耳鳴りオヤジ

耳鳴りオヤジ 前編

 〇:北海道M市には八つの駅がありその内最も発達しているのは東M市駅である。特急の停車駅であり日本ある特急のうち一つの終着駅でもある。函館・札幌間の電車旅の中継地として長らく発展したこの市であるが高速道路の開通、新千歳空港の開発などにより移動の要衝としての機能は衰退、現在では北海道新幹線の計画から外されるなど交通上も不遇な土地となっている。

19時ごろ、隣の市から東M市駅に向かう電車に乗る一人の男子大学生、蚕飼白(こかい はく)は眠気を我慢しつつ電車に揺られていた。


蚕飼 白こかい はく:眠い。

 どうして電車というのはこんなにも眠気を誘うのだろうか。大して心地よい椅子というわけでもなく、むしろ硬くて貧層だ。それにひじ掛けや寄りかかれるような、とっかかりがある訳でもなく、横にずらーっとただソファー状の硬い椅子が伸びているだけだ。

 なのにどうして、こんなにも、眠気を誘うのか。

 大学の椅子もに用に不愉快だが、確かに眠気を誘う。それは授業のせい……電車はこの揺れのせいだろう。小刻みな揺れはゆりかごのようなものなのかもしれない。だとしたら都市化した人間の悲哀を感じて、それに、皮肉だな。バイトとか会社とか学校とかに人間を送り込むこの鉄の檻がゆりかごか。……全く皮肉だ。

 おれは眠気覚ましに電車の窓を見る。暗い。家々の灯がすぐに過ぎ去ってゆく。最近は霧が多い。特にM市は、夜は霧に常に包まれているんじゃないかと思えてくる。窓の外も徐々に霧が目立ち始める。全く最近は異常だぜ。

 俺は周囲を見る。バイト帰りのいつもの電車風景、だが、いつもまじまじと見た事はない。何となく見覚えのある面子がまばらに座っている。退屈だ。


 ふと、隣の車両がドアのガラスから見えた。

 そこには顔を真っ赤にしたオヤジが女性に向かってギャーギャー騒いでいる様子が映っている。

 おれは、そのオヤジの煩い叫び声が耳に響いた。


 「!?」


 そのオヤジはずっとでかい声で叫んでいる。こっちの車両にも響く声で。ずっと叫んでいた……おれは、今まで気づかなかっただけだ……どうして? こんなにデカい声、俺はずっと無視していたのか?


 周囲を見回すと、先程と変わらずにいる奴らの中に、おれと同じくオヤジに気づいたのか、奥の車両を、目を細めて見ている者がいる。


 「~~~!!! ~~~!!!」


 電車内にけたたましく響くオヤジの声。おれは電車のドアの奥を再び覗く。格好を見ると仕事服なのかビジネススーツを着ているようだが、ネクタイは破れ、ボタンも一部取れている。赤々とした顔は憤怒に歪み、口からはつばが滴っている。頭は禿げており、眼鏡は妙に曲がっている。


 オヤジにギャーギャーと叫ばれている女性はそのオヤジに気づいていないのか、完全に無視してスマホを操作している。どうなっているんだ、嫌な顔一つせずに、あんなに平然として入れるものなのか? あんなに馬鹿でかい声に対して?


 瞬間、嫌な予感がして、おれはドアの向こうを見るのを即座に止めた。霊感……というか妙な勘だ。むかしからおれは勘が良い。よくクジ引きで大当たりを引くときも妙な直感がある。なのでおれはこの直感に全幅とまではいかないが多大な信頼を置いている。

 どうやらそれは今回も、当たっているらしい。

 隣の車両とこちらをつなぐ、さっきまでおれが覗いていた扉が開き、さっきのオヤジが出てくる。おれは目を合わせずスマホを弄っておく。念のために。

 そのオヤジのビジネススーツのズボンの裾はかなりボロボロになっている。鞄も持っていない。実に妙な格好だ。会社をクビになって自棄になったホームレスか? いや、そう言う手合いはここいらで見た事がない。


 「お前ぇ! 俺が見えるんか!」


 「ひえっ」


 おれの向かいの、怪訝な顔で隣の車両を覗いていた男がそう言われているようだ。かわいそうに。


 「お前ぇ! 聞こえてるなぁ! へっへっへ」


 何かヘラヘラと笑っている。


 「そこのお前! お前も聞こえてたな! お前も! お前も!」


 おれ以外の、見ていた者たちが指されてゆく。ひとしきりそう言った後、そのオヤジは次の車両へと移っていった。

 おれはオヤジにドヤされた人の方を見た。

 彼らは全員、同じ表情をしていた。

 引き攣った笑顔。

 おれは瞬間的に見ていないふりをした。

 だがその笑顔はおれの目の中にしっかりと焼き付いていた。

 顔が無理矢理笑顔に引っ張られているような、痙攣し、目の奥には涙さえ溜まっている笑顔。おれの周囲にそんな顔が、今も……囲んでいる……。

 俺は言い知れない恐怖を感じる。

 何が起きている? なんだ? この電車は? 毎日……これが毎日起きていたというのか? 今までずっと俺はこれに気づかずにいたというのか?

 そんな気がしてきた。毎日、こんな、恐怖の体験を気づかずにしていた。その恐怖が今のおれを支配している。背中に冷たい汗がつたう。顔には汗はない。必死にかかないように、ばれないように、必死なんだ。

 なぜばれてはいけない? だが、おれは必死にばれないように懸命に努力している。よくわからない、何を努力している? とにかく、とにかく、落ち着け……。落ち着くんだ……。


 『プシューーッ』


 『東M市、東M市です。お出口は左側です――』


 おれはゆっくり立ち上がり、ホームへ出る。笑顔の乗客も降りている。だが、おれはスマホを見ながら歩く。スマホを持つ手の震えを必死に抑えて。あの笑顔が怖い……。

 改札を出て、駅の出口を出ると。いやな悪寒が消えた。もう、大丈夫なのだろうか。


 「はぁ……はぁ……っ」


 息があがる。おれはさっき、命の危機に瀕していた。そのことだけが俺の汗ばんだ背中から伝わってくる。

 一体、あれは何だったのか。


 『耳鳴りオヤジ』


 画面のブログ記事にはそう書かれている。

くだらない都市伝説系のブログ。まとめサイト。バカみたいな与太話。……だが、このM市に関して言えばそうした『噂』が調べるだけで大量にヒットする。情報が氾濫し、くだらぬまとめサイト、アフィリエイトを求める馬鹿なウェブ記事に溢れるこのネットではあるが、そう言うものが飛びつくような『くだらない噂』がさっきのおれの体験だ。

 そのブログでは東M市に向かう電車内で、日没後にさっきのおれと似たような体験をしたことがつづられている。まとめサイトなどで『耳鳴りオヤジ』という呼称を与えられたそれは、恐るべきことに、一度見た者は必ずまた、日没後の時間帯の電車で出くわすという。

 まさか、いや、そんな筈は……。

 おれは自室のパソコンに向かいそんなことを思った。

 何かの悪い夢を見たのだ。きっと。

 ――おれは平日にはバイトを入れている。大学終わりに真っ直ぐ、海沿いのラーメン屋へバイトに行き、帰りは電車で東M市駅へ行き、そのまま歩いて実家へ帰宅する。

 明日は休む? いやいや、大学ならばまだしも、バイトをばっくれるのは厭だ。それに、こんなのは噂だ。明日は大丈夫という事も……あるだろう。きっと大丈夫だ。きっと。

 おれはそう言い聞かせて、風呂に入るため、部屋を出た。


 「大丈夫? 気分悪そうだけど」


 隣に座る由美がおれにそう耳打ちする。


 「大丈夫、ちょっと眠れなくてね」


 昨夜は妙に胸騒ぎがして眠れなかった。あの笑顔の光景が脳裏に焼き付いている。気味が悪い。


 『キーンコーンカーンコーン』


 「おっと、じゃあ、今日の講義はこれで終わり、今回は宿題なしだ、ハイ、解散解散」


 鄙位墓地教授は手を叩いて機械工学の講義を終える。隣の由美がこっちを向いて話しかけてくる。


 「……ちゃんと眠らなきゃダメだよ、バイトもやってるんだから」


 「ああ、気をつけるさ。それより、明後日の休み、どこ行きたいんだ?」


 「マリンパークにでもどうかなって思ってる」


 「いいね。昔あそこで恐竜のフィギア、買ったな。もう従弟の子にあげちゃったけど、なかなか出来は良かったんだぜ」


 「水族館なのになんでその思い出なのさ、ふふっ」


 由美とのデートのためにもバイトをばっくれることはできない。ただでさえウチは格安ながら家賃を親に取られている。滞納はある程度は許されるだろうが、そう言った不義理はおれは大嫌いなのだ。


 「そういえばさ、聞いた? 噂」


 「噂? 何の噂だ?」


 「『耳鳴りオヤジ』」


 「!」


 由美の口からその言葉を聞くとは思っていなかった。一体なぜそれを。


 「なんか流行ってるみたいだよ都市伝説ってヤツ? 知ってるの」


 「あ、ああ、知ってるよ」


 「……? そう、アンタ意外とそう言うのも知ってるんだ」


 「意外か?」


 「うん。アンタそういうの信じなさそうだし」


 「まあ、そうだな……はは……」


 見た、なんて言ったらコイツはおれを連れて見に行こうとするだろう。そう言う奴だ。由美は。


 「じゃあさ、日没後の東M市行の電車に出ることも知ってるよね」


 「え、ああ。うん」


 「明後日、帰りに確認しない?」


 マズい! それは、それはだめだ! おれは冷や汗を再び背中に感じる。


 「や、やめとこうぜそれは。夜は……ただでさえ最近変なニュースが多いんだから」


 「アンタが居るから大丈夫でしょ、スポーツサークル入ってない癖に入ってる奴よりもずっとガタイ良いんだから」


 「そうは言っても」


 「? 妙に今回は折れないね……なんか隠してるんじゃない?」


 コイツも勘が良い。

 「隠してなんかねーよ。ただ、心配なだけで。」


 「ふーん……ま、そんなに心配してくれるのを無碍にするのは良くないし、アンタの言う通り、明後日は暗くなる前に変えるわ」


 「ああ……それが良い」


 一応は丸く収まった……だが、コイツの事だ、なし崩し的におれが同意せざる負えない状況を作る。そんな気がする。とにかく、今日、電車の様子を確認しよう。奇妙な現象だ、急にぱったりとなくなっていることもあり得る。そう言う事もある。あるいは集団幻覚に過ぎないかもしれない。何だってあり得る。

 おれはそう言い聞かせながら、由美と昼飯を食べに教室棟を出た。


――


 『プシューーッ』


 電車に入り、椅子に座る。ここまでいつも通り。……大丈夫だ。大丈夫。何も無いじゃないか。いつも通り。いつも通り。……いつも通りあの『耳鳴りオヤジ』を無視する……?

 おれは、いつもアイツを無視していたのか?

 分からない。

 いつも?

 いつから?

 今までおれはただ何となく周囲に合わせて、奴を無視していたのか?

 そんなことが?

 電車が揺れながら、外の風景が変わっていく。暗い。そして、霧がゆっくり濃くなってゆく。

 ――もうすぐ、来る。『耳鳴りオヤジ』が、


 「~~~~!!!」


 来た。

 奴の叫び声だ。

 ……序盤は手頃な女性客に罵声を浴びせるだけで周囲を見ることはない……。恐らくは大丈夫だ。いま、奴の姿を見ても……。

 扉のガラス面を覗くと奴の姿が見える。それは、昨日見た奴……ではない。だが、見覚えがある。……昨日、おれの向かいに座っていた男だ。昨日の『耳鳴りオヤジ』によって笑顔にされていた。あの人々の内の一人……。増々マズい。アレに襲われれば、アレの仲間入りというわけだ……。記憶が確かなら男女関係なく襲っていた。

 ……マズい。

 悪寒。

 おれは直ぐに手元のスマホを見る。

 『耳鳴りオヤジ』が扉を開き、こちらの車両へと移る。


 「ああ! お前! 昨日、おれと見ていただろ! お前ぇ! お前ぇ!」


 マズい……。まずいまずいまずいまずい!


 「聞こえてるだろ? オイ、この野郎。おい。……なんでお前だけ……なんでお前だけ助かってるんだァあっ! ああッ!? コノヤロウ! コノヤロウ!」


 『耳鳴りオヤジ』は地団駄を踏み、叫んでいる。おれはスマホから目を離さない。視界の端に奴の怒り狂った顔が映る。目を合わせない。おれは聞こえていない。


 「スマホ、操作してねぇな? オイ? コラ? 見えてんだろオイ!」


 安い挑発に乗らない。奴の思うつぼにはならない。知らない。見えない。聞こえない。


 「チッ……」


 『耳鳴りオヤジ』は別の乗客にターゲットを移す。どうやら、返事をしなければ襲ってはこないようだ。だが……。

 

 『プシューーッ』


 『東M市駅、東M市駅、お出口は左側です――』


 おれは席を立つ。笑顔の奴らと『耳鳴りオヤジ』に悟られぬように、無視しながら。だが、奴らは確かに視界に入っていた。怖い……。奴らがどんな基準で襲っているのか。分からない。返事をしないだけなのか? 本当に?


 「お前を見張ってるぜ……。毎日毎日、見てるんだぜ……明日だって明後日だってずっと、テメーを見ているんだぜ……」


 ホームを歩く中、ずっと後ろからその声が聞こえる。ああ、そうか、これが『耳鳴りオヤジ』か。くそったれ。

 改札を出る。まだ聞こえる。


 「見張ってるぜ、見張ってるぜ。お前の事を見はってるぜ」


 駅を出る。まだ聞こえる。後ろが振り向けない……! クソッどうなってる?


 「見張ってるんだぜ、後ろを見て見ろよ、見張ってるぜ!」


 家に帰る……。帰路の中でもずっと……。ずっと聞こえる。クソッ、クソッ、クソッ。


 家に入っても……聞こえる。


 「見張ってるぜ、見張ってるんだぜ、おれはよぉ」


 頭にきた。振り返ってやる。もう、どうにでもなれ。やぶれかぶれだクソッ!

なにもない。


 「? おかえりなさい、アンタ何やってんの?」


 母さんがそう言う。だが、おれにはあの声がまだ響いている。耳鳴りか……マジモンの耳鳴り……。


 「見張ってるぜ、見張ってるぜ」


 クソッタレ!


 (続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る