〈another side〉-----------------------------------------------------------------------------




―ああ。傷が痛い。無理に仲間を守るんじゃなかった。死にたくないなあ…。




 そんな願い虚しく、雨は無情にも彼の傷を裂いてゆく。





―このまま、私は…





 その時、朦朧とした意識の中、どこからかぬかるんだ地面を歩く足音が聞こえてきた。ぼんやりとした視界の真ん中で、何やら考え事をしている人間が一人、突っ立っている。髪の長さや体格から判断するに男だと思われた。次の瞬間、そいつは何かを決心したかのように此方に近づいてくる。とどめを刺されるか、と思ったのも束の間、男は私の身体の隣に絆創膏を、そして体を覆うように傘を置いて行った。私は遠退いていく意識の中で、男の顔を必死に捉えようとした。



 琥珀色の瞳に白髪のショートヘアー、何故か耳横にある片方の毛束のみ他より長かった。虎のような、猫のような…ネコ科という単語がしっくりくる印象的な顔つきにこの髪型がかけ合わさり、顔横の毛束に猫じゃらしを連想させた。おどおどしながら私を助けてくれる様子

も相まって、かわいい、と思った。


 だがそんな記憶ももう間もなく切れる時が来る。全てが無に帰される時が。自分でもなぜか、もうそろそろな気がしていた。





―「ありがとう」って、云いたかったなあ。













 目が覚めても、無論私は公園の中にいた。陽の高さからして実際はきっと十時前後だろうが、古びた公園の時計はまだ午前八時を指している。この時計を基準に生きている奴がいたらどうしてくれるのか。適当にも程がある。まだまだ乾きそうにない地面から、昨日の雨がどれほど強かったのか大体予想できた。太陽も全く使えない。昨日の今日でまだ地面を乾かせないのか。公園の奥の方で鳴くキジバトが、「おはよう、おはよう、とっくに朝だぞ」と話しかけているような気がした。否、「お前、あの傷で良く生きられたな」と言っているのかもしれない。




…傷?






「…え!?」




 私はすかさず腹の傷に手をあてた。傷がなくなっていたのだ。背中の傷にも手を遣る。肩甲骨あたりに、少々ザラザラした手触りだけが感じられ、かつての根性焼きの傷であることを悟った。つまり致命傷となる傷は全てなくなったということだ。他にも痛々しい傷があったはずだが、不思議なことにそれらも全て掠り傷になっていた。






 


 そして何よりも驚いたのが、全身から体毛がなくなっており、前足と後ろ足についていたプニプニとした肉球は細い五本の棒をくっつけた四本足に変わっていたことだ。






 私は俗に、人間という生き物になっていた。そのことに気がついた瞬間、心臓の拍動が早くなり始めた。脳内に血液が勢いよく巡り出し、同時に何かの断片(そういえば、昨日夢を見たような気がするのだ)が蘇る。






 それは、一筋の光のような。煩悩で苦しむ人間に捧ぐ悟りのような。決して付いて行ってはならない、柔らかくて危険を孕んだ優しい声が私を包みこむ。








―お前は今この瞬間、この世に未練を作ったようだが。



―…未練?ああ、あの男に…。



―未練のある者は極楽浄土には行けない決まりがある。このままだとお前は地の底で泥を啜るような世界で、死後も罰を受け続けることになる。罪人でないお前に私が慈悲を与え、未練をなくさせ極楽浄土へ行けるべくお前を人間にすることにした。





 意識が飛びそうだ。理解も追い付かない。





―人間界には戸籍というものがあってな。必ず名前が必要なんだ。お前の名前は……だ。そして人間に成り代わった死者の一人称は「僕」という決まりがある。心して使え。



―…な、まえ?しかも一人称「やつがれ」って…なにそれ?



―但し、……、………。善いな。










 …あの夢、本当だったのか。だが極楽浄土なんてものもよく分からないし、聞き取れなかったしで、本当に夢オチだってありえる。まあ、どんな形であれ私…否、「僕」はこうして生きていられているのだから、これで良かったのかもしれない。

 やつがれは石の下に置かれている湿った絆創膏を手に取ると、顔の小さな傷と治りきらなかった手足の掠り傷に丁寧に貼った。そして常人より優れた嗅覚で珈琲の香りを嗅ぎつけると、やつがれは近くの喫茶店に足を運んだ。





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