ロッククライミングしてみよう 2
オコジョは、準備こそ石橋を叩いて渡るくらい慎重だったのに、いざ動き始めるとこっちが心配になるくらい速く、そして迷いがない。
ほんのちょっとの岩のとっかかりに人差し指と中指を引っかけ、あるいは五本の指でつかむように持ち、つま先で壁に立ち、すいすいと登っていく。
「おいおい……もう半分の高さに到達しちまうぞ」
フェルドがぽかんとした表情で呟く。
「……って、あれ? おおーい! カプレー!」
隣にいるツキノワの大声がうるさい。だが仕方がないことだ。そろそろ声を張り上げないと聞こえない距離までオコジョは登っている。
「どうしたの、ツキノワ!」
「お前の大荷物、半分も持ってってないぞ! このデカいザックは降ろしたままでいいのか!」
そういえば、カプレーが持ってきた荷物はずいぶん大きかった。
ザックの大きさとあの女の身長、正直同じくらいだ。
「登り切ったら糸を垂らすから結んでほしい! そのとき引っ張り上げる! 今はまだ使わない!」
「りょーかい!」
そしてまた、すいすいと登っていった。
あるかないかの小さな段差に体重を預け、あるいは岩の隙間に腕を引っかけ、よどみなく上昇していく。まるでそこに道があるかのように。オコジョは恐らく、登る前からどこを登るのか頭の中で何度も検討していたのだ。
「支点確保!」
オコジョが、岸壁の最上部に辿り着いた。そこから先は壁ではなく坂だ。足で登れる位置にいる。だがオコジョは念のためか、腰から糸を射出して岸壁と自分とを繋いだ。
「ニッコウキスゲ! 次はあなたの番!」
そして、あたしが登るときが来た。
「ツキノワ! 一応こっちでも見てるけど、あなたも見てて!」
「おう!」
それなりに距離があるから見えないでしょ……と思いきや、カプレーは望遠鏡のようなものを手にしていた。準備のいいことだと思いながら、手にチョークをこすりつける。これが汗を吸収して、岩を掴んだときの滑り止めになるらしい。
「この壁の難しさは距離が長いことと、岩の陰影が見えにくいことだけ! クラッキング、つまり岩の割れ目は適度に入ってるし、体重を預けられる凹凸もしっかり存在してる! 見せかけの難しさに騙されないで!」
「わかってる! いくよ!」
右のつまさきを岩壁のとっかかりに乗せる。
両手の指先を、あるかないかの凸凹に乗せる。
腕力は込めるな。
体を支えるだけでいい。
そう自分に言い聞かせながら、ぐっと体を持ち上げる。
「いいよ、ニッコウキスゲ!」
「おお、やるじゃないかニッコウキスゲ」
「ツキノワ! あんた面白がってるんじゃないよ!」
「いいじゃないか、ニッコウキスゲ」
フェルド……ツキノワに怒鳴りながら次に行くべき場所を探す。
「もっと肘を伸ばして体を立てて! 胸を壁にべったり付けると視界が悪いし、腕の筋肉も疲労する!」
「わかってる……よっ……!」
「そう、そこでいい! 腕で持ち上げるんじゃなくて、足を使う! 足腰を使えば背筋も手も伸びる! 次は左足!」
3メートルほど登っただけで、汗が噴き出た。
体力は問題ない。
体験したことのない行為に心が緊張しているのだ。
風が吹いて、髪が皮膚に張り付く。
「そろそろチョーク使って!」
見透かされている。
単に見られているだけじゃない。
初めて壁に登った人間がどういう状況になるのか、よく理解しているかだ。
「わかった!」
「もう少し登れば大きめの足場がある! そこで休んで!」
言われた通りに登っていく。
まだ三分の一も過ぎていない。
魔物と戦っているときよりよほど楽なはずなのに、疲労を感じている。
「すぅー……はぁー……」
深く息を吸い、そして吐く。
疲労した左手の指先をぶらぶらさせる。
それだけでも疲労した筋肉がほぐれて休むことができる。
今度は左手で体を支えて、右手をほぐす。
真下を見ると、ツキノワが手を振っている。
面白そうに笑ってやがる、くそ。
こっちの番が終わったらあいつにも登らせてやる。
そこから視線を上げれば森が広がっており、その遠くには街道が、そして街道の先には王都が見える。
巡礼者を守って山に行ったことなんて数えきれないほどあるはずなのに、まるで初めて山に来たときのような、初めて騎士になったときのような、新鮮で爽やかな気分になる。
そして上を見ると、オコジョが面白そうにこっちを眺めてる。
「何を面白がってるんだい!」
「だって、面白いでしょ!」
「まったくだよ!」
ああ、本当に面白い。
荒っぽい仕事をしてるんだから色んな無茶はやってきたつもりだ。
無茶を言う巡礼者のお願いを聞いたことだってある。
だけど、自分が
「少し休憩!」
3分の1を登ったあたりのところに、両足を乗せられる大きな岩があった。
数センチの足場に比べて、なんて頼もしいのだろうと思う。
足腰や背筋の緊張がほぐれていく。
「ふう……案外上手くいくもんだね……」
だが、まだまだ先がある。
行く先の壁を見た瞬間、次にどこに手を置いてどう壁を踏むかを考え始めた。
多分いける、いや無理だろうと、頭の中で自分自身と会話する。
「ニッコウキスゲ! 自分で登ってみたい!?」
「え……」
「そんな顔してた!」
「そこから見えるわけないだろ!」
羞恥を隠すように叫んだ。
だが図星だった。
安全を考えたら全部指示してもらうのが一番いいのはわかってる。
壁登りには何か理論に裏打ちされた技術があって、あたしはあいつに逆立ちしても勝てないド素人だってことは素直に認めなきゃいけない。
それでも、自分の決めた道を登ってみないと、追いつけない気がする。
「いいよ。ちゃんと見てる。好きに登ってみて」
「……すぐにそっちに行くよ」
「待ってる」
なんとなく、どういう形が安定するのか掴めた気がする。
普段、何気なく地面を歩くとき、面で踏みしめる。
かかとを下ろしてつま先から蹴り出すこともあれば、地面に靴底をフラットに降ろして歩くこともある。
壁は逆だ。
点で接するのが安定する。つまり、つま先だけで何とかする。
仕事で木に登ったり、ロープにつかまったり、あるいは壁を乗り越えることはあったが、ここまで登ることだけに専念したことはない。そして登るという技術を深く意識したこともない。
だがオコジョにうるさく言われた言葉は、正しい技術なのだと体で理解できる。
「ガンバ!」
「がんばれよニッコウキスゲ!」
「うるさいよ! 見てるんじゃなかったのかい!」
「応援しないとは言ってない!」
応援を半分無視しながらつまさきで岩を踏み、膝と背筋を伸ばして手を上に伸ばす。
自分で見定めたルートをしっかりと登っていく。
半分ほど登り切った。ここまでくると、落ちたときにどういう受け身の取り方をしても無意味だ。まず死ぬ。ぞくぞくする感覚があたしに集中を与える。
「そろそろ核心部。一番難しいところ」
カプレーの顔もよく見える距離になった。
そこまで声を張り上げなくても聞こえる。
「……ここさぁ。ほぼ垂直っていうか……垂直よりひどくない……?」
「95度くらい? 100度とか110度の壁に比べたら断然やさしい。何の問題もない」
「問題ないって言われてもね……」
「もう何回か深呼吸して。そしてよく観察して」
言われた通りに壁を見る。
ゴールは明白だ。今、オコジョが立っている場所なのだから。
そこに辿り着くにはどうすればいいかを計算する。
まっすぐ上に登ってしまえば楽だが、そうはいかない。今の自分から真上にある場所はつるりとした岩で、とっかかりがない。
少し右に迂回すると、とっかかりは多いがサイズが小さい。足を滑らせる危険がある。
左側は少ないが、足を置きやすい。踏ん張れる箇所がいくつもある。
あたしの身長がもう少し高いなら左側を迷わず選んだだろう。
だが今は、どっちも同じくらいのリスクと難易度だ。
「具体的に、手足を置くところはイメージできる?」
「できる」
私は、左側のルートを選んだ。
「うん。ニッコウキスゲならそっちが正解。足の位置に気を付けて」
「具体的な置き方は教えてくれないのかい?」
「……ウェブビレイヤーを信じて」
「落ちる前提で言うのやめてよ!」
「冗談。あなたならできる。ガンバ」
左足を小さな岩に置く。
右手の人差し指と中指を小さな引っ掛かりに乗せて体重をかけて左手を伸ばす。
体勢が少し斜めになった状態で、左手の指と手のひら全体でつかむように丸い岩を持つ。
そこから、右足を左足と同じ場所に置こうともがいだ。
スペースは狭く、両足を置けるほどの広さはない。
軽くジャンプするような形で右足と左足を入れ替える。
「初心者がそのムーブするんだ。凄い」
「誉められてもなんか嬉しくない!」
文句を返しながら呼吸を整え、そして次なる岩を掴む。
斜めになった体をまっすぐに戻し、少しずつ上を目指す。
風が強くなってきた。
だが、後少しだ。
核心部……この壁のもっとも難しいところは抜けた。
「ニッコウキスゲ! チョーク!」
「あ」
言われたときには手を伸ばしていた。
汗で滑って掴み損ねた。
右手が空を切り、体の重心がずれる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます