幸せを運ぶ黒い花 - 青い鳥は闇夜の灯火となるか -

ろみ

第1章

1.プロローグ


 何の変哲もないいつも通りの1日───だった。


────────────────────


 瞬きひとつ。

 その直後に視界に入ったのは生い茂る木々。

 蔦が絡み所々に苔が生えた茶褐色の木肌は水分を含みより一層重く暗い色になっている。


 パッと後ろを振り返り、続いて辺りを見渡す。

 目に入るのは悠然と佇む木々とそこから垂れ下がる蔦ばかりで、薄暗さも相まって奥まで見通すことができない。


 ざわりと聞こえてきた音につられ見上げてみると、揺れる葉の間からわずかに陽の光が見えた。

 チラチラと除くその光は、幾重にも重なる緑に阻まれ下まで届いていない。

 木の天辺の葉は、陽を受けて淡い金色に縁取られ地上の暗さをより際立たせている。

 緑の多さと鼻を通る濃い緑の匂いに、ここは森の中なのだと確信した。

 それと同時に重くじっとりとした空気が身体に纏わりついているように感じ、思わず身震いをする。


 改めて空色を確認すると、今が夜ではないことだけは確かなようだ。

 無意識にほっと息を吐き、ほんのわずかに肩の力が抜けたことにより、手元の軽さに違和感を覚えた。

 咄嗟に上げた腕が想像よりも簡単に持ち上がり驚く。

 握り締めた手は何も掴んでおらず、そこにあったはずのバッグと買い物袋がない。


(え…豚汁の材料は?)


 パッと足元を見下ろす。

 ぬかるんだ地面、幾重にも重なる落ち葉、黒に近い暗緑色の苔でおおわれた石。

 そこに自分の荷物は一切見当たらない。

 辺りを探そうにも森の薄暗さと不気味さに身がすくみ足を踏み出せなかった。


「ここはどこ」


 張り付いた喉から無理矢理這い出たその言葉はひどく掠れ弱々しいものだった。


(明晰夢…?)


 肌に纏わりつく空気で、鼻を通る匂いで、目に映る景色で、そうではないとどこかで理解していながらも夢であってほしいと強く願いギュッと目を閉じる。


 ピュイィーーーー


 その瞬間遠くから聞こえてきた甲高い鳴き声に身体が跳ね上がった。

 この森に自分以外の生物がいるのだと当たり前のことに思い至り、途端に恐怖が込み上げてくる。


(熊がでてきたらどうしよう。スマホがないからどこにも連絡ができない。いや、ここじゃ圏外か。なんでここにいるんだ…どうしたらいい?何をすればいい?)


 不安と恐怖で思考が入り乱れ、それにもまた恐怖が生まれる。


 ピュイィーーーーー


 身体が震えを見せ始めても抗う術はなく、立ち尽くしているとまたあの声が聞こえた。


(危ない危ない、考え事をしている場合じゃない。まずは人がいる所に出なければ)


 慌てて片足を持ち上げ…そして下ろした。

 右、左、前、後、どこを見ても同じような景色。

 向かう先が分からず途方に暮れ、また思考の渦に囚われそうになる。

 思わず下がった視線の先には木の枝がひとつ。

 一歩…二歩…と吸い寄せられるように近づき、おもむろに手に取った。

 枝というには太くどっしりとしているそれを地面に立て、そっと手を離す。

 ガサッと敷き詰められた落ち葉を鳴らした枝は右斜め前に向かって倒れている。

 なんとも微妙な向きだ…

 一瞬自分の持ち物を探そうかとも考えたがすぐさま頭から振り払い、枝の示す方向へ足を踏み出した。




***




 ザザッ ガサッガサッ ザワザワ

 ピュイィーーーーー


(またあの鳴き声だ)


 眼前に垂れ下がる枝を払い、視線で辺りを警戒しながら声の鳴る方へ進む。

 枝を払う音、葉を踏み締める音、風に揺られた木の葉のざわめき、甲高い鳴き声。

 シンとした空気が漂うこの森ではひとつひとつの音がハッキリと耳に入ってくる。

 だからなのか、聞こえてきた声に気を取られ足元が疎かになった。

 地面から迫り上がる木の根に躓き膝をついたが、その惨めな姿を気にかける余裕などない。

 ドクンドクンと強く脈打つ鼓動とじんわりと痛む膝にここは夢の中ではないのだと嫌でも自覚させられた。


 ただ一人この世に取り残されたのかと思うほどの孤独に絶望しないのは遠くから届く甲高い鳴き声があるからだ。

 唯一分かる自分以外の生き物の存在。

 あの鳴き声が何なのか考えても答えは出ない。

 知らない何かに近づくのは怖いし、何故あの声に縋るのか自分でも分からない。

 それでも足を進めるのは、そうしなければこの森に囚われそうで恐ろしいからだ。

 どこに進めばいいのか分からないこの状況で、あの鳴き声だけが道標となっている。




(喉が乾いた…)


 数分か数時間か数日か…どれほど歩いたのか分からない…

 歩き慣れていない森を、終わりの見えない道無き道を、強張った身体を無理矢理動かし辺りを警戒しながら進む。

 肉体的にも精神的にも消耗が激しく、今にも倒れそうだ。


 ピュイィーーーーー


 何度目かも分からないあの声が近くから聞こえ顔を上げると前方に小さな光が見えた。

 それが垂れ下がる一本の蜘蛛の糸のようにでも見えたのか…思考が巡る前に駆け出していた。

 ぬかるんだ地面が、水を帯び重くなった落ち葉が、眼前に迫る蔦が行く手を阻み、思うように進めない。

 なかなか近づかない光にもどかしさを覚えながらも懸命に足を動かし続けた。

 震える身体も恐怖も何もかも置き去りに前だけを見て突き進むことしかできない。


 そうして目前まで迫った光は自分の背丈よりも大きかったが、そのことが記憶に残ることは無いだろう。

 周囲を漂う淡い金色の粒には目もくれず、ようやく辿り着いたその光に勢いのまま飛び込んだ。

 見えた光の意味を考えることもせずに…

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