一  春罧《しゅんりん》

第一話

「晨! 起きて!」


 真白の元気な声とともに、朝陽を遮っていたグレイの遮光カーテンが開かれた。


 窓から射し込むのは、陽気な春を思わせる暖かな陽射し。


 真っ暗だったリビングに小花が舞うように、真白は楽しそうに晨が包まっている布団をリズミカルに叩く。


「起・き・て! あーきー!」


 ぽんぽんぽん。タタタンタン。


 真白は晨が起きるまで、ずっとこれを繰り返す。それも毎朝だ。


 今は真白が寝室のベッドを使い、晨がリビングのソファーで寝ている。


 しかし、寝室は仕事場でもあるため、夜の間ずっと絵を描いていることも多い現状は、真白の睡眠には適していない。


 この問題を解決すべく、二人は今日、布団を買いに行くことにした。


「晨ってば!」


「もう、わかったって!」


 晨は布団を跳ね上げ、顔を出した。


 晨のしかめっ面を見て、真白は満足そうに笑う。


「こっちは遅くまで仕事していたんだから、もう少し寝かせてくれても――」


「お買い物、早く行きたいんだもん!」


「別に慌てなくても、店は逃げな、あっ、ちょっと……危ないなぁ」


 真白は晨の言葉を無視して、その両手を掴むと、強く引っ張った。


 そのせいで、体重の軽い晨は簡単にバランスを崩し、ソファーから転がり落ちてしまった。


「逃げるんだよ、本当に欲しいものは! ほらほら、顔を洗う!」


 晨は、鼻歌まじりの真白がキッチンへ向かったのを目で追いながら、欠伸あくびをかみ殺した。


「布団を買うくらいで、何がそんなに嬉しいんだか……」


 確かに晨にとっても、今の環境の悪さと効率の悪さは居心地が悪い。


 絵を描いている晨の背後には、ベッドで寝ている真白がいる。


 起こしてはかわいそうだ。


 静かにしないと。


 明るくて起きないだろうか。


 ちょっとした心配が過るたびに、イラストを描く手が止まる。


 没頭していたはずなのに、その世界から現実へと引き戻されてしまう。


 そんな雑念が、これまで淡々とした日常を繰り返していた晨の生活を侵食し始めている。


 その上、晨はソファーで寝ているのだから、疲れも取れない。


 だったら、いっそ布団を買って、生活環境を整えた方がいい。


 顔を洗い、身支度を終えた晨が洗面所を出ると、ふわりといい匂いが鼻先をくすぐった。


「ご飯、できてるよ」


「あ、うん」


 真白はここに住むようになってから、頼んだわけでもないのに、当たり前のように家事全般をこなしている。


 晨の不規則な生活を正すように、食事は一日三回。


 晨に合わせて、多少時間が変わることはあっても、回数が減らされることはない。


 それから、必ず朝陽を部屋に入れる。


 晨が遅くまで絵を描いていた翌日も、必ず朝、カーテンを開ける。


 それを、晨は煩わしいと思う反面、どこか、気持ちにゆとりができてきたことを感じ、複雑な気分になる。


 寝不足で、気だるいはずの朝が、少しだけ気持ちよく感じるのだ。


 ダイニングに行くと、こじんまりとしたテーブルに、朝食が並べられていた。


 今日は和食のようだ。


「ほらほら、早く座って! 私、おなか空いた」


「……うん」


 いつの間にか、晨と真白の座る席が決まっている。


 晨は真白の正面に座ると、目の前に並んだ食事に視線を落とした。


 バラバラの食器に盛り付けられた料理は、特別なものではない。


 どちらかというと、素朴で、まるでおばあちゃんちの朝食のようだ。


「いただきます!」


 真白の元気な声に、晨はハッと顔を上げた。


 手を合わせていた真白が首を傾げる。


「どうかした?」


「いや、別に」


 晨の違和感は日に日に増している。


 真白は明るく、元気いっぱいで、年上のはずの晨を揶揄からかうことを楽しんでいるし、張り切って家事をこなしている。


 何かを悩んでいる様子も、暗い表情も見せない。


 それなのに、『殺してほしい』という言葉が出てきたのはどうしてだろうか。


 もしかしたら、単なる気まぐれ。


 もっと言うなら、ただ人を揶揄って遊んでいただけなのかもしれない。


 そう言われる方が納得できる。


 でも、真白の環境は普通ではなさそうだ。


 このちぐはぐした印象が晨を混乱させる。

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