第二話

 自宅に着くと、まっすぐ水槽に向かい、腰を屈めた。


「ただいま。元気に泳いでる?」


 晨の言葉に返事をするように、三匹の橙色の金魚が尾びれを揺らす。


 それを見て満足した晨は、キッチンに行き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。


 帰宅したら、金魚に声をかけ、水をコップに一杯飲む。


 それが、晨の習慣だ。


 その後、軽く夕食を済ますと、大きなデスクに向かった。


 デスクの上には大きなディスプレイと液タブが置かれている。


 デスクの隣にはデザインや絵画、イラストに関する書籍がずらりと並び、その隣には文庫本がきっちりと作家順に並んだ本棚がある。


 ここが晨の仕事エリアで、一日のほとんどを過ごす場所である。


 パソコンに電源を入れると、機械音が静かな室内に響いた。


 リュックサックから、今日の打ち合わせメモを取り出し、何度か見返す。


 今日の依頼主は定期的に仕事の依頼をしてくれる会社で、フリーランスの晨にとって、ありがたい取引先だ。


 イラストは独学で始めた。


 高校と大学は両親の望むままに進学したが、就きたい仕事はなく、惰性のように学生生活を送った晨が選んだのは、長い間、趣味でしかなかったイラストの仕事だった。


 それは、晨が積極的に得た仕事とは言い難い。


 どちらかと言うと、偶然が重なって、イラストを描くことが仕事になっていた。


 趣味で描いた絵をSNSに投稿していたのは、ほんの些細な気まぐれだった。


 ただ、描きたいものを描きたい時に描いて、インターネットにアップする。


 そうすると、世間が反応を示してくれ、自分の絵を好む人が多いのだと知った。


 気付けば、世間からの認知度が上がり、イラスト投稿サイトでピックアップされたことをきっかけに、企業からの依頼が入るようになった。


 その依頼を受けて、描いて、納品する。


 依頼絵以外は、相変わらず好きなように描くだけ。


 そんな毎日が続き、いつの間にか、これが仕事になっていたのだ。


 両親はイラストレーターの仕事をあまり良く思っていない。


 収入が安定しているものではないからだ。人気が無くなれば、仕事もなくなる。


 そうなれば、わかりやすく収入がなくなるのだから、両親の考えも理解できる。


 それでも、晨に辞めるつもりはない。


 イラストを描き始めた晨の耳には、もう何の音も入ってこない。


 集中が途切れるまで無心でペンを走らせる。


 この原動力がどこから来るのか、晨本人もわからない。


 無意識に五感で感じたものを、直感に従ってアウトプットしている。


 計算はしないし、人の反応を狙ってもいない。


 晨の中にある何かを表現している。


 それだけのことだ。


 不意に、華奢な手が止まった。


 我に返った彼の前には、背中まであるストレートの黒髪に夕陽が当たって輝き、屈託のない笑顔で振り返る女の子がいた。


 先程の変な少女を思い出させるイラストだ。


 このラフ画からは、不思議と名残惜しさを感じさせるものがある。


「何を描いてるんだ」


 馬鹿々々しい。


 変なことを言われて、どちらかと言うと不愉快だったのに、自分が無心で描いていたものからは正反対の印象を受ける。


 少女は、晨に何を与えたのだろう。


 決して、人物画を描くことのない彼を突き動かしたものとは。


 晨は大きく伸びをすると、気を取り直して依頼絵に取り掛かった。




「おはようございます! 四月六日、水曜日。今日は――」


 テレビから聞こえてきた女性アナウンサーの声に、視線を上げる。


 テレビには笑顔のアナウンサーが中継先と会話をしている様子が映し出されている。


 晨は部屋に広がるコーヒーの香りを肺いっぱいに取り込むように、大きく深呼吸をした。


 今日はイラスト集を出すための打ち合わせが入っている。


 身支度を終えた晨は、窓越しに空を眺めた。


 灰色の雲から今にも雨粒が落ちてきそうな、どんよりとした空模様だ。


 それが、人と会うことが嫌いな晨に追い打ちをかける。


 晨は鬱々とした表情でリュックサックを肩に引っ掛けた。




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