芥火に願いを
LIM
起
降り頻る雨の中、僕は地を蹴っていた。
今自分がどれほど走っているのかさえ分からない。むせ返るほど暑い湿気は吸気の許容を容易に超え、その苦しさで涙が滲んだ。 喉が張り裂けそうだ。頬に打ち付けている小さな雨粒ですら、いつの間にか僕の痛覚を刺激し始めていた。だがその程度の痛みでは今の僕の歩みは止められない。
其れほど、僕は必死に彼を探していた。
僕が彼と初めて出逢ったのはいつだったろうか。出逢って未だ日は浅いはずなのにもう忘れてしまった。其れ程早く、僕は彼との距離を縮めていったような気がする。否、彼が、僕との距離を縮めていったのだ。…出逢った日にちなんてものはすっかり脳の奥底にしまい込まれてしまって少しも思い出せない。だが、出逢ったあの時の、あの瞬間の景色、会話、香りは。何故か昨日のことの様に思い出せるのだ、不思議なことに。
其れは、鬱陶しくなるくらい暑い日のことだった。
驟雨が夏の生暖かい空気をさらに湿らせ、人間の不快指数すらも嬉々として上昇させる、夕刻。そんな惨事にはそれなりに顔をしかめるのが常人の性であろうが、僕はというとその日を待っていたと言わんばかりの表情で、自慢げにビニール傘を開いていた。
というのも、僕中島敦は武装探偵社に入社して初めて、傘という便利な道具を頂いてしまったのだ。
僕は元々、雨は好きでも嫌いでもなかった。無関心、という言葉のチョイスが一番近しいかも知れないが、今までは雨が降るたびに高架下や軒下で雨が止む迄足止めされることが多く、少々億劫には感じていたのだ。
―これさえあればもう少し外で暇つぶしができるぞ。
此の日は久々に休暇を頂いた日であった。こうして外に出てみて気が付いたが、ここ数日僕は依頼やら書類整理やらに追われていて空さえもまともに見ていなかった様な気がする。その反動もあってか、生温い天気であっても少しでも長く外に居たい気分だった。
透明なビニール傘から眺める空はお世辞にも綺麗と言えるものではなかった。上空は灰色の雲がこれでもかというほどひしめき合っており、雲量に比例した大量の雨粒が傘に打ち付け、そもそも空を見るどころではなかったからだ。空目的であってもそれ以外の目的であっても、今日の外のコンディションは完全なる零点だった。
僕は帰路にある公園にふらりと立ち寄った。ブランコの下の窪みにはかなりの深さの水溜りが出来ており、雨で土が抉られた部分も見受けられた。
この時間のことだ、もし晴れていればまだまだ日差しも強烈だったろうが、分厚い雲のおかげで感知式の外灯がちらほらと点き始めていた。普段であれば点灯するタイミングが早くて電力が勿体ないと感じていた外灯にも、今日に限っては感謝した。だが年季が入っているのだろう、もしくはこの豪雨のせいで故障でもしたのかもしれない、手前の灯は既に虚しく点滅を始めている。カチ、カチ、と電気の接続する音が、雷鳴と聞き慣れない不協和音を奏でながら空を更に暗くしていく様子を、僕はぼーっと眺めていた。
その外灯の根元にある小さな水溜りの波紋から少し視線をずらしたところで、僕は目の動きを止めた。
そもそも、僕は行きつけの喫茶店でお茶した後の、あくまでも「まったりとした、平和な」気分で道を歩いていただけだったのだ。
点滅をする外灯の二つ奥の、壊れたそれの下に、そいつはいた。
漆黒を身に纏い、ぐったりと寄り掛かっている。傷だらけだった。降りしきる小さな、でも多くの雨粒がそいつの傷口に容赦なく入り込んでいたようで、雨粒が傷を刺激する度、そいつの顔は歪に歪んでいた。それを見て僕は、
ああ、まだ生きている、そう思った。
と同時に、直ぐに帰ろう、と思った。
僕にしてあげられることなど、何もないからである。
与謝野医師のように治す事なんてもっての外、国木田さんのように励ましの言葉すらかけてあげられない。何より自分が何者でもないことを、自分自身が痛いほどわかっていた。
一瞬考えを巡らせた後、僕はそいつに背を向けた。今周りに人はいない。
このまま歩き出せば、探偵社に帰ることができる。そいつにまだ手は出していない。このまま歩き出せば、見なかったことにできる…。
…このまま歩き出したら、そいつを見捨てることになるのだろうか。僕が見捨てるということは、孤児院で苦しんでいたあの頃の自分自身も、見捨てることになるのだろうか。あの頃、倒れていた僕の横を通り過ぎていく人間たちと同じ立場に、僕は今自らの意志で立とうしているのだろうか。
僕の人並み以上に利く嗅覚が、そいつがもう長く持たないことを教えていた。結局僕は歩き出しもせず、救いもせず、かれこれ十数分程その場に突っ立っていた。臆病者は、助けもできないくせに見捨てることもできない。
何も、できないのである。
僕の胃がキリキリと痛み始めた。足が勝手にそいつのいる方に向き始める。決して善行などとは思わないでほしい。この時の僕の心は、罪悪感に溺れて沈みそうな自分をこれ以上見たくないという自己防衛の気持ちしかなかったからだ。
僕はせめてもの責任逃れでそいつのもとに近づき、そいつの傷口がこれ以上雨でやられて仕舞わない様に、持っていたビニール傘をそいつの体躯を覆うようにそっとかざした。そして常備していた数枚の絆創膏を全て取り出し、そいつの傍にあった血塗れの石を重石代わりに載
せ、その場から逃げるように去った。
逃げ帰る僕の背中の方から、微かに声が聞こえたような気がした。
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