第51話49 魔女とあふれる気持ち 6
一方。
ザザは別の風景を見ていた。
ギディオンに侵入したユラベルの毒は、毒素だけでなく、人の悪意をたっぷりと含んでいた。残留する思念、そこに触れたザザの唇からじわじわと染み込んでくる。
あ……。
ザザの目には、見たこともない戦場が見えた。
荒れた山中。
両側は
遠雷が聞こえる。
嵐の前触れだ。視界が悪い。
ここはどこだろう?
冷たい風が吹いて黒い霧のようなものが薄まり、足元が次第に明らかになっていく。
そして──目にしたものは。
「ああっ!」
ザザの前にはたくさんの人間が倒れていた。皆傷つき、力尽きて地面に横たわっている。つんと鼻をつく錆びた鉄の匂い。
その只中にギディオンが両膝をついて
頬にはいく筋も血が伝い、折れた剣を掴む手は力なく垂れている。
ギディオンさま!
ザザは力一杯呼ばわったが、ひゅうひゅうと喉が鳴るだけだった。しかし、不意に濁った瞳がこちらに向けられた。
ギディオンさま! ザザです! 今、参ります!
必死で駆け寄ろうとするのだが、手足は空を掻くだけでちっとも前に進めない。
目の前でギディオンの体は血の糸を弾きながらゆっくりと前に崩れ落ちていく。剣が手から離れ、嫌な音を立てて転がった。こちらを見たままの青い瞳が急速に光を失っていく。
恐怖に駆られたザザは、喉も裂けよとばかりに叫んだ。
いやああああああ!
「あああ!」
「ザザ!」
ギディオンは突然叫び出したザザに我を取り戻した。
「いやああああああ!」
真っ青になって、後ろへ倒れ込る体を危うく抱きとめる。ザザはかっと目を開いたまま、宙へと両手を伸ばした。
「しっかりしろ!」
「血……血が! すぐに傷を塞がなければ!」
「ザザ! 落ち着け! 俺は怪我などしてない!」
不自然なほどに呼吸が
ザザは血塗れのギディオンに魔力を注ごうとしたが、息が忙しくて魔力が発動しない。吐くより吸う空気の方が多いのだ。どんどん肺が膨らんで胸が破裂しそうだった。
もうダメだ。この方を守らなけれなならないのに!
いつまでたっても、私は役立たずの魔女──。
気を失うと思った時、不意に呼吸が楽になった。
肺に溜まるだけだった空気が脳に供給され始め、ザザは自分が立っていないことに気がついた。
あ──あれ?
何かがぴったりと顔を覆っていることに気がついて、そっと目を開ける。しかし、目を開いても何も見えなかった。
それもそのはず、顔の上半分は大きな手で覆われ、ひゅうひゅうと空気を吸い続けた唇は、ギディオンのそれに覆われていた。
熱くて力強い弾力のある唇がザザの小さな口を塞いでいる。それだけではない、ザザの喉から空気を奪っている。
ああ、わたしはこの方にまた助けられたのだ……。お助けするつもりが、また──。
あんなに苦しかった呼吸が嘘のように楽になっている。
ザザの体から力が抜けたことに気がついたのか、ギディオンは目と鼻を塞いでいた掌をどけた。
「ザザ」
「……?」
なんでギディオンさまの顔がこんなにくっついているの?
「もう大丈夫だ。過呼吸の発作だった」
「かこきゅう……?」
「ああ。突然発作が起きたんだ。運動しすぎた時とか、精神的なものが原因でなることが多い。戦場で若い兵士がたまにそうなる。対応するのは初めてではないし、鼻と口を塞いだらすぐに治るものだ」
ギディオンが喋るごとに彼の吐息が触れる。その湿り気や温度までも感じられるほど近くに。
ザザは地面すれすれに横たわり、裸の胸に抱えられているのだった。
「わぁ!」
「おい、急に動くな! まだ顔色が青い……いや、赤いのか? コラ、暴れるな」
二人じたばたともがいて結局、ザザはまたしても切り株に腰掛けたギディオンの膝の上に乗っかってしまっていた。
「きゃー! ごめんなさい」
「何言ってるんだ。さっきまでずっとこうしていたのに……久々に良い心地を味わわせてもらった」
意味ありげに笑ったギディオンが、普段と違う色気を発しているのを感じ取り、普段青白い頬は益々真っ赤になった。
「……ザザの発作がなければ、危うかったかも知れんな。俺も男だし……」
「は?」
「……なんでもない。ザザはもう平気か?」
「わたしは大丈夫です。ギディオンさまこそ、腕のお痛みは?」
「痛みは今はほとんど感じない。ほら、楽に動くし、痣の色も幾分薄くなったぞ。ザザのおかげだ」
ギディオンがぬっと差し出した腕の痣は、先ほどよりも色が半分くらいになっている。
「ありがとう。魔法で温めてくれたのがよかったのか。びっくりするほど楽になった。改めてザザの魔法はすごいな。これからも痛むときは自分でも温めたらいいのかな?」
「……そ、そうです……ね」
ザザは実はそれどころではなかった。
裸のギディオンの体から何やら男臭い匂いが立ち上ってくるのだ。それはザザが今まで嗅いだどんな匂いよりも刺激的だった。
「あのっ! ギディ……さまっ! 服を、服着てください!」
「服? ああ、そうだな。だが、ザザの癒術は思わぬところにも効果があって……まだ体が熱いんだよ。もうしばらくこのまま……」
「いいから、服っ!」
ザザは体をよじって抱きしめようと腕を伸ばす男の膝から滑り下り、彼が脱ぎ捨てたシャツと上着を拾って押し付けた。
ギディオンは肩を竦めただけで黙って服に手を通したが、その動きは滑らかで辛そうな様子はなかった。
「じっと見られると照れるな」
「な、何をお、おっしゃいます!」
ザザは不意についさっき感じた、ギディオンの唇の感触を思い出した。今にやにや笑っているあの、薄く形の良い唇が自分に密着していたのだ。
あれは、なんでもないわ。
毒に込められた純度の高い悪意に、私が馬鹿みたいに反応してしまったからよ。過呼吸を収めようとしてくださった、ただそれだけのこと。変な風に感じるのは不適切だ。
「まだ顔が赤いぞ。俺は無理をさせてしまったのか?」
「違います! これはその……私が毒に組み込まれた幻影に動揺したからで、その……もう大丈夫ですから」
「幻影? ああ、血がどうとか言っていたな。ザザはいったい何を見たのだ?」
「……戦場を」
ザザの声は急に小さくなった。
「戦場?」
「はい。この毒を施した者の悪意が、私が一番見たくないものを見せたのです。毒の余波を受けたのだと思います」
「毒の余波だと?」
「ユラベルの毒は、ただでさえ残留毒素が長く滞留する恐ろしい毒なのですが、おそらくそこの上に強い念を練り込んだのでしょう。だから、ギディオンさまは何年も苦しまれた」
「その毒を作った者は……もしかして」
「はい。あの男の人を操った者と同一かと」
ザザは名前を出さずに言った。
「そうか。やはり」
ギディオンにも驚きはなかった。
「では、ますます捨ててはおけんな。そのような毒を扱い、人心を操る危険な魔女がチャンドラに野放しになっている」
「はい」
「近いうちになんとかする。必ず」
「はい!」
ザザは息追い込んで頷いた。
「……しかしまぁ、まだしばらく間がある」
「……間」
「ザザ」
「なんでしょう?」
「今、俺たちに必要なことはな」
「はい」
「食事だよ」
「ごはん?」
「ああ、体が軽くなったせいか、ひどく腹が空いた。この公園を抜けると実家はすぐそこだ。さぁ行くぞ。夕食にはなんとか間に合うだろう。歩けるかい?」
「問題ありません。行きましょう」
二人は公園を横切る道を歩き出す。ザザを気遣ってか、空腹のはずのギディオンの歩みはゆっくりとしたものだった。
「なぁザザ、本当にありがとう。お前に俺はどんどん勇気をもらえる」
「え? 勇気、ですか?」
「そうだ。受け入れるべきだと思っていた罪の苦しみも、毒の痛みも軽くできることがわかった。俺が楽になれば、その分しんどい誰かを助けられるかもしれないとも理解できた。少し考えたらわかったことなのに、人間思い詰めると視野が狭くなるんだな」
「……」
「遠征の前に気がつけてよかった」
「いつご出発、ですか?」
「そうだな、霜降の節が過ぎれば。だが、大部隊ではない。元凶の行方を突き止めるために、先行部隊は隠密行動になるからな。まぁでも、今はこんなこと話さなくていい。早く家に行こう」
「はい。急ぎましょう」
ザザは歩きながらギディオンの後ろで考える。
さっき見たものは、なんなのだろう? ただの悪意ある幻影か?
血塗れのギディオンの幻影が意味するもの。今のザザにはそれはわからなかった。
わかるのは──。
守らなければ、と言う一点。
主だからではない、ギディオンだから守るのだ。
ザザの指は知らず、さっき触れあったところを探っていた。熱くて力強い唇が、確かに自分のものと重なり合っていたのだ。
大好き、ギディオンさま……!
必ず、私がお守りする。
元凶──魔女スーリカなどに奪わせない!
夜の瞳が広い背中を熱く見つめた。
*****
この章終わりです。
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