かべキャンしてみよう
「おっ……落ちてたまるかっ……!」
左手に渾身の力をこめながら右手を別の岩に伸ばす。
引っかかった。
だが体全体が重力で下に引っ張られ続けて、壁からずり落ちそうになる。
反射的に膝を壁に押し付け、全力で体を支える。
「はあっ……! はあっ……!」
「ナイス!」
「……ごめん、油断した!」
「気にしない! 呼吸を整えて休んで!」
落ちても糸が支えてくれるとは言え、落下への本能的な恐怖は拭えない。
強風が体から流れる汗に当たり体温を奪っているはずなのに、体の熱が消えない。
深呼吸をする。
一回や二回じゃとても足りない。
深い呼吸を重ねながら、十分くらいそこに立ち止まっていた気がする。
「……よし。もう一度やる」
「うん。落ち着いていこう」
汗の不快さと寒さを感じてきた。
体の動揺が収まりつつある証拠だ。
改めて手にチョークを塗り、一つ一つの動作、一つ一つの岩を意識して体を動かす。
「いいよ。その調子」
オコジョの声が近づいている。
すぐそこにいることがわかる。
もう何も難しいことはない。だからこそ一つ一つ丁寧にしなければいけない。
見習いに戻ったときのようだ。
もう少しだから急ぎたいという誘惑を振り切り、小刻みに登っていく。
「ニッコウキスゲ。届いたよ」
私の腕を、オコジョが掴んだ。
その細い腕のどこにそんなに力があるのかと思うが、違う。
他人の手の強さを敏感に感じ取るほどの不安に苛まれていたからだ。
壁を登るときの孤独に耐えていたから、他人のぬくもりが心地よいのだ。
「……そうだね。登り切った」
「うん」
「あたし、冒険者って巡礼者を守るために魔物とか盗賊とかと戦うのが仕事だと思ってた。ていうか今もそう思ってる。大事な仕事だよ」
「うん」
「だけど……あるんだね。こうやって、戦わずに生きる方法って」
「まあ大自然とは戦ってるけど」
「そこは頷いてよ。いい話してるんだから」
「ごめん」
ニッコウキスゲが不満げな表情を浮かべる。
でも、ニッコウキスゲの言う通りかもしれない。
私たちが通った道には、最後のところでしか敵はいなかった。
「……恨んだり恨まれたりからは、ちょっと離れられる気はするかな。山も壁も、優しくはないし、油断してる人には容赦しないけど……。でも、憎んだりはしない。自分が優しくなれる気がする」
「そうだね」
「引っ張り上げるよ」
「頼んだ、オコジョ」
引っ張り上げてもらった先は傾斜がゆるくなっており、つま先ではなく靴底で踏みしめることができるポイントだった。とはいえ油断していたら滑り落ちることはある。オコジョと同じように糸を射出して自分の体を保持する。
「オコジョ、これでいい?」
「OK。
安心すると同時に、どっと肩に疲れが宿る気がする。
「到着おめでとう、ニッコウキスゲ」
「……楽勝だったさ」
「でしょ?」
虚勢を張っていることなどわかっているだろうに、オコジョは頷いて親指を立てた。
「それ、どういう意味?」
「よくやったってこと。グッジョブ」
「こう?」
真似をして親指を立てる。
「おおーい! よくやった! でかした!」
下ではツキノワが我が事のように喜んでいる。
まったく観戦気分を決め込んで、ずるいったらありゃしない。
「あとでツキノワにも登ってもらおう」
「いいね、それ」
二人でくっくと笑いあった。
しばらく、笑いの波は引かなかった。
だけどこの瞬間、わたしはオコジョのヤバさと自然の恐ろしさを、まだ思い知っていなかった。
「ところで、すぐ上に行くんだろ? いつまでもここにいるわけにもいかないし」
「え?」
「え?」
オコジョが首を傾げた。
首をかしげる意味がわからず、あたしも首をかしげる。
なんだろう。
絶妙に、何かがかみ合っていない。
「早朝に行動開始って言わなかったっけ?」
「あ……そういえばそうだったっけ……。いやでも、もう崖の上に辿り着いちゃったじゃん?」
「うん。だから泊まろう」
「泊まるって……野営道具も何もないし、ここは断崖絶壁だし……。もっと上に登ったらサイクロプスのテリトリーだよ」
「大丈夫。ツキノワー! 私のザックに、あなたの分の食料が入ってる! それだけ抜き取って!」
「おう! それだけか!?」
「ザックを上まで運びたい! 糸を垂らすからザックを結び付けて!」
「了解!」
オコジョがツキノワに呼びかけると、ツキノワは了解と手を振る。
「粘着力は消してる! 結び方とか大丈夫!?」
「問題ない! ロープワークくらい冒険者の基本だ!」
ツキノワが大きな円筒形のザックに糸を結び付けた。
そしてオコジョが糸を短くしてザックを引っ張り上げていく。
「……岩にこすれて破けるんじゃないの?」
「大丈夫。こうやって運搬するのを想定してる。上側は摩擦に耐えられるようカバーをかけてる」
「へえ……」
雑談している間に、ザックがここに辿り着いた。
そういえばこのウェブビレイヤーって、糸を複数出したり、宝玉から切り離して使ったりできるんだ……などと、どうでもよいことをあたしは考えていた。この先どうするか予想も付かず、すっとぼけたことを考えるしかなかった。
「このザックの中には食料とか、ミニ祭壇とか、野営に必要なものが色々と入ってる。今、組み立てるから」
「組み立てる?」
猛烈に嫌な予感がしてきた。
何がどうとは言えないが、恐らく、まともなことではない。
あたしの恐怖などそっちのけでオコジョは何かを組み立てている。
それが何を目的とするかはわからないが、形としては簡単だ。
パイプを組み合わせて細長い四角形を作り、そこに分厚い布をぴんと張っている。
何かに例えるならば、
または、上下左右のすべてを枠で囲っている旗。
「これ、ポータレッジって言ってさ」
「ポータレッジ」
一番嫌な例えとしては、布張りのベッド。
もしくは、ハンモック。
「支点はこのへんがいいかな……」
オコジョは組み立て終わったポータレッジとやらを、ウェブビレイヤーの糸3本使って岩と結び付ける。更にはウェブビレイヤーとは別に実体のロープをそのへんの岩に結んで固定し、ポータレッジを繋ぐ。落下しないよう入念に固定しているのがわかる。
「それ、なに?」
「ポータレッジ」
「だから、ポータレッジって、なに」
「なんていうか……今日のホテル? ここに寝袋を敷いて、寝て、夜明け前に起きる」
オコジョが淡々と、悪夢のような一言を放った。
正気を疑いたいところだが……というか実際に疑っているが、問題は正気かどうかではない。
こいつが本気かどうかだ。
「つまりあんたは、断崖絶壁の上にベッドを吊り下げて、そこで寝ると」
「わたしがここに寝る、じゃなくて、わたしたちがここに寝る」
「ウッソでしょ」
風がびゅうと吹いてあたしの冷や汗に当たり、体温を容赦なく奪う。
寒い。
色んな意味で寒い。
「狭いのはごめん。我慢してほしい」
「狭いとかって問題じゃないよ!? マジで言ってんの!? 落ちたら死ぬよ!?」
「大丈夫。人間は20センチの段差で死ぬ。つまり20センチも80メートルも同じくらい危険。高さや段差に注意しなきゃいけないって本質は何も変わらない」
「何もかも変わるよ!」
「本当に変わらない。壁は聖地の魔力で守られてて崩落する危険はない。糸は太く短く作ったから、耐荷重2トンはある。旅人向けの安宿とか騎士団の寮とかの、何十年も使ってるオンボロ多段ベッドとかよりは遥かに安全」
「そ、そうかもしれないけど! 寝返りを打ってずり落ちたらどうするのさ!」
「ポータレッジを繋いでる糸が防いでくれる。それに、ウェブビレイヤーに付けてる糸は消さない。ポータレッジとは別の場所の岩を繋いでおいて、仮にポータレッジからずり落ちても命綱がちゃんと支えてくれる」
まずい。反論の要素が潰されてきた。
こいつは万全を期してシミュレートした上で、常軌を逸したとんでもない行動に出るタイプだ。そこらの無鉄砲な冒険者よりある意味厄介だ。
「ポータレッジも魔性の木を削りだしてるから軽くて丈夫。それに」
「それに、なに」
「こんな景色を見られるホテル。世界のどこにもない」
オコジョが、見てご覧と言わんばかりに空に手を伸ばす。
「見晴らしのいい宿はいくらでもあるだろうけど……まあ……」
ちらりと下を見る。
そこにはサイクロプス峠の下を流れる川が悠々と流れ、海へと繋がっている。
農村の田畑や森が広がっている。
魔物が巣くう聖地の間近でありながら、人々の営みが見える。
鳥のように空を飛び、すべてを俯瞰しているような錯覚。
実際、宙に浮いていると言えば確かに浮いているので錯覚とは言いがたい。
ただ高いとか、見晴らしがいいだけでは得られない、痺れるような爽快感がここにはある。
こんなことをしているのは自分たちだけだという冒険者の本懐。
正直、ちょっと悔しい。
ただ強い魔物を倒したとか、レベルの高い聖地を攻略したとか、わかりやすい難しさに挑戦するだけでは得られない本当の冒険に、登録したての巡礼者に連れてきてもらっている。
「世界のどこにもないって言われたら……その通りだよ……」
あたしの敗北宣言に、オコジョがにかっと笑った。
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