第9話 それは怪異か幻か

 平凡妃の意識が戻らないまま、五日のときが過ぎようとしていた。

 瑠璃帝はすぐに平凡妃を医師に見せたが、彼女の呼吸も心音も止まっていた。だが体温は失われておらず、いつ目覚めてもおかしくないという不可思議な状態だった。

 瑠璃帝は遠方からも医師を呼び寄せ、儀式の類も手を尽くして施したが、平凡妃は目覚めなかった。

 臣下たちも驚くほどやつれていく瑠璃帝に、臣下たちは恐々と告げる。

「怪異に手を染めるあまり、怪異に連れていかれたのでは」

「……怪異ではない」

 日頃は頼りにする優秀な臣下たちの言葉も、今は何一つ聞きたくなかった。

 苦しげに臣下の言葉を否定した瑠璃帝に、臣下たちは問い返した。

「陛下?」

「私は誤解していたのかもしれぬ。私は彼の女人を、不可思議な存在のように考えていたが……」

 瑠璃帝は唇を噛んでうめくようにつぶやく。

「……本当はわかりやすく繊細で、感性豊かな女人なのだろう」

 男女の仲を怪異だと悲鳴のように叫んだ平凡妃の声が、今も瑠璃帝の耳に残っている。

 荒れ狂う嵐の中に平凡妃が消えた光景、そのすべてが夢だとは思えなかった。

 瑠璃帝は寝台に座り、そっと労わるように平凡妃の頬に触れる。

 彼女が眠りについてから毎日、こうして側で話しかけたが答えはない。

「どうか起きて、またとぼけた悪戯を仕掛けてくれぬか?」

 瑠璃帝は苦い表情で言葉を続ける。

「今度は急がず、時期が来るまで待とう。そなたのくれた、可笑しな日常が恋しくてならんのだ……」

 瑠璃帝の声が震えたが、今日も平凡妃は沈黙したままだった。

 平凡妃が眠りについて五日が経ったとき、彼女の実家から母親がやって来た。

 瑠璃帝は時間を作って平凡妃の母を迎えると、彼女は深く息をついてしばらく黙っていた。

 やがて平凡妃の母は意を決するように顔を上げると、一つの秘密を打ち明けた。

「信じていただけるかはわかりませんが……娘は、自分の余命は残り一月だと言って後宮に入ったのです」

「なんだと?」

 平凡妃が後宮入りしたのは前の新月の夜だった。瑠璃帝は息を呑んで、慌てて日を数える。

 瑠璃帝は青ざめて信じがたい事実を告げる。

「……今日でちょうど一月だ」

 平凡妃の母は力なくうなずくと、思い出すように言葉を口にする。

「あの子は昔から、冗談なのか本気なのかよくわからないことを言いました。後宮入りも、大いに家名を上げてから最期を迎えるのだと笑っていて」

 平凡妃の母は袖で目頭を押さえて言う。

「そんなの、悪い冗談ですよ……! 母が信じるわけがありません」

 平凡妃の母は気丈にも顔を上げると、瑠璃帝の前でひざまずいて何かを差し出した。

「持って参ったものがあります。あの子が形見だと言って私に残したものです。呪術にでも何でもお使いになって、あの子を呼び戻してください!」

 ふんと鼻息荒く言い切った彼女の手には、瑠璃帝の手のひらに収まるような木彫りの人形細工があった。

 滞在していくよう引き留める瑠璃帝に無理に笑って、平凡妃の母は帰っていった。娘の死など信じないというその態度に、瑠璃帝は少し力を分け与えられた気がした。

 瑠璃帝は臣下たちに命じて、平凡妃が母に残した人形細工を調べさせた。

 それはほのかに笑っている女人の人形で、天人が着るような羽衣を身にまとっていた。中に何か詰まっている様子もなく、お守りの域を出ない代物だった。

 それ以上の手がかりはつかめないまま、夜がやって来た。

 瑠璃帝は、否応なしに一月前の新月のときを目の前に描いていた。

「何か……手はないのか」

 特徴がないのが特徴的だの、不気味だの、散々に彼女を言っていたのが惜しまれた。瑠璃帝は庭に出て暗黒の空を仰ぎ、考えに沈んだ。

 叶うなら出会った頃に時を戻し、彼女の繊細な感性を理解してやりたかった。それができなくとも、せめて初夜の夜に、彼女をできうる限り優しく包めばよかったのだ。

 後悔に打ちひしがれながら体が冷えるまで暗闇に立ちすくんで、ふと瑠璃帝は思い出す。

「……そういえば」

 腕に抱いた木彫りの人形をみつめて、どこかでこの顔を見たなと思う。それはつい最近の出来事のはずで、帰ったら平凡妃に話してやろうと思っていた。

 帰ったら……そう、後宮から少しばかり離れたところにある、豊穣の女神の廟に行ったときのことだ。

 瑠璃帝は夜着姿のまま、宮の階段を上り始めた。途中からは走っていて、臣下たちが見たら目をむいたに違いない勢いだった。

 石段を上り詰めた高台に建つ豊穣の女神の廟で、瑠璃帝は息を切らしながら立ち止まる。

「似ている……」

 豊穣の女神の石像も、木彫りの人形も、そして平凡妃も。三者共に、ほのかに笑う顔がそっくりだった。

 廟の扉を押すと、それはひとりでに内側に開いた。その向こうに、天上に続くような階段が現れる。

 瑠璃帝はごくりと息を呑んで、祈りの言葉を口にする。

「女神に告げる。……会わせてくれ、彼女に」

 真昼のように明るいその最中に、瑠璃帝はゆっくりと足を踏み出したのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る