次の日、相も変わらず僕は行きつけの喫茶店に向かっていた。





―此処のコーヒー、本当に美味いんだよな。




 喫茶店に着くと、僕はいつもの様にいつものコーヒーを頼み、いつもの席に腰掛け、いつも読んでいる本の栞が挟まれたページを開いた。このルーティンがいつの間にか体に染み込んでいたのだろう、この日の風景の中で一つの違和感を感じずにはいられなかった。





 それは店内に僕以外の客が一人、居ること。奥まった通りでこじんまりと経営しているこの喫茶店、しかも平日の昼前の時間帯であれば基本的に僕一人しかいないはずなのだ。僕以外が居てはいけないというルールは勿論ないが、まず事実として僕以外に人が居るのは本当に珍しいことだった。





 僕と同じカウンター席に座っているその客は漆黒の外套を身に纏っており、顔に見える所だけでも三枚の絆創膏を貼っていた。ふとした瞬間に見えた腕にもまた絆創膏が数枚貼られており、小窓から差し込む日差しでさえも焼くのを躊躇してしまう程、病弱そうな白い肌をしていた。少し押すだけで倒れてしまいそうな位の脆弱さに端正な顔立ちが相まって、その人には独特の儚さが感じられた。おそらくこの客に対して違和感をより強く感じられたのは、「この街では見かけないタイプの人間」であることが大きいのだろうが。




 緊張と不審感からこれでもかというほど彼を凝視してしまっていたのだろう、僕からの熱視線を感じ取った客がゆっくりとこちらに顔を向け、僕らは偶然に目を合わせた。はっとして直ぐに目を逸らしたのも束の間、今度は相手方から凄まじい視線を感じ、気まずい沈黙が流れてしまった。



「おい」



 え?…初対面でいきなり「おい」はないだろ。



「変な髪型をしているな」



 …ん?僕、今すごく失礼なことを言われたような…。



「…はい?」 



 痺れを切らして相手の声に反応する。



「髪の毛、片方だけ切り忘れているぞ」



「あー……こっ、これは…!アシンメトリーっていってちゃんとした髪型なのっ!つーか話しかけてきて早々外見のことを貶すなんて…しっ失礼だぞ…」 



 おどおどしながら言い返す自分自身が恥ずかしくてたまらない。誰か僕をどこか深いところに埋めてください…。そもそも、したくてこの髪型にしているわけではないのに。




 この左右非対称な髪型は孤児院時代、子供に悪戯で切られたものだった。あの頃は死にたくても死にきれない、まさに拷問ような生活が毎日のように続いていた。規則も厳しく、ゴミ箱に捨てられていた飴一粒を持ち帰っただけで反省部屋という名の牢獄に入れられた。三日三晩放置された挙句、僕が暴走するなんて有り得ないことを理由に謎の注射を打たれた。お前はじっとしていることも出来ないのかと、足の甲に釘を打たれて固定されたこともあった。夏は腹に火傷を負わせられ、冬は冷水に顔を沈められた。極寒の中石造りの部屋で皿洗いをした後の素手は、その後数日間感覚が戻らなかった。



 次々とトラウマがフラッシュバックする。こんな過去のことなんてもう思い出さない。僕は変わったんだ。そんな自己暗示に反して体は正直に反応する。動悸が激しくなり、呼吸が荒くなった、手が震え、あばら辺りの火傷の傷がひりついた。

 客はそんな僕の様子を冷たく一瞥するだけで、焦る様子は微塵もない。表情の変化もなかった。



「変だとは云ったが、そなたの髪型を貶してなどいないぞ」



 なんだこいつ。僕がフラッシュバックしている時にまだ髪型の話してるのかよ。



「…じゃあ、なんなんだよ一体」








「やつがれは好きなのだ、そなたの髪型が…」



 即座の返答だった。そいつの言葉は、まっすぐ、一片の揺らぎも無く、僕の耳に入り込んできた。

 そいつは二回、瞬きをした。一回は生理的に、もう一回は俯きがちに。僕の毛束にちらりと目を遣り、猫じゃらしみたいで可愛いではないか、と。そして血色のなかった頬がほんの少しだけ桜色に染まるまでの一連の様子を僕は見ていた。見惚れていた。夏なのに桜色に染まるって…。しかも僕猫じゃないし…虎ではあるけどさ。あ、てことはネコ科ってところは合ってる…すご…。



「ふははっ」



 気が付けば僕の口角は上がっていた。初めて聞く僕の笑い声にそいつは少々拍子抜けしたようだった。僕とこいつは初対面、彼に僕を励ます気がさらさらないのは当然のことで、先刻の言葉に何の意図もないのもわかっていた。それにも関わらずなぜ彼は、僕を苦しめてきた今までの過去の記憶をこうも洗い流してくれるのだろう。



 僕の笑顔を見て理解に苦しむ表情をしていたのも一瞬、そいつの瞳にも光が宿り、気付けばふたりで笑っていた。おそらくそいつはもともと笑う性分ではないのだろう、片方の口角がにやりと上がる程度のものだったが、むしろ僕はそこにも惹かれ始めていた。




 名前すら知らない、この人に。




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