第三話

 イラスト集の打ち合わせは、新宿にある出版社で問題なく終わった。


 吹き抜けの開放的なロビーから外に出ると、強い風が晨の髪を舞い上げる。


「さむっ」


 思わず腕を組み、背中を丸める。


 普段は背の低さを気にして、背筋を伸ばしているが、寒さにだけはどうしても勝てない。


 新宿の人の多さにクラクラしながらも、迷路のような駅構内に入ろうとした時だった。


 不意に目に入ってきた光景に、うっかり意識を奪われてしまった。


 先日の少女が、先日と同じ服を着て、四十代くらいの男性に笑顔で話しかけている。


 二人の声は聞こえないが、笑顔の少女とは裏腹に、怪訝な表情を浮かべる男性の様子を見て、容易に会話を想像できた。


 気付けば、晨の足は少女と男性を目指し、勝手に動き始めていた。


 見知らぬ少女なんて、放っておけばいい。


 自分とは何の関係もない子だし、それどころか、変なことに巻き込まれかねない。


 それなのに、自分はなぜ駆け足にも近い歩調で進んでいるのだろうか。


「――簡単だよ。人って、簡単に死ねるんだから」


 その言葉が耳に入り、晨は慌てて二人の間に割り込んだ。


「すみません。気にしないでください」


 自分の焦った声に隠れていた感情を突き付けられ、唇を噛む。


 不本意であるが、手は少女の手首を掴み、引っ張っていた。


 彼女の足が不安定によろめき、晨は力を緩める。


 それでも、晨はその場から連れ出すことしか考えられなかった。


 男性の姿が見えないところまで来て、晨はようやく少女の手を離し、向き合った。


「本当にバカだった」


 呆れと苛立ちの混じった晨の声に、少女は肩を竦め、舌を出した。


「バカだもん。いいじゃん」


「良くない。世の中には冗談を真に受ける人もいるんだ。もし、本当に危ないところに連れていかれて、本当に何かされたらどうするの?」


 言葉にすると、今度は怒りも芽生えてきた。


 世間知らずなのか、危機管理能力の著しい欠如なのかわからないが、自分がどれだけ危ないことをしているのか、わからせたい。


 怒りを堪えるのは、随分久しぶりの感覚だった。


「冗談じゃないし」


 少女は不貞腐れたように呟くと、そっぽを向く。そんな彼女の頭を思わず叩いた。


 小心者の晨にできたのはこつんという、可愛らしいものだったが。


「冗談じゃないなら、尚更危ない。もう、あんなことをするのは止めて、学生は大人しく春休みを満喫しなさい」


「高校を卒業したばっかりだし、進学もしない私に春休みはないもん!」


 開き直ったように笑った少女の頭をもう一度小突く。


「だったら、就職? 仕事に行かないの?」


「就職もしてないよ」


 晨は不思議そうに首を傾げる。


「じゃあ……何?」


「何って言われても。絶賛、殺してくれる人を募集中?」


 晨は何度目かわからない溜息を吐き、耳に髪をかけた。


「フリーター? ニート? いや、もう何でもいいや。とにかく、こんなことは止めて、家に帰りなさい」


「ないもん」


「え?」


「だから、私にはもう家がないの」


「えっと……家族は?」


「誰も、いない」


 少女の表情がわずかにかげり、晨は胸の奥に小さな痛みを感じた。


「……ごめん」


「別に大したことじゃないし。あ、同情とかいらないから」


 晨には、次に続く言葉が浮かばなかった。


 高校を卒業したばかりなら、まだ十八歳だ。


 就職も進学もせず、帰る家もなくて、家族もいない。


 それがどういうことか、わかったつもりでいても、すっきりとした理解にまでは至らない。


「じゃあ、どこで生活してるの?」


「漫画喫茶」


 あっけらかんと言った少女を見て、晨は天を仰いだ。


 詳しい事情を知らない今、どう受け取ればいいか、判断に困る。


 晨は言葉を探すのを諦めて、雨が降りそうな空を見つめ、グッと奥歯を噛み締めた。


 人と深く関わるつもりはない。


 だけど、目の前には危なっかしい少女がいる。


 放っておけば、また変なことをいろんな人に言って回るのだろう。


「……名前」


「ん?」


「君の名前は何? 俺は東雲晨」


「ああ。私は、麻生あそう真白ましろ。十八歳!」


「……着いてきて。仕方がないから、俺の家に行こう」


 真白は大きな目をぱちくりさせると、満面の笑みを浮かべた。


 その瞬間、雑踏の音が止み、真白の世界に引きずり込まれた気がした。


「わぁい! 晨が私を殺してくれるんだ!」


 真白の大きな声に、晨は慌てて口を塞ぐ。


 周囲を見回したが、幸い真白の言葉を聞いた人はいないようだ。


「人聞きが悪いことを言わないでくれる⁉ 通報でもされたら、どうするんだよ!」


 晨は怒っているのに、真白は楽しそうに笑い、口を塞いでいる手に触れた。


 自分がしていることに気付き、晨は急いで手を離す。


「晨の手、綺麗だね!」


「俺、年上! 呼び捨てにしないでよ!」


「晨は晨だもん。もう決まったから、これは変えられません!」


 クスクスと笑う真白の様子に、晨は頭を抱えた。


 年下の真白に敵わない気がする。


 そんなことを予感しながらも、晨はご機嫌の真白を連れ、帰路に就いた。

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