第四話

 晨が奇跡的にあった消毒液と傷テープを持って戻っても、真白の体勢は変わっていなかった。


「消毒してもいい?」


 不安と恐怖を隠しきれていない晨の声に、真白の身体がビクッと跳ねる。


「真白」


 晨がしばらく待っていると、真白はのそのそと寝返りをうって、ようやく顔を見せた。


 先程よりは顔色が良くなっているし、表情も虚ろではない。


 それよりも、バツの悪そうな表情と言っていいか、悪さが見つかった犬みたいだと言っていいか、悩む。


「……ごめんなさい」


 真白の小さな声に、晨は内心で胸を撫で下ろした。


 どうやら、本当に正気に戻っているようだ。


「びっくりした」


「私も、こんなことした自分にびっくりしてる」


 その言葉が予想外で、晨はすぐに反応できなかった。


『殺してほしいんじゃないの?』


 そんな言葉が浮かび、背筋にひんやりしたものが触れた感覚を覚える。


 いつの間にか、晨の中で真白の要求が当たり前になっていたのかもしれない。


 だから、そんな言葉が浮かんでしまったのだろうか。


 それが、晨には一番怖いと思えた。


 当然、晨に殺す気はない。


 だけど、真白の要求を否定していない。


 どうしてだろう。


「晨?」


「あ……ごめん。なんでもない。手、見せて。深くないといいんだけど」


「大したことないよ。ちょっと掠っただけで、全然痛くないもん」


「それでも、ちゃんと消毒しよう」


 真白は渋々といった様子で、右手を差し出した。


 真白の言うとおり、傷は深くなかったようで、すでに出血は止まっている。


 沁みるかもしれないと思い、慎重に消毒をしている間、真白は表情を変えず、静かに自分の手元を見つめていた。


「終わり」


「ありがとう。晨は? 怪我してない?」


 真白は身体を起こすと、ソファーから滑り降りて、晨の正面に座った。


 まるで晨の全身をスキャンするように、頭の先から、ゆっくり視線を下ろしていく。


「大丈夫。どこも怪我してないよ」


 晨の言葉を聞き、自身のスキャンでも問題ないことがわかったのか、真白はホッと息を吐いた。


 そんな真白の様子を見ていた晨は、無意識に真白の髪を撫でていた。


 シャンプーとリンスを買えた方が良いかもしれない。


 今度の買い物リストに加えよう。


「こんなつもりじゃなかったの」


「うん」


 それはなんとなく、わかっていた。


 真白の様子が普通ではなかったから。


 正気を失っているようだった。


 まるで、何かに意識を乗っ取られたみたいに。


「じゃあ、どんなつもりだったのって聞かれると、ちょっと困る」


 俯いた真白の表情が暗くなり、噛んだ唇が白くなった。


 晨は頭を軽く撫で、指でそっと唇に触れる。


「そんなに噛んだら、血が出ちゃうよ」


「……そうだね」


「ねえ、真白。どうして、さっき刺して欲しくなったの?」


 真白は膝を立て、小さく丸まる。


 不意に真白の足の長さに目が行った不埒さに嫌気がさして、そっと目を逸らした。


 今、大事なのは真白の気持ちだ。

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