第七話

「俺が晨のことを好きだから、仲良くしていただけだ! それのどこが悪いんだよ! お前の彼女だって、お前よりも晨の良さに気付いただけのことだろ⁉」


 紘一の言葉が辺りに響くと、不気味なまでの静寂が訪れた。


 先程まで聞こえていたはずの雨音も、紘一が奪い取ったみたいに。


 押さえつけられていた身体が自由になり、呼吸がしやすくなった。


 晨がそう感じたのと、男の叫び声は同時だった。


 紘一に向けて走っていく男の後姿は異様な雰囲気を放っている。


 晨にはすべてがスローモーションのように見えた。


 晨は急いで立ち上がり、男の後を追う。


 足に怪我をしてしまったのか、思うように走れない。


 理解するよりも、得体のしれない焦りだけが爆発しそうだった。


 男の持つバタフライナイフがゆっくり振り上げられて、紘一の胸に沈み込んでいく。


 ナイフは何の抵抗もなく、完全に刃が見えなくなるまで刺さった。


 刺した男が何かを叫んでいる。


 紘一に唾が飛んでいる。


 しかし、紘一は目を大きく開いたまま、硬直していた。


 晨は叫び、男へと掴みかかる。


 それが合図だったかのように、時間の流れが元に戻った。


 ナイフが勢いよく引き抜かれた胸からは、見たこともない量の血液が噴き出した。


 ナイフが晨の左腕を切りつけ、その弾みで遠くへ飛んでいく。


 紘一の身体が羽交い絞めにしていた男の腕から滑り落ち、糸の切れた人形のように地面に横たわった。


 男たちが何かを叫びながら、走り去っていく。


 晨は、その光景をただ茫然と眺めることしかできなかった。


 晨の世界に雨音が戻ってくると、紘一の口からごふっと真っ赤な血液が吐き出された。


「紘一……?」


 晨は震える声で、たった一人の大切な友達を呼ぶ。


 横たわる紘一の隣に座り込み、恐る恐る肩に触れた。


「あ、き」


 紘一の声は、今にも消えてしまいそうなほど弱々しく、小さな雨音にさえ、簡単にかき消されてしまう。


「紘一! 今、救急車呼ぶから。何番だっけ、えっと、待って……警察は、あれ、どうしよう。紘一が、紘一が」


 スマートフォンを持つ手がもつれ、働くことを拒絶している脳に苛立ちを覚える。


 そんな時、晨の左腕に紘一の手が触れた。


「晨……大丈夫。落ち着け」


 紘一は真っ赤になった口角を上げ、晨に笑いかける。


 しかし、それはもう紘一の笑顔らしくはなかった。


「しゃべらなくてもいいよ! 待ってて、すぐに人を呼ぶから。絶対に助けるから」


「腕、大丈夫か? イラスト、描けるか?」


 消えそう声が、晨の心臓を握り潰そうとする。


「描けるよ、いくらでも!」


「よかった……新作、楽しみに……」


 力の抜けた紘一の腕が、地面に落ちる。


「紘一?」


「お前の絵、す……」


 紘一は最後まで声にすることなく、動かなくなった。


「……こういち?」


 二人の周りは真っ赤に染まり、それは今尚、広がり続けている。


 濃い赤が、網膜に焼き付く。


 左腕から流れ出ている血液が、地面に広がる赤いキャンパスに加わる。


 紘一の顔は青白くなっており、そこに付着した大量の血液がやけに目立っていた。


「死んでいいのは、僕だよ。紘一じゃない。友達が紘一しかいない僕より、みんなに好かれている紘一が生きるべきなんだ。おかしいでしょ? そうだよね、紘一?」


 いつの間にか、どしゃぶりになっていた雨が、晨の声をかき消した。


「死なないで、紘一!」




 それから、晨は自分がどうやって警察や救急車を呼んだのかを覚えていない。


 ずっと夢の中にいるようで、雲の上に立っているみたいにふわふわしていた。


 記憶も朧気で、晨の中に鮮明に残っているのは、『深緋こきあけ』の広がる世界だけだった。






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