一坪浜
一坪浜
○:M市は元々天然の良港と呼ばれ、かつては各所できめの細かい砂浜が広がっていた。だが、日本の工業化に伴う重工業への投資によって、北海道の製鉄拠点として開発が続いた1900年代以降、M市工業地域は埋め立てられ、多くの砂浜が消滅した。
今残っている浜は工業地域とは反対の岸にある大きな海水浴場と中央方面に点在する小さな砂浜が数か所。その中でも人の踏み入るように整備された浜は〈一坪浜〉ただ一つが残るのみである。
……この街がおかしくなっているのは誰もが知っている。けれどそれはあくまで都市伝説とぽつぽつと発生する行方不明事件……『私には関係ない』そう、皆が思っていた。私も襲われるまでは……。
この事件が起きた後、当然、部の活動に対して教職員から多くの疑念が寄せられた。
休み明けから私は胃のよじれる思いをすることになったけれど、部長の布施田君ならびに部員全員が今まで発生してきた学校内の事件に対して、また、行方不明生徒がいることに対して面と向かって教員たちに質問をして、部の活動の有用性を示してくれた。
おかげで私のもとに余計な仕事が来ることは減ったけれど、変わらない一部の教員の冷徹な目は出勤時間中ずっと私の心を圧し潰す。
担任クラスの加藤さんの不登校も続くうえに、休んでいた分の事務作業とで今日も土曜、休日出勤。明日も部活動の引率、『深夜の学校探査』……部員の子や布施田君たちは『引率は無くてもいい』と言ったけれど、やはり、責任と危険性もあって引率しないわけにはいかない。
……向いていないのかな。この仕事。
学校の駐車場で自分の車のドアを開き、ふとそう考える。
夕陽が空を朱に染めている。今日は晴天だった……けれどもうすぐ、霧が出る。
私はエンジンを掛け、駐車場から道路へ、そして下り道を行く。
前の『事故』があって以来、私は大橋を渡るのを避けて中央の高架道路を通って家に向かっている。途中でスーパーに寄れるから却ってその方が便利。……そう思う事にしている。
未だに夜になればあの車のエンジン音の幻聴が聞こえてくるようだ。背中にじっとりと冷たい汗をかき、全身の血液が凍ったような恐怖を思い出し、涙を流す。それはきっと、誰にも理解してもらえない、荒唐無稽な、神経の摩耗による幻覚なのだろう。
減市から中央へ……車を向ける。ドラックストアや個人レストラン、倉庫や廃墟が流れて行く。歩く人はあまりいない。代り映えのしない片田舎。
でもこの辺りは、昔父に連れられてよく来ていた。
確か、砂浜があったはず……。
お父さんか……。
私は父のくれたペンダントを握る。
?
ペンダントの、印が……光っている?
赤信号で止まる中、ふとお守りのペンダントを見て、それに気づく。
ペンダントのマークは一筆書きで描かれる星型の中に瞳のような印。小さい頃は少し怖くて、今でもあまりいい印象はない。けれど、私の事を守った、そう、思える、大事なペンダント。
『プーッ!』
「あっ」
既に信号は青、私はあわてて車を進める。
そう言えば、父とよく言った砂浜への道は確か次の交差点を右。
……せっかくの土曜日、家で眠るよりも、思い出に浸って夕陽を眺めるのも悪くない、かも。
私はそんな思いでハンドルを右に切る。
車……ここに停めていいのかな?
住宅街の端、道路の先に柵と下への階段があって、柵と一緒に『一坪浜 遊泳禁止』の看板があるだけ。
私は車を降りてその階段を降りる。
崖の下にはプライベートビーチのように三方を崖に囲まれた密かな砂浜がある。
住宅街の中に突然現れる崖、その下の砂浜。当然周辺の潮風は磯の香りを帯びている。
遠くには夕焼けに照らされる海と漁港の海に突き出した施設が見える。
キラキラと光る海が私の昔の記憶を呼び起こして、父の事を思い出す。
勤勉で無口。でも私を色々な場所に連れ出してくれる優しい父。
あの頃は海の反射する光や磯の香よりも砂浜で遊ぶことに熱心だった。
そんな中で、海を眺めている父は、どこか不安気で、それでいて懐かし気な表情を見せていたことを思い出す。海に何か、トラウマでもあったのだろうか。
日が沈むのを見届けるように、私は海に見入っていた。周囲を向いても住宅街は見えず、孤立した世界が広がっているようなこの浜は、時間を忘れて海を見るのに向いている。
さざ波の音に耳を傾けて、久しぶりの、安らかな気持ちを私は覚えた。
『バシャッ』
魚……?
気付けばもう夜。暗がりの中、霧が出始めていた。
霧……もう流石に帰った方がよさそう。
『バシャバシャッ』
海の水面に何か、いる。
遠く、海の方から、何か……ブイ?
何かが……近づいている……?
『バシャバシャバシャ……』
泳いでいる?
人?
サーフィンでもしているのだろうか、流石にそんな波はここには……。
まさか、溺れた人?
『バシャバシャバシャ……』
「それ」は近づくことで形がはっきりとしてくる。
波間に現れた「それ」には魚のような顔が付いている。けれど、「それ」は浅瀬の魚にしてはあまりにも大きく、そして、人間のようだった。
「それ」は人間のような生き物だった。胴体があり、手足があり、全身には鱗が覆われ、顔には鰓があり、背びれがあった。
化物だ。
「……!」
海の中から……深淵からゆっくりと10、いや20のその化物の影が浮かぶ。
私が最初に見つけた一匹は既に浅瀬に入り、砂浜へ上がろうとしていた。
逃げなきゃ!
私は振り返って階段を上る。
乱雑に作られたコンクリートの階段はちぐはぐな段差で、私は数十段目で足をぶつけ、手すりに摑まる。
しかし、砂浜には既に数匹のあの半魚人のような化け物が上陸して、私を追い、階段へと向かっている。その中の一匹は手に銛を持っている。
明らかに、危険。
私は必死の思いで立ち上がり、車へ急ぐ。
暗闇の中、私のペンダントは光り輝いている。これは一体何なのか。そんな疑問よりも、エンジンを掛ける。
『べたっ、ベタッ!』
車の後ろの窓に奴らの一匹が手を触れた。もうこんなに近づいている!
私は車を出す。
『ゴン、ギュリギュリギュリッ……』
半魚人は一匹引き摺られ道路に倒れたようだ。
「霧が、こんなに」
さっきまでの快晴はどこへやら、街は深い霧に包まれ、怪しげに街灯の灯が白い中に並んでいる。
暗闇と霧。希望を塞ぐ隠喩としてはもう古典的と言えるけれど、いざ自分が放り込まれれば、果てしない恐怖を覚えてしまう。『夜と霧』だ。
とにかく中央の駅方面へ車を走らせ、高架道路を通って上島町の方へ向かう。
高架道路はやはり霧に閉ざされ、等間隔に並ぶ街灯は不気味な雰囲気を醸し出していた。しかし何も……ない、少なくとも高架道路の中では……下の道路では一体何が起きているのか、私は知りたくもない。
高架道路の端、
このまま上島町国道道なりに進み、映画館の通りへ曲がって上島町を通れば……。
そんな希望はあっさりと潰える。
「何、これ……」
道路には先程の半魚人が闊歩して、どこか一方向へと向かっていた。それらは恐らく、この近くの広い海水浴場である砂浜からやってきたのだろう。濡れた身体が霧の中でオレンジの街灯に照らされ、怪しく光っている。
こんなのを避けながら進む……?
既に半魚人は見えているだけでも数十匹は通過している。
何時彼らは私の車を見つけるのか……。見つかればどうなるのだろうか?
逃げ去って行ってほしい。私のことには構わないでほしい。知らないふりをしてほしい。見ないふりをしてほしい。
そんな希望はまた、直ぐに潰えた。
奴らの中の一匹が私に向かい歩みを進め始める。それにつられて数匹がこちらに向かい始める。
――進むしかない!
私はアクセルを踏み、数車線に及ぶがらんとした道路を駆けた。
とんでもない蛇行運転。半魚人たちはのろのろとしたゾンビのような歩みでこちらを追おうとしてくる。出来の悪い歩み。そんなのでこっちに追いつこうとしてくるなんて。
『ガン!』
「わ!」
窓ガラスに奴らの一匹が殴りかかってきた。
しかし車の速度の衝撃でそいつは吹っ飛んで、他の半魚人を巻き込み倒れた。
傷になっていないと良いけど、ただでさえこの間の事件でフレームが……。
『ガガン!』
マズい、このままだと囲まれる。とにかく突っ切らないと。
アクセルを踏む。
もう、多少は轢いても構わない。知らない。知らない。
私は映画館の通りへと曲がり入ってゆく。
『ガン! ……ガン!』
何匹か擦った。奴らは、どれぐらいで死ぬのだろう。私は何匹か奴らを殺したのだろうか?
それに……奴らの進行方向はどうやら今の私と同じ……。
向こうは確か……工場構内の埋め立て地……。湾内に入ろうとしている?
映画館の横を過ぎて、大陸橋へ入る。何匹かまばらになって来たけれども半魚人は道路を進んでいる。私以外の車は……いない?
何か、これは夢なのではないかという気もしてくる。けれど、さっき階段で負った傷がズキズキと痛んで現実であることを示してくる。
出来れば夢であってほしかったな。
陸橋を降りると工場区域の方へ半魚人が向かっていることが分かった。陸橋を降りてしばらくすると一匹たりとも半魚人が見えなくなったから、きっと、この街の湾内へと奴らは移動していた。
……奴らは、一体何なのだろう。あの顔。
厭なことを思い出す。
あの顔は死に際の父の、顔に……病気でむくれ、変形してしまった父の顔にどこか似ていた。
私にとってあの顔は哀しさを一番に思い出す。そんな姿の化け物が襲ってくるなんて。
奴らは一体何なのか、どういう生物なのか、はたまた私を前に襲った『怪異』のようなものなのか、私にはわからない。
一応明日の部活で部の子たちに相談してみようかな。
そんなことを考えつつ、緊張から解放され、私は家に着いた。
車を停めて、エンジンを止める。
そうだ、車のキズがどうなっているか一応見ておかないと。
私はドアを開ける。
「キシャァアアアッ!」
車の天井の上にあの半魚人が一匹へばりついていた。それは、車を降りた私に飛び掛かり首を締めようと手を掛けてくる。
『カッ!』
ペンダントが眩い光を発する。
「キシャァアアアアアアッ!」
『ゴォオオオオ……』
半魚人は苦しみだし、倒れる。内側から炎が現れ、半魚人の身体を焼き尽くしていった。
「アアアアアアアアアアアアアァアアアアアアアァアアア!」
叫び声と共に半魚人はアスファルトの地面の上で消し炭になってゆく。魚の焦げる匂いがする。断末魔が、耳にこびりつく。……そしてその顔はやはり、父を思わせた。
「アアア……アア……イア……」
叫びが終わり、そして頭も燃え、燃えカスへとみるみる変わってゆく。まるで火葬を眺めているように。
『ジュウウウウ……プス……』
瞬く間に、半魚人は燃え尽き、ほとんど形あるものは残らずに焼け跡だけが残っていた。
このペンダントは一体何なの。
この半魚人は何なの。
どうして優しいお父さんのことを思い出さなきゃいけないの。
私は訳も分からず、膝をつき、涙を拭う事しかできなかった。
明日、あの子たちにこのペンダントについて訊こう。いや、今まであったことについても訊こう。私が今、この手の事で頼れるのは彼らだけだ。
とにかく、今日はもう、休もう。
私はこのままだと、半魚人に殺されるよりも先に死んでしまう、そんな気がする。
〈終わり〉
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