第三話
「お昼、何が食べたい?」
晨は考えようとして、すぐに諦めた。
食に興味がなく、空腹が満たされればいいと思っているため、食べたい物を聞かれるのが昔から苦手だ。
「何でもいいよ」
「それが、一番困る!」
この会話が、なんだか照れくさく感じた。
晨は買ってきたものをリビングの端に置き、頭を掻いた。
「……真白が食べたい物がいい」
我ながらずるいと思いながら、晨は真白を見ずに呟いた。
だから、真白がどんな表情をしたかはわからない。
「もう! バカ!」
「なんで――」
振り返った晨が目にしたのは、真白が真っ赤な顔をして、パーカーをぎゅっと握り締めている姿だった。
思わず、晨の頬も熱くなる。
「バカはどっち⁉」
晨が叫ぶと、真白は唸り声を上げながら、キッチンへ走っていく。
何をするのかと思って目で追っていると、包丁を出す真白の様子が確認できた。
怒りながらも、料理を始めようとする真白を見て、晨はホッと息を吐く。
晨は動揺した自分を意識しないように、買ったものを黙々と整理し始めた。
だから、気付かなかった。
「晨」
「え?」
真後ろから聞こえた声に、晨は反射的に立ち上がり、振り向く。
目の前に立っていた真白。
まっすぐ晨の目を見ているが、その瞳はゆらゆらと揺れている。
「刃は、横に」
「なに言って――」
真白は晨の言葉を遮り、乱暴な手つきで晨の手を掴んで、何かを握らせた。
冷たく硬い感触。真白が唇を噛み締めたのを見て、晨はゆっくりと視線を落とした。
刃渡り十七センチのステンレス製の包丁に陽射しが反射し、晨の目を眩ませる。
真白の手に力が入り、ゆっくりと晨の手の角度を変える。
刃がちょうど水平になったところで、真白が口を開いた。
「刺して」
晨の手の上から握られた手に、更に力が加わる。
ゆっくり、真白の胸部へ導かれる刃先。
その先にあるのは、心臓だ。
「ちょっと、なにを――」
「殺して」
感情のない平坦な真白の声に、晨の背筋が凍る。
そこで、ようやく晨は我に返った。
勢いよく手を引き、真白の手を振り解く。
その瞬間、刃先が真白の手の甲を掠め、赤い線が滲んだ。
「な、なにを……何を考えてるんだ!」
晨は震える声で叫んだ。
無表情で佇む真白を睨み、包丁を投げ捨てる。
離れたところで、カシャンと金属音が鳴った。
「ねえ、晨。人はね、簡単に死ぬんだよ」
「知ってるよ!」
怒りで目を吊り上げる晨と空虚な目の真白は、しばらくの間、無言で見つめ合った。
――沈黙を破ったのは、晨だった。
「消毒しよう」
晨は真白の手をそっと握り、ソファーに促す。抵抗されることも覚悟していたが、真白は大人しく従い、ぽすんと軽い音をさせて、力なく横たわった。
もともと色白の顔は生気を奪われたように青白くなっている。
晨は頬にかかった真白の髪を、優しく耳にかけ、頭を撫でた。
髪は少し傷んでいて、よく見ると、切り方も不揃いだ。
こちらを見ようとしない真白から目を離すと、また包丁を拾いに行きそうで怖い。
その証拠に、手から始まった晨の震えは、今では全身に広がっている。
晨は真白の前に
「真白」
つい先ほどは喜んだ呼び方にも、真白からの反応はない。
「真白、聞いて。俺は消毒液を取ってくる。少し離れるけど、ここを動かないって約束できる?」
晨の言葉に反応するように、ようやく真白の視線が晨に向いた。
「……うん」
「いい子だね」
真白は泣きそうな表情を浮かべたかと思ったら、身体を
小さな身体が震えている。
晨は奥歯を噛み締め、背中をトントンと叩いた。
それだけで落ち着くとは思えなかったが、人付き合いの苦手な晨には、これくらいしかしてやれることが浮かばなかった。
晨は立ち上がると、転がっている包丁を拾った。
ほとんど料理をしない晨は包丁を使うことがない。
では、なぜ置いてあったのかというと、一人暮らしをする時に、母親が勝手にキッチン道具を揃えたからだ。
晨はそれらを見て、鼻で嗤ってしまった覚えがある。
絶対に晨が使うことはないとわかっているのに、わざわざ揃えたことが滑稽に思えたのだ。
晨は無意識に左腕に視線を落とした。
「刃物なんて、あってもいいことない」
捨ててしまおうか。
そう思ったが、真白が楽しそうに料理をしている姿が浮かんでしまい、眉間に
先程の危うい真白と生き生きとした真白が交互に浮かぶ。
その隙間を縫うように、鮮やかな赤が大きく広がっていく。
晨は自身の不安定さを正すように、首を振り、深呼吸をした。
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