第8話 嵐を呼ぶはじめての夜

 豊穣の神を祀る廟の前で一礼したとき、瑠璃帝はふと今年の実りの豊かさを思った。

 今季の秋は、大きな災害もなく穏やかな日が続いた。災いは君主の力でも止められないが、何事もないのに越したことはない。

 臣下たちはここぞとばかりに瑠璃帝に進言する。

「陛下、これは豊穣の神のお示しです。この機に妃をお召しになり、世継ぎをもうけよという天命です」

「そなたたち、逆でも同じことを申したであろう」

 瑠璃帝は調子のいい臣下たちに呆れたものの、心がふいに和らいだのは事実だった。

 思えば職務を真剣にこなそうとするあまり、自分は後宮をおざなりにしてきた。世継ぎをもうけるのは義務の一つとしていつかは成すが、共に人生を歩む友として妃を娶っても良いのではないか……。

 瑠璃帝がいつものようにしかめ面で臣下に言い返さなかったために、臣下たちはこれは色良しと考えた。

 臣下たちは儀式が終わるなり瑠璃帝に耳打ちする。

「早速選りすぐりの姫を御前に……」

「平凡妃を召しだすよう」

「……は」

 臣下たちは瑠璃帝の唐突な命令に耳を疑った。

 瑠璃帝は反論を許さない調子でもう一度告げる。

「二人きりで話がしたい。今宵、平凡妃を召す」

 聞き間違いとはとても取れない名指しのお召しに、臣下たちは顔を見合わせた。

 瑠璃帝は言葉を覆すことなく、上機嫌で宮の方に足を向けた。臣下たちはこれが瑠璃帝の真意なのだと思い知らされたのだった。

 優秀な臣下たちは短い時間だろうと大いに舞台を整えてしまう。瑠璃帝が宮に辿り着くときにはもう、後宮の一同にこの報を知らしめていた。

 料理人は今晩の特別な夕餉のために材料を吟味し、侍女たちは急ぎ皇帝を楽しませるような衣装を整える。

 瑠璃帝が妃を名指ししたのは初めてだった。だから妃たちの間には雷のように嫉妬が迸ったが、とりあえず瑠璃帝に後宮で夜を過ごしてもらうために、一同は今夜だけ協力し合うことに決めたのだった。

 そんな嵐のような後宮で、ひとりぼんやりしている妃がいた。シーファはお側に仕える者として、当然それに気づいた。

「凡妃様?」

 にわかに慌ただしくなった後宮であったが、当の平凡妃はなぜか椅子に座って考え事をしていた。

 大体の昼下がりにおいても平凡妃はぼんやりしている。しかし一月を共に過ごした侍女のシーファには、平凡妃がいつもと違うように感じた。

 シーファは心配そうに平凡妃にたずねる。

「何か気がかりがおありですか?」

 平凡妃ははっと顔を上げて、シーファに笑ってみせる。

「陛下に妖術は使えないから、どうやって抜け穴を作ろうと思っていたのよ」

「あら、陛下をたばかってはいけませんわ」

 シーファは冗談と取ってくすっと笑う。平凡妃は目を逸らしてつぶやいた。

「そうなのよ。困ったわ……」

 シーファがそれを平凡妃の本音だったと知るには、まだ時が足らなかった。

 平凡妃はいつも通りに猫じみた表情を浮かべて、シーファが支度を整えてくれるのに任せた。

 衣装は整ったのか、香は選んだか……。臣下たちの熱のこもった舞台設定で、午後の後宮は大変な騒ぎだった。

 ただ誰がどう騒ごうと夜は必ずやって来て、平凡妃が瑠璃帝の元に召される時間になった。

 窓を開けるには少し冷える刻だった。部屋には香が焚かれて少し青白く、瑠璃帝には時間が雲のようにゆらゆらと流れているように感じられた。

 どこか憂い顔で平凡妃がやって来たのは、そんな頃だった。

 長椅子にかけた瑠璃帝の前で平凡妃が膝をついて頭を垂れる。瑠璃帝はそんな彼女に声をかけた。

「ご苦労。顔を上げてそこに座るがいい」

 瑠璃帝は席を勧めたが、そこはおせっかいな臣下たちのはからいで、平凡妃には瑠璃帝が掛ける長椅子の隣しか用意されていなかった。

 茶を飲むのとは違い抜群に近いところ、瑠璃帝が手を伸ばせば腕の中に収まるような距離に、平凡妃はそろそろと腰を下ろす。

 瑠璃帝は白い夜着姿、平凡妃も薄い絹に包まれただけの姿で、部屋には他に誰もいなかった。

「臣下たちも侍女たちも下がらせた。二人だけで話すのは初めてだな」

 瑠璃帝から口を開いたが、平凡妃はうなずいただけで言葉は返さなかった。

 瑠璃帝は淡々と言葉を続ける。

「茶は何度か飲んだが、そなたと夜に会うというのは新鮮なものだな。まるで初対面のような気さえしてくる」

 平凡妃は誰かに聞きとがめられないかを恐れるように、相変わらず黙っている。

 瑠璃帝はそんな平凡妃の様子に目を留めながら言う。

「平凡妃」

 瑠璃帝は一息分沈黙して、おもむろにその事実を口にした。

「……そなた、初めてだろう」

 カタカタと小刻みに震えながら、平凡妃は瑠璃帝をちらと見上げた。

「心の準備が……できていません」

 下から恐々と見上げるさまが、いつもの悠々とした彼女とはまるで別人のようだった。

 それはそれで瑠璃帝の庇護心を刺激して、瑠璃帝の心にぐっとくるものがあった。彼は声を和らげて言った。

「怖がるようなことではない。手順を踏めば誰でもできるようになる。そなたの妖術に比べれば易しい行いだろう?」

「怪異にございます」

 平凡妃はまるで頑なな少女のように早口に答えた。

 瑠璃帝は少し心配になって平凡妃をみつめる。けれど平凡妃は強張った表情のまま、恐れるようにうつむいた。

 未だそのすべを知らない少女は、ふいに警戒を露わにして声を上げる。

「人が奈落に消えるように夢中になる、男女の仲……怪異に違いありません!」

 瞬間、突如として部屋には嵐が吹き荒れた。

 風がうなりを上げて渦巻き、柱は曲がり、寝台は吹き飛ぶ。奇跡的に瑠璃帝に風は当たらなかったが、部屋はまるで紙飾りのようにひしゃげた。

 あっという間に部屋は暗黒の天の下になった。その中で、平凡妃は悲鳴のような祈りの言葉を叫ぶ。

「天人よ、私は陛下に妖術を使いました……! 罰を受けます!」

 それが望みのように、平凡妃は天を仰いで声を上げる。

「待て、凡……妃っ!」

 瑠璃帝が伸ばした手の先で、平凡妃が渦巻く天に吸い込まれていった。

 朝、絶望の淵を引き連れるような気持ちで目覚めて、瑠璃帝は寝台から跳ね起きた。

「は……ぁ、は……っ。夢、か」

 たった今まで嵐にさらされていたように、心臓が大きく音を立てていた。瑠璃帝はしばらく胸を押さえながら上がった息を整える。

 瑠璃帝はこめかみから流れた冷たい汗を拭って、ふと傍らを見やる。

 傍らでは平凡妃が眠っていて、瑠璃帝はほっと息をつく。

「夢の中でもそなたは人騒がせだな」

 起きたらすぐにその話をしよう。そう思いながら彼女の頬に触れようとして、瑠璃帝は異変に気付いた。

「……平凡妃?」

 平凡妃はまるで人形のように、呼吸が止まっていたのだった。

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