タナカ マサル 25歳 M銀行勤務 預金係
タナカ マサル 25歳 M銀行勤務 預金係 前編
○:人とそうでないものを分ける点は別に倫理でも道徳でもなんでもなく、ただ人間から生まれ、人間の見た目をしているか否かであった。生命科学の進展した今、それはさらに精緻な分類を必要としている。人間から生まれずとも人間である生き物が作れてしまえる。人間であることに知能を追加してしまえば……様々な問題が紛糾する。そもそも知能というモノが何かさえも曖昧であることに気づき始める。すったもんだと世の中は問題にあふれている……。
では一体何故今までそんなことに気づかなかったのか、それは御存知の通り、人間の見た目で人間ではないものを我々は見た事が無いからだ。
――
八坂徹:仕事を終えて署から車で帰る。M市駅前の通りを抜け、上島町へ……おっと、工事中か……水道管でも破裂したのか何なのか、大きな工事だ。俺は近道を思い出す。
――せっかくだから迂回路ではなく近道をしよう。
そう考えて俺はハンドルを切る。通りをそれた脇道、そしてもう一本先の通り。こっちは昔は本通りの栄華のおこぼれに与り、幾つかビルも立っていたのだが、どれも更地と廃墟となっている。壊れそうなアパートにはまばらな光……七時だってのに霧で夜が一層深い。
まあ、早く上がれただけありがたく思おうか、いつもならもっと掛かるもんだ
!
『キィィイッ!』
急ブレーキ。女が道に飛び出してきた。一体なんだ、何考えてやがる。
俺の車のボンネットに寄りかかり女は息も絶え絶えに脚を引きずりながら助手席の方にくる。顔の化粧は涙などで落ちかけ、顔も赤々としている。
「助けて」
くぐもった声が聞こえる。俺は取敢えず扉の鍵を開けた。女は必死に扉を開き、即座に閉めて、俺に縋った。
「早く出して、早く!」
女の脚にはべっとりとした血が付いていた。俺は驚き、すぐさまアクセルを踏み、そこを去ろうとした。
『ガン! ブチブチブチィ!』
一瞬、前にモノトーン調のピエロの格好をした男が表れたが、轢いてしまった。
「あいつだ! 逃げて! 出して!」
女は叫ぶ。だが、生活安全課とはいえ、警察の俺がひき逃げをするわけにはいかない。この様子から頭のおかしい奴に襲われたのだろう。パニックになるのも当然だ。俺はエンジンを切って、泣いて嫌がる女をなだめながら外に出る。
――ない。
――血も肉も、死体もない。
確かに俺は轢いてしまった、音を聞いた。絶対に轢死した音だった。だが、タイヤは綺麗だ。ボンネットにも何処にも傷一つない。
なんだ? 幻覚か? 俺もこの霧に当てられて遂におかしくなったのか?
「キャアアアアアア!」
助手席側のドアがさっきのピエロによって開かれて、女が担がれる。
「待てお前!」
俺はピエロに向かう、だが奴は女を軽々と持ち上げ、スキップするように走って歩道を渡り、廃ビルの中へ逃げ込む。奴はナイフを持っていた。その動きは古いカートゥーンのよう、いや、正に道化師としての動きだ。そしてあまりにも体重を感じさせず、素早い動きだった。俺もそのまま追ったが、ビルに入るとすでに奴は二階に逃れていたようだ。
「イヤ、イヤ、アアアアアアアア!」
女の叫びがこだまする、俺は急いで階段を駆け上がる。
『ゴトッ』
階段の踊り場に重い音で何かが落ちてきた。
――女の首だ。
血が滴り、傷口からどくどくと流れている。
そこから上の階段にはバラバラになった女の身体の一部が装飾の様に丁寧に端に並べられている。血の匂いと悍ましさで、気色が悪い。
「クソッ、現行犯だ、貴様ッ!」
即刻捕まえて、牢屋にぶち込まなければならない。この社会のガンめ!
俺は階段を駆け上る。
二階、こちらも開けた空間。柱と柱、奴は上に行ったのか……。いや、違う、この感じ。
――後ろだと!?
『ヒュッ』
俺は後ろの気配を察知し、振り向きかけながらナイフを振るう奴の腕を捉まえて背負い投げをする。奴の動きが見ずとも気配でわかる。昔から勘が良い。
『ダン!』
奴は受け身も取らずに背中からコンクリートの地面に叩き付けられる。俺はそのまま奴の手からナイフを……。
ナイフがない!?
『ヒュッ』
にやけ面の奴が左手に転移していたナイフで俺を斬りつける。俺は咄嗟に避け頬に傷を負いながらも避ける。どういう手品だ?
『パキィ!』
俺は掴んでいる奴の右手首を圧し折る。奴は全く気にせず俺の腕にナイフを突き立てる。
『ザシュッ』
クソッタレが! ナイフの刺さったまま、俺は奴の右手首を離して奴の顔を殴る。腕のナイフが突然消える。折れた右手で俺の胸を刺そうとしていやがる、俺はそのまま奴を蹴り飛ばす。
『ドガッ』
体重は普通の感触。だが奴にダメージがある感じがしない。サンドバッグを殴っているようだ。知るかボケ。
『ドガッ、ドガッ、ドガッ』
俺は馬乗りになって顎を殴る。殴る。殴る。
――奴は動かなくなる。
……やっちまったか?
俺は立ち上がり、身を退く。
奴はピクリとも動かない。呼吸もしていない。……というか、奴はずっと呼吸していた気がしない……。いやそんなまさか。
『パァン!』
「ああぁっ!?」
突然奴の右手に銃が表れ、俺の足首を撃った。
俺は倒れる。致命傷じゃねえ、だが、姿勢が。
奴は何でもないように、子供の様に飛び起きると、気持ちの悪い白塗りと黒の化粧に笑いを浮かべ、倒れた俺の足の傷口を蹴り飛ばす。
「ウグァッ!」
奴は笑うようなジェスチャーをする。奴は言葉も音も発しない。そして俺が仰向けになった瞬間、右手のナイフを振り上げた。
万事休す。
『ヒュッ』
奴は俺の胸にナイフを突き立てる。
だが、俺の胸にそのナイフが触れた瞬間、奴は仰け反って倒れた。
ナイフが焼け爛れ、奴が苦しんだのだ。
何が起きた? 一体何なんだ!
「えっ?」
奴は消えた。
室内のどこにもいない。目の前で忽然と姿を消したのだ。
「なん……なんだ……?」
――
殺された女性は『加藤由紀』23歳。OL。居酒屋で友人と飲んだ帰りだったそうだ。あのピエロ野郎は明らかに幻覚としか思えないが、殺された女性は本物。死体も本物。
殺害に利用されたであろう凶器は見つかっていない。鑑識曰くよくある型のナイフでの傷に似ているが特定できないそうだ。よくある型のナイフというのが俺は良く知らないが、深くは訊かなかった。
真っ先に俺が疑われたのだが、俺のナイフによる傷、その日周辺住民の証言、俺の車にも所持品にも周辺のどこにも銃が見つかっていないこと、空薬莢すらない事、俺の足に残った弾頭がどの銃弾の規格にも合わない弾頭であることなど意味不明な状況などから俺は捜査から外された。そしてそのまま、未解決事件として埋もれて行く。
最近の薄気味悪い行方不明事件や霧の中に化け物を見たとかいう流言飛語が、俺はバカげた幻覚や、精神の不安だと片づけられなくなった。この心療内科の少ない街でそうした犯罪や噂が立たないのは行政の怠慢などにあると思っていたが、妙な何かがある様な気がしてきた。
オカルトなんざ馬鹿げている。化物や霊感なんかは幻覚で、精神疾患か脳の病気の前兆だと考えていたが、俺にそんな症状はなく、病院の検査も良好だった。
足のケガが良くなってきた今。俺は、この事件がどうしても忘れられず、かといって自分の仕事でもないので、何もできずに足踏みしている。それを憎々しく思い。今まで思っても絶対にやりはしなかったことをやろうとしていた。
「オカルト探偵、ね……」
――
「八坂のおっさんが来るとは世も末だね、はっは」
自分で出した茶を飲みながら免田のボウズは笑っている。
免田四恩、上島町のビルにどうどうと事務所を持つ『オカルト探偵』。署ではいかれた奴が居るとよく話に上る。俺もたまに顔を合わせることがあった。あの時は確か怪しげな輸入品を扱う業者と取引していた為に事情を聴取したのだったか、結局業者もこいつもシロだったが、妙に懐かれてしまった。
「俺だって信じたくないさ、今も疑っている。だが、こんなバカげた事件に遭遇しちまって、今もあのピエロ野郎の目撃談が後を絶たず、行方不明者も出ているのは、俺の心が許せないんだよ」
「……おれもこの規模の大事件は初めてなんだぜ? 殺人鬼なんていくら元気が取り柄のおれでも手に負えないよ……。だが、アンタの話を聞いた限り、そいつはおれの専門だ」
「……掃除機を改造したモンであの野郎を吸うのか?」
「いやぁ? そんなまさか、おれはもっと古式ゆかしいものを使う」
免田は内ポケットから色々と取り出す。星型、五芒星……セーマン印色々呼び名はあるがその紋様が描かれた布や水鉄砲と言ったオモチャが出される。
「……馬鹿にしてんのか?」
「いやいや、アンタの話でもお守りで撃退してただろ? それをやるだけだよ、それに、これら全部検証済みのモノホンだぜ? 一つ一つどれで何をしたか記録もつけている。顧客の情報はアンタには出せないが……」
確かに見たところ明らかに間違った紛い物と呼べるような品は無いようだし、妙にぞわっとした気配がこれらにはあった。それはホンモノと言われたからそれを感じるのか、俺の感性が鋭いのか。だが、信じる気にはなれない。
「信じてねぇって面だな。アンタたしか実家神社だろ? 妹がアンタの娘と友達なんでおれ知ってんのよ?」
「……べつに神官だからってそれを真面目に信じるってわけでもねえよ。ましてやこんなオカルトめいたモンを……」
「でも、アンタには他に道はない……。まあ調査料は弾んでもらうが、ここいらで堂々と事務所構えてオカルト事件やってるようなのはおれぐらいだぜ? ここの賃料、結構あるけど全然払えてんのよ、おれ。実績は十分ですよ?」
「……個人的な依頼だ。個人的に支払う」
「毎度ありぃー。へへ」
馬鹿みたいにふんだくってきやがったが、俺はたまっていた小遣いを切り崩して、くれてやった。今思えば馬鹿なことをした気がしなくもない。
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