2.導き手
何か膜を通り抜けた感覚がしたが、眼前に広がる光景にすぐさま思考を奪われた。
「ここは…?」
森をくり抜いたかのようにポッカリと開いた空間。
天を仰げば木の葉に隠されハッキリと見ることが叶わなかった空が瞳に映った。
抜けるような爽やかな青空とのんびりと流れる雲に身体の強張りが解け、ほっと息を吐く。
身に纏わりついていたじっとりとした空気が取り払われ、暖かな陽の光が身体を包むことにも安堵を覚えた。
地面には足首ほどの高さの草が広がり、まるで緑色の絨毯が敷かれているようだ。
正面に見えるのは、山のように高い崖を背後に置く2階建ての小さめの洋館。
青い屋根と白い石造りの壁でできた家の片側に円塔がひとつくっついている。
そうして目に映るものをひとつひとつ眺めていると、屋根の上からこちらへ向かってくる青い塊が視界に入った。
「ピュィピュィ」
徐々に近づいてくるその塊から聞こえたのは聞き覚えのある鳴き声だった。
森の中で幾度となく聞いた力強いあの声がまさかこんなに小さな体から発せられていたとは信じられない。
青から水色に、そして白へとグラデーションのかかった夏空色の小鳥。
パタパタと小さな羽を使い飛んできた小鳥に向かって人差し指を出してみると、そこにちょこんと乗った。
輝きのあるくりくりとした黒い瞳でこちらをジッと見つめている。
指に当たるお腹の毛が想像以上にもこもこで自然と頬が緩む。
掌サイズのその子が可愛くて空いた手でゆっくり頭を撫でると気持ち良さそうに目を細めた。
「私をこの場所に呼ぶためにずっと鳴いていたのですか?」
「ピィ」
鈴の音のような囀りは肯定を表しているように思えた。
「あの森に私を連れてきたのもあなたでしょうか?」
「ピュウィ」
どうやらそれは違うようだ。
では、何故あの森に自分がいたのか…
問いかけようと口を開いたとき、急に足の力が抜け座り込んでしまった。
(あ、力が入らない)
指から離れた小鳥は私の周りをくるくると飛んでいる。
その様子を力なく眺めていると小鳥の足元にふわりと水の球が現れた。
「…っ!?どこから!?」
浮かんだ水の球を凝視しているとそれが口元に近づいてきた。
目を
「こ…れを飲むの…?」
「ピィ」
返ってきたのは肯定の声。
恐る恐る口を開けパクリと含む。
ふわり ふわり
自身の内側から外へ向かって何かが抜け身体が軽くなるのを感じた。
「疲れがとれた?これは…魔法?…ふふ」
もこもこの胸毛を見せつけながらどこか誇らしげに頷く姿に思わず笑った。
(魔法ってことはここは地球じゃない…?いや、知らないだけで地球上には魔法があるのかな)
「ピィピィピィ」
いつの間にか膝の上にいた小鳥の声には心配が乗っていた。
俯いて考えていたから落ち込んでいると思ったのかもしれない。
もしくはあまりにも草臥れていたからか…。
「すみません。もう大丈夫です。ここに呼んでくれてありがとうございます」
礼を述べながら頭を撫でると嬉しそうに手に擦り寄ってきた。
今のところ私に悪意を向けているとは思えない。
けれど、不思議なこの方がそう思わせていると言われても納得するのだ。
疲労と混乱で頭が正常に働かない今考えたとて善悪を判断できるとは思えないので気にしないことにした。
今の私はまともじゃないだろう。
素直にこの方はいい人だと思ったっていいじゃないか。
「あそこに住んでいる方にお話を伺いたいのですが、今どなたか在宅でしょうか?というか、あなたはあの家の子ですか?」
小鳥に聞いてみると“ピィ”とひと鳴きした後、家に向かってゆっくりと飛んで行った。
「えっ?どうしたのですか!?」
慌てて立ち上がると自身の身体が随分と軽く感じ驚いた。
(魔法って凄い)
はしゃぐ気持ちを抱えながら小鳥を追うと家の横を通り裏手に辿り着いた。
すぐそばの崖には不自然にも扉がついており、その前で小鳥が小さな羽を羽ばたかせながら待っている。
端厳な扉には何かの模様が金色で描かれている。
中央に嵌められた青い石に小鳥が嘴で触れ、見えない何かを流すと一瞬だけ石が煌めいた。
ガコンッ
何かが外れたような重い音が響いた後、扉の前で浮いている小鳥がこちらを振り向きジッと見つめてきた。
(入れってことかな?)
恐る恐る扉に近づきそっと手を添えた後、少しだけ腕を押した。
ゆっくりと開いた先、暗がりの中に階段が見えた。
階段の向こう側が気になり無意識に足を前にずらした瞬間、明かりが
バクバクと動く心臓をなんとか落ち着かせようと目を瞑り息を吐く。
おそらく人を感知して作動するのだろうと考えながら深呼吸を何度か繰り返した
壁に等間隔に並ぶ照明が中を照らしているので足元がハッキリと見える。
一歩進むごとに石造りの階段からカツッと音が鳴り辺りに響く。
両脇の壁と天井は土が剥き出しになっており、崩れないかと心配しながら長い長い階段をただひたすらに登る。
(階段だるいなぁ…自分も飛べたら良かったのに…)
やけに時が長く感じるのは、つい先程まで身を置いていた先の見えぬ森がこびりついて離れないからだろうか。
だけど、今現在の自分は恐怖が薄い。
それはきっと優しい瞳をした青い鳥と共にいるからだろう。
数分のような数時間のような時の先…階段を登り切りるとそこは洞窟の中だった。
こちらにも照明があり、目の前の土壁がハッキリと見える。
硬く平らな地面は人の手によってならされたものだろう。
後ろを振り返るとトンネルのように真っ直ぐ続く道。
出口にあるのはおそらく椅子…に見えるが逆光でよく分からない。
“こっち こっち”と呼んでいるかのように囀る小鳥を追って出口へと向かう。
進むにつれ椅子の輪郭がくっきりとし、こちらに背を向けて置かれていることが分かった。
座面から垂れ下がる黒い布に隠れて全容を把握することは叶わないが、そこに黒い靴があることだけは確かだ。
姿は高い背もたれのせいで見えないがおそらく人が座っているのだろう。
ようやく人に会えたと喜びが湧き足を進める速度が速くなる。
そうして更に近づくと肘掛けに乗る袖から除くものが瞳に映ってしまった…。
思わず足が止まるのは仕方がないことだと心のどこかで誰かが語る。
あの質感を知っている…軽くて重いそれを初めて見た時の光景を思い出し、じわりと汗が滲んだ。
そんな自分の様子を気にするでもなく、小鳥は悠々と飛び、最後には椅子の背もたれに降り立った。
「あの…すみません!あの家の方でしょうか?」
きちんと届くように椅子に向けて張った声はわずかに震え緊張を示していた。
………
返ってきた静寂に“やっぱりな”と肩を落とす。
垂れた両手を握り締め、足に力を込めて踏み出し椅子の正面に回る。
泣きそうな顔で見据えた先には黒いローブを纏った骸骨。
左手首を飾っている腕輪には3色の石が並び、やけに煌めいて見える。
両脇の肘掛けにそれぞれの腕を乗せ、頭を前に傾けさせている様は白骨でなければ人が眠っているように見えただろう。
いや、目の前の人物も眠っていることに変わりはないが…。
身に纏っている衣服に汚れはひとつも無く、まるで新品のようだ。
艶の無い黒いローブ、白いシャツ、黒いズボンに同色のブーツ…そのどれもが綺麗な状態である。
おそらく魔法がかかっているのだろう。
そんなことをぼんやりと考えるくらいには余裕があった。
会話ができそうな人間ではなく物言わぬ骸骨だったわけだが、この方を目の前にした今、嘆きはあれど恐怖はないようだ。
(この人はあの家の主?…だったのかな?)
瞳を瞼で隠しながら手を合わせ、しばらくそのまま時を流した。
なんの意味を込めてなのか分からないが黙祷のつもりだ。
(少しあの家にお邪魔します)
長い黙祷の
視線の先には先程と変わらぬ姿の骸骨。
不思議と項垂れているようには見えない。
そんなことを考えていると、なんとなくこの主が見ている景色を共に見たくなった。
そうして椅子の横に移動しこの洞窟内で唯一光が入る方角へ身体を向ける。
背後で何かが動く感覚がして顔だけ左に向けると、ちょうど青い小鳥が自分の肩に乗ったところであった。
「一緒に見ましょうか」
耳元で聞こえた美しい囀りには喜びが乗っているように感じ、つい頬が緩んだ。
そうして前を見据えると、それはそれは美しい光景が広がっていた。
切り立つ高い崖の中腹にあるここは、大木が並ぶ森を見下ろせる程の高さにあるようだ。
恐ろしくもある雄大な森の遥か先には陽を反射し煌めく海が見える。
宝石を散りばめたかのようにキラキラと輝く水面と空の間にはゆっくりと流れる雲。
風に撫でられざわめく木の葉の音は波の音に似ている。
ここで最後の時をと望む気持ちが少しだけ分かった。
(ここは何処なのだろう…)
声に出したのかも分からぬまま、自分が今何を思うのかも分からぬまま、ぼんやりと景色を眺め続ける。
──────
───
──
ピィピィピィ
私を呼ぶ青い小鳥の声に少し思考がハッキリとした。
これまたどれほどの時間を流したのか分からない。
このままここに突っ立っているわけにもいかないので小鳥さんが声を上げたのはちょうど良かったかもしれないね。
しかし、ただ鳴いたというよりはこちらに何か話があるような雰囲気を感じた。
「…?」
顔を横に向け瞳で問いかけると肩から離れ私の正面側に来た。
それに合わせ私も首を動かす。
すぐそこにはこちらの視線の高さで小さな羽を羽ばたかせ浮かぶ小鳥さん。
なんだろうと眺めていると、こちらに近づき嘴で私の額にそっと触れた。
小さな羽ばたきが起こす風で少し前髪が揺れくすぐったい。
ふふっと小さな笑い声を漏らしたとき、嘴の先から何かが流れ込んできた。
体内にゆっくりと広がっていくそれに恐怖も不安もない。
暖かな何かが身体に馴染んでいくのをそっと目を閉じ受け入れた。
(暖かいですねぇ…日向ぼっこしてるみたいだなぁ)
そうしてぽかぽかしていると額に触れていたものが離れた。
それに気がつき瞼を上げると黒い瞳を持つ方と視線が絡んだ。
その瞳には愛憐が乗っており目が離せない。
「異界の子よ。私は導き手だった者」
開いた嘴から出た声が洞窟内に響いた。
ぼんやりとしか伝わってこなかった小鳥の意思が今はハッキリと耳で捉えられる。
それなのにそれを喜べないのは聞こえてきた声に悲痛が含まれていたから。
「私にはもう力が残されていません。そばにいられなくてごめんなさい…」
「導き手?力?どういう…」
こちらが言葉を紡ぐ間に小鳥から青い光が溢れた。
徐々に強まる優しくも美しい光の眩しさに思わず目を瞑る。
光の弱まりを肌で感じ瞼を上げると、そこにはもう小鳥の姿はなく寂しさだけが心に刻まれた。
いくつもの青い光の粒が地面に向かって舞い降り溶けていく。
幻想的な青のひとつに思わず手を伸ばした。
(あなたの幸せを願っています)
空で小鳥の鳴き声がひとつ鳴って消えた───
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