第53話51 魔女と伯爵家の人々 2
「失礼します」
ギディオンは屋敷の三階、つまり最上階の奥の扉を叩いた。返事がないがジローランが頷いているので、そのまま中に入る。
「奥のお部屋でお待ちです」
執事の声を背中に聞きながらギディオンは暗い控え室を進んだ。父の居間はこの向こうだ。扉は薄く開けられて橙色の光が漏れている。
「父上、ただいま戻りました」
室内は勢いよく暖炉が燃えているので暖かかった。ギディオンには暑すぎるくらいだ。明かりは暖炉の他には、テーブル上のランプひとつだけである。
「座れ」
暖炉の前の大きな椅子に座った男がしゃがれた声をかけた。炎を背にしているので顔はよく見えない。
「久しいな、ギディオン」
セルヴァンティース伯爵家当主、ディーター・セルヴァンティースだった。
黄ばんだ白髪頭がやや乱れているが、青い瞳は鋭い。今はやつれてはいるが、かつて頑丈だった骨格がまだ残っていた。
「変わりがないと伺いました」
「ああ、変わりはないな。去年のリューマチ以来外出もままならん」
伯爵は大儀そうに言った。
「しかし、少しは動いた方が良いのでは」
「フォルストと同じことを言うな。聞き飽いたわ」
「申し訳ございません」
「お前は不思議に思っているんだろう。こんなに衰えた姿を晒して、なんでフォルストに家督を譲らんのかとな」
「いえ。兄上はまだ王宮の仕事に意義を見出しているようですから」
「まぁ、あいつも欲がないと言う点ではお前と同じだ。まだリッツァの方がマシなくらいだ」
「……」
「なぜ呼んだかわかっているな」
「……」
「面倒だから言ってしまうが、お前の財の分与についてだ」
「それは」
「ああ、そうだな。とっくの昔に相続放棄したと言いたいのだろう? だが、奥──アガーテは病で、おそらくもう長くない。もう一度考え直さぬか」
「前にも申しましたが、俺は財産には興味がありません」
「わかっておるわ! だが、私は財でお前を縛りたいのだ。オリヴィエは行ってしまったからな」
「……母は」
「オリヴィエは生粋の踊り子だった。窮屈な暮らしは彼女を蝕むだけだったのだろう。今はどうしているのか」
「存じません。多分もう亡くなっているのではないかと」
「……」
老伯爵は皺深い
「父上、私は本当に何も要らないのです。セルヴァンティースの姓を名乗れるだけで充分でございます」
「お前はそう言って母親と
伯爵は苦々しく吐き捨てた。
「まさか。俺はもう五歳の子どもではありませんし、誰に対しても復讐の気持ちなど持ちません」
「だが、成人前にこの家を出て行ったではないか。お前はこの家、それに私や奥を憎んでおったのだろう」
「両親に反発を覚えるなど、十代の小僧ならだれでも通る道でございましょう」
ギディオンは取り合わない。しかし、伯爵は食い下がった。なんとしても彼をこの家に呼び戻したいかのようだった。
「私がお前達母子をこの家に迎え入れた頃、奥が辛く当たったのは知っておる。
「父上は母を愛しておられたのですか?」
「……オリヴィエだけが私の女だった。あれ以上の女はおらん」
暗い窓の外に目をやって伯爵は言った。
「ならばなぜ、母をつなぎ留めなかったのです? 俺ならばそうする。本気で愛しているのなら」
伯爵は振り向かない。
「……そうだな。だが、オリヴィエは私を愛してはいなかった。彼女にとって私はただの通りすがりだった。出会った時からそうだった。そして私がパレスに戻った間にオリヴィエはいなくなった。何年もかけてようやく探し出した時、子ども──お前が生まれていたとは驚いたが。彼女はお前のために数年は我慢して私と暮らしてくれた。だが、所詮オリヴィエは旅を愛する自由な女だったのだ。止めても無駄だった……お前には要らぬ苦労をかけたが」
「……」
「だが、お前は私の子だ。髪も目も頑丈な骨格も、おまけに融通の効かぬ性格も私にそっくりだ。奥もそこだけは認めざるを得なかったのだろう。それ故にそなたが憎かったのだろうて」
「義母上が父上の愛情をいっとき独り占めにした、母さんを
「我々の間には大して愛情はなかった。ただの政略結婚だったからな。だが、フォルストとリッツァはおかしいほど奥に似ている。性格まで似なかったのは幸いだ」
伯爵は乾いた声で笑った。
「ご冗談を」
「冗談ではない。お前とて私の息子には変わりがないと言っただろう。財が要らぬなら王都郊外の土地をお前にやろう。お前の大叔父、生きていれば伯爵家を継いでいた男が自分で手に入れた土地だ。領民も家畜もいないから管理の必要がない。ただの美しい土地だ」
「俺は武人です。土地などに
「お前はいずれまた国境に行くのだろう? 何か残せるものを持っておけ」
「不要です。託す者などおりません」
「……頑固者めが」
疲れたように疎いため息が漏れる。
「父上、もう止しましょう。私は明日王宮に戻ります。いずれゆっくり話せる機会があるかと」
「話を聞く気があるのか?」
「ありますよ。特に母のことなど、改めて伺いたいと思います。今更ですが、知りたく思うようになったのです」
「……そうか。では無事で戻れ」
「はい」
「……あの黒髪の娘は?」
意外な言葉がかかり、ギディオンは驚いて振り返った。
「なぜそれを? もしかしてご覧になったのですか?」
「ああ、来る時に上から見たよ」
「……」
黙り込むのはギディオンの番だった。
「で、妻にでもするのか?」
「とっ! とんでもない! あれは俺が、ただ後見している娘です。薬草に詳しく、フェリア殿下に気に入られて夜会に招待されたのですが、野の娘で人馴れしておりません。なので恥ずかしくないように、義姉上に立ち居振る舞いを習わせるつもりで連れてきただけです」
「珍しくずいぶんしゃべるではないか。気に入っているのはお前ではないのか」
「……そのようなことは」
「まぁよい。明日には宮に戻るのだったな。今夜はゆっくり過ごすがいい。明日は朝食に下りる」
「……失礼いたします。お休みなさいませ」
ギディオンはそっと父の部屋を辞した。
屋敷の三階は伯爵夫妻の生活空間である。
ギディオンは空気の動かない廊下を階段室まで急いだが、途中の暗がりから声をかける姿があった。
「ギディオン様。奥様がお呼びです」
義母アガーテに仕える老いた侍女だ。薄暗い廊下に佇むその姿は、ザザよりもよほど魔女らしく見えた。
「……義母上が?」
「はい。お越しくださいませ」
「今夜はもう遅い。明日ではいけませんか?」
「こちらへ」
侍女は有無を言わさずに言って先に立って歩き出す。断れるような雰囲気ではないと、ギディオンは諦めて後に続いた。
老侍女は年齢に合わぬ機敏な動作で、するするといくつかの扉を潜ると、どっしりとした
「奥様。お開けいたします」
脇の紐を引くと、緞子が二つに分かれて立派な寝台が現れた。頭の方は陰になって見えない。
「お呼びだと伺いました」
「……よう戻られた、ギディオン」
声は弱々しいがはっきりと聞き取れる。セルヴァンティース伯爵夫人、アガーテ・セルヴァンティースである。
真っ白な髪は以前は輝くような金髪だった。それは兄と弟に受け継がれている。
若い頃、背が高く姿勢の良かった彼女は威厳たっぷりで、ギディオンの母に辛らつな言葉や態度を投げ続けた彼女は、今は痩せ細り高く積んだ枕に寄りかかっている。
だが、病み衰えてなお、伯爵夫人は美しかった。
「ご無沙汰しております」
「おお、ますます似てくること」
アガーテの声には、深い憎しみが感じられた。
「何の御用でしょうか? 夜も遅い、お体に触ります」
「用? 用などないわ。もう一度見たかっただけよ、お前の顔をね」
「……」
「私はもうだめよ。うれしいでしょう? だから、思い残すことの無いようにお前を
「それほど俺が憎いですか?」
「憎いわね。お前もあの女も。無学で無一文で……自由だったあの女!」
アガーテは暗がりの中で何を見ているのだろうか?
「ろくに文字も書けないくせに、こけおどしの美声で詩を
アガーテは枕から身を起こそうと、もがきながら悪意を垂れ流す。侍女が後ろから痩せこけた肩を支えたが、主を
「私はお前たち母子が目障りで仕方がなかった! 大嫌い! いなくなればいい! ずっとそう思っていたのよ!」
侍女の腕に両手でしがみつきながらアガーテは叫ぶ。
ギディオンは黙って腰を深く折った。
「何も言い返さないの? 悟っていることね。さすがにあの……ディーターが執着するだけのことはあるわ……ね」
アガーテは肩で息をしていた。さすがに侍女が体を横たえるように促したが、彼女はそれにも気がつかない。
「……オリヴィエはディーターのためにお前をこの家に置いて行った。自分の自由と引き換えに、息子を私に預けたのだわ。知っていて? ディーターはフォルストを差し置いてあなたに家を継がせたかったのよ」
「まさか」
ギディオンは顔を上げた。
「私は家など継ぎません。財産もいらない。今もそう申し上げてきたところです」
「……お前もオリヴィエと同じよね。人が欲しくてたまらないものが少しも欲しくないのね。それが周りを惨めにするともわからずにね。そう……お前達母子のおかげで私はずっと惨めだった」
「……ずっとそれをおっしゃりたかったのですか?」
「そうよ! 私が必死でしがみついているものを彼女は歯牙にもかけない。身分や贅沢にも興味がない。ディーターの愛ですら欲しがらない。あの女はただ歌って踊って……風に髪を梳かしているだけで楽しそうだった。だから憎んだのよ……あまりにも自由だったあの女が!」
「奥様、もうあまりお話にならない方が……」
どんどん声がかすれていく主を気遣って、侍女が吸い飲みから水を飲ませる。アガーテはほんの一口だけ含んで、ぐったりと枕に頭をうずめた。
「……」
何ともやるせない呼吸を二つしてから、ギディオンは老侍女の視線を受け、部屋を去ろうとした。
「……待って!」
振り返るとアガーテが細い腕を伸ばしている。そのやつれた顔には憎しみだけではない、奇妙な表情が浮かんでいた。
「待って……」
「まだ何か?」
アガーテは息を整えながらかなり長いこと
「私はもう……長くははない……お前……あなたに会うのもこれが最後。それで、その……もし……もし、オリヴィエに会うことがあったら伝えて」
「なんとお伝えしましょう」
「私はもう直ぐあなたよりも自由になる、と」
「……」
「いい気味よ、オリヴィエ。あんただけ、あんただけが……」
アガーテはこんどこそ力尽きて枕に沈んだ。
「さぁ、もう行って……行ってちょうだい……もう……疲れた」
「……失礼します」
甲斐甲斐しく世話をする侍女の背中に隠れて、伯爵夫人の顔はもう見えない。
ギディオンは一礼すると静かに部屋を出た。
廊下は一層寒くて暗い。
ザザが今日、癒してくれた腕だけが暖かかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます