惜しむらくは、淡雪のごとく

安里紬(小鳥遊絢香)

序章

第一話

 若者であふれ返る休日の渋谷で、東雲しののめあきは暗い表情を浮かべて、とぼとぼと歩いていた。


 二十四歳になったばかりの晨にはコンプレックスがある。


 男らしくなりたかったのに、顔のつくりは中性的で、栗色の髪はふわふわしているし、百七十センチに届かない華奢な身体は弱々しく見える――と、晨自身は思い込んでいる。


 実際、外見の特徴は捉えているものの、他人からの印象は少し異なるようだった。


 晨は細い指で髪を耳にかける。


「これだから、人は怖いんだ」


 辟易とした感情が滲み出た呟きに、すれ違った男性がちらりと視線を寄越してきた。


 晨はそれを無視し、視線を落としたまま、足早に駅を目指す。


 イラストレーターとして依頼を受けている顧客との打ち合わせを終え、後は家に帰るだけ。


 そんな晨がここまで不機嫌になっているのは、晨にとって、ごくありふれた出来事のせいだった。


『東雲さん、今度、一緒に食事に行きませんか?』

 と受付で誘われ、


『彼女はいるんですか?』

 と、打ち合わせ直後に、女性社員に聞かれ、


『俺、いけますよ』

 という、反応に困る言葉を投げてきた新卒の男性社員までいた。


 晨はそれらすべてを丁重に断り、足早に社屋を出てきた。




 駅が見えてきたところで、ようやく歩調を緩めて、空を見上げた。


 今夜の予想気温が四月とは思えないほど低かったことを思い出し、背負っていたリュックサックの肩ベルトをぎゅっと握った。


 寒いのは苦手だ。


 日が落ちてしまう前に帰ってしまおう。そう思った時だった。


「ねぇ、お兄さん」


 凛とした高めの声が、晨の足を止めた。


 いや、止まらされた。


 羽織っていたカーディガンの裾を引っ張られたせいだ。


 声を掛けられただけなら無視するが、流石に服を掴まれていては無視もできない。


 不機嫌を滲ませた表情で、晨は声の主へ顔を向けた。


「あ、かわいい」


 目の前にいた少女に言われ、晨はムッとして睨みつける。


「……なに?」


 晨のぶっきらぼうな返事に、少女は目を丸くしたが、すぐにっこりと笑みを浮かべる。


「ねぇ、お兄さん。私を殺してくれない?」


 今度は、晨が目を大きく見開く。


 言葉の意味を理解しようとして、早々に諦めた。


「……バカなの?」


 思わず出た言葉の冷たさに、自分の心臓がヒヤッとする。


 東雲晨という男は人に冷たくあるべきで、優しくしてはいけない。


 心を開いてはいけない。


 それは、あの日から晨の中に蔓延はびこる強迫観念。


「その返しは新鮮だ!」


 晨の態度などお構いなしといった少女の反応に、晨は大袈裟に溜息を吐く。


 よく見ると、少女はまだ高校生くらいで、整った顔つきをしている。


 すらりと長い脚に細身のジーンズがよく似合っていて、パステルカラーのシンプルなパーカーが少女の可愛さを際立たせていた。


「大人をからかってないで、暗くなる前に帰りなよ」


「お兄さん、優しい! やっぱり、私、お兄さんがいい!」


 その言葉に、晨の肩がビクッと跳ねた。


「俺は優しくないし、何もしないから」


 相変わらずニコニコしている少女を睨みつけ、晨は返事を待たずに歩き出す。


 引き留められるかと思ったが、本気ではなかったのだろう。


 駅に向かう晨にかけられる言葉は何もなかった。


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