広げ、この公園を覆わんと侵食している。鼻、瞳、口、眉……人間の顔を構成する部品が不揃いに、無作為に出現し、広がる。それは地面を這い、おれたちは避ける間もなく取り込まれ、公園内に壁を形成、そして天井……。完全にこの怪異の中へと囲まれてしまった。

 皮膚と肉、顔面で構成された、ぶよぶよとしたこの【部屋】は前に見た幽霊屋敷に似ている。全てがこの怪異で構成された空間。奴のテリトリーだ。

 恐らく向こうの攻撃はこちらに必ず当たるだろう。

 

 ――だがそれは向こうも同じ。


 『バチュッドチュッ! ブシュウウウウウウ……』

 

 おれは地面を拳で殴りつける。手応えは薄い。だが煙は出ている。

 日隈は老人を抱えつつ片手に水鉄砲を持ち、周囲に『聖水』を撒いている。だが、地面は一向に皮膚が消え去る気配を見せない。

 ――本体を叩かねば無意味か?

 おれは悟る。

 この数十メートル四方に及ぶ箱庭空間に、あの怪異の本体……それは存在するのか?

 こいつらに常識は通じない。

 もしこの怪異の本体が数センチ程度の非常に小さな塊だったら?

 この肉の海の中でそのような大きさのものを、おれ達は発見できるのか?


 部屋を構成する肉が波打つようにうねる。そして、その皮の一部がおれの脚をからめとり、張り付く。

 沈むような感覚を覚える。

 日隈が叫ぶ。


 「うおおおおっ!? し、沈む!」


 日隈は老人を抱えている分、沈むのが速い。

 さらに天井が近づいてくる。

 

 「押しつぶすつもりか!? おれたちを、取り込むのか!」

 

 肌にへばりつく皮膚は、おれ達の身体にどうかしようと脚部を侵食する。その波打つ肉の中には様々な人間の手、顔、瞳……こいつの取り込んだ今までの犠牲者という事か。

 その中には赤ん坊が多く含まれている。


 「ウワアアアッ!?」

 

 日隈がもう腰まで浸かっている。マズい。

 おれは脚元に近づく無数の腕を拳を振り、払う。


 『ジュウウウッ!』


 「ぎぃいいいいいやあああああああああああああ!!」


 幾人もの金切り声が聞こえる。手応えアリ。捕食の際が一番無防備という事か?

 好都合だ。


 「オッサン! 腕を狙え!」


 おれはへばりつく皮膚と迫りくる腕を殴りつける。ジュージューと音を立て、赤子の絶叫がこの空間のあらゆる場所から鳴り響く、頭が痛い。

 よく見れば、この部屋の壁中に苦しみ泣き叫ぶ赤子の顔が無数に出現している。一体何なんだこれは。

 

 「クソッ、ダメだ……免田!」


 微かに日隈の方から声がする。見れば日隈は既に肩まで取り込まれている。片腕なので捌き切れないか。おれは迫る手を無視し、肉を掻き分け日隈へと向かう。

 

 『ブシュウウウウウウッ!』


 「ああああああああああああああああああああ!!」


 頭痛と背中や腰に縋りつき、へばりついてゆく無数の腕の重み。どうかしてゆく身体の感覚は妙に気分がいいというか……どうかを待ちわびているとすら感じてしまう。これがこの怪異の術中。

 うるさい。

 おれは懐から詰め替えの聖水瓶を取り出し、地面に叩き付ける。割れたガラスの破片が皮膚を傷つけ肉を抉る。おれの取り込まれつつある足が痛みを感じる。

 痛覚まで共有しつつあるのか。

 直後に燃えるような痛み。

 日隈と老人も叫ぶ。


 「うわああああっ……熱い、熱い! 燃える!」

 

 「おあああああっ……」


 老人は暴れ、日隈から離れようとする。

 これ以上は……しかし、天井がもうすぐおれたちの頭に到達する。


 「ああああああああああああ!!」


 天井に歯の生えた口が無数に出現する。

 おれに近づく腕も勢いを増す。

 おれは懐から更に聖水瓶を取り出し、足元に掛ける。

 焼けるように熱いが……我慢だ。

 

 「オッサン、そっちにもかける。爺さんをしっかり持ってろ」


 「手の感覚がなくなってきている……かけてくれ」


 残った聖水を投げかける。


 『ジュウウウウッ』


 「うううっ!」


 後ろの老人が更に暴れ叫ぶ。


 「うわあああああああああああ!」

 

 「マズい、手の感覚が……!」


 「それより、天井だ!」


 おれは叫びつつ迫る天井を支えるように拳を揚げる。


 『ジュウウウウウウウッ……』


 天井の肉が煙を上げる。老人が肉の海に溺れる。日隈も顎が浸かり始めている。

 怪異の側がスパートをかけている……だが、捕食の際に傷をつくのは向こうも同じ。おれが勝つ筋はそれだけだ。それだけを信じるしかない。

 おれは右腕を下げ、振り上げ、左腕を下げ、振り上げ、力の続く限り、肉を殴り続ける。

 

 「ああああああああああ!!」


 醜悪な赤ん坊の叫びが聞こえる。

 一発一発、口のある天井を殴りつける。

 拳に歯が当たり、おれの拳を斬りつける。

 だが、殴る。

 殴る。

 殴る。

 歯が折れ、おれの頬をかすめて飛ぶ。

 殴る。

 殴る。

 

 「ヌグウウウウオオオオオオッ!」


 日隈が藻掻く。

 左腕を突き上げ、灰を撒く。

 

 『ブシュウウウウウウウウッ!』


 肉がしぼみ、溶けて行く。

 おれはそれでもなお殴り続ける。

 歯のへし折れ、歯茎だけになった口。

 思ったよりも小さい?

 いや、小さくなっている。

 部屋の収縮は停止している?

 

 『ゴシャァアアッ!』


 肉が割れ、霧に包まれた外が見える。


 「ああああ……ぁぁあぁああぁぁ……」


 肉はドロドロと地面へとしぼみ、ある一点に収縮していく、それは、日隈の近く……。その肉に日隈と老人が引きずり込まれてゆく。

 

 「おっさん! 掴まれ!」


 『ガシッ』


 おれは日隈の左手を掴む。

 日隈は凄い力で引かれて行く。ブチブチと肉が千切れる音が鳴る。

 日隈は食いしばりながらつぶやく。


 「グウッ……爺さんが……」


 日隈は肉の中から現れた右手で、老人の手を掴んでいる。

 

 『ブチブチブチィイイッ!』


 「うぐあああああっ!」


 日隈の足から肉が千切れ、収縮する。

 肉の塊は一つの箱のような、小さな四角形に収まった。

 日隈は右手を離す。老人の手が地面に落ちる。


 「ああ、あああ……」


 老人は苦悶の表情を浮かべたまま、肩より下の身体を失った状態で死んでいた。

 

 「……クソッ……」

 

 おれはそう呟き、肉の塊のおさまった箱に袋の灰を掛ける。


 『ボシュウウウウウッ!』


 箱が溶ける寸前、無数の人間の小さな顔面が箱の表面に現れた。多くは赤子の顔だが、大人の顔も交じっている。

 その中には、先程の老人があった。


 ――人を取り込む匣……どこかで聞いた都市伝説のようだ。

 日隈はよろめきつつ立ち上がる。


 「……ウウッ……」


 おれは彼に肩を貸す。


 「オッサン、少し休むか?」


 「いや、大丈夫だ。少しひりひりするだけ……それよりも、救えるうちに、もっと多くの人を助けていかなきゃならん。次に行くぞ」


 おれ達はすぐにワゴンに乗り込み、江西町をめぐりつつ妻恋へと向かう。

 この手に救えるものは……きっと多くない。救えると思う事が高慢なことなのだろうと、常に、痛感する。

 殺された子供、殺された老人、殺された女性、殺された男性、それすらも怪異として、あるいは怪異の一部としておれらや他の人間を襲う。被害は加速度的に増え、呪いは指数関数的に増加していく。今までおれたちが抑えていたことが、まるで大した効果などないのだと、あざ笑うかのように。

 ――この原因を除かなければならない。

 そのために、おれはあの文学館で再び、あの資料を調べ上げなくてはならない。そして、あの文学館の幽霊……あの正体は、おそらく……。

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