鼠は今日もホテルの残飯を漁っていた。とある離島で溌剌と駆ける彼女を想像しながら。

 鼠はその姿を人前に見せることはなかった。また見せられるはずもなかったのかもしれない。廃油の臭いが立つ側溝を這いずり廻るこの鼠は、元々人間であった。ぶくぶくと歪に太ったうす汚い灰色の体躯が、人間の頃の自尊心をそのままに映し出している。生活の卑しい臭いと、地べたを這うようにして立ち籠める欲情に追われる現状を、鼠はやはり打破しようとしていた。が、どうして鼠になってしまったのか分からない。

 ある朝目覚めると、湿り気の帯びた細毛がべたべたと張り付いた四肢がそこにあった。肉の削げ落ちた骨ばかりの前足と、所々禿げた皮膚は、汚水に濡れているにも関わらず酷く乾いていた。

 鼠は常に食欲に追われた。少しでも腹に収まるものであれば見境なく貪った。そのうちに食べかけのサンドイッチや、形の崩れたケーキなんかが見つかった時には、鼠が食欲を意識する前に、知らない他人の手で渇いた口の中に突っ込まれた。そして咀嚼も早々に一息に嚥み下した。今にこの身体が、自分の知らぬ遠いところへ消えてしまうのではないかと鼠は空恐ろしくなって、だんだん膨らんできた下腹を短い前足で覆うようにして抱いた。

 鼠が彼女に会いたいのは確かであったようだ。たとえ、ドブ鼠のままの姿であったとしても。鼠は本心ではドブ鼠のままでいいとは思ってはいないのだろう。けれども鼠としての純粋な欲情はいよいよ盛ってきて、物思いに耽ることもほとんどなくなった。ただ、僅かに、昔浴びた強烈な甘い酸い臭いが今もまだ身体の内に潜んでいて、薄膜を擦り抜けてじわりと染み出してくるような、それによってか鼓動が少しく速まるような、人間としての鼠を摘み上げるのは、彼女であった。その度に鼠は、人間に戻ることを考えた。その時だけ鼠の意識と身体は、現実に重なっていた。が、次の瞬間には、食べ物を求めて走り廻っていた。

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声のつづき 伊富魚 @itohajime

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