第50話48 魔女とあふれる気持ち 5

 練兵場を出ると、空は既に薄暮はくぼとなっていた。


 二人は公園の中を並んで歩いている。

 並木の広葉樹は紅葉の色がせて、盛りをすぎた貴婦人のようにも見えた。日がかげり、冷え込んできたせいか、さっきは少しはいた人影はもう見えない。

「ギディオンさま」

 ザザは急に立ち止まってギディオンを見上げた。

「な、なんだ」

「こちらへ」

 ザザは大きな背中を押して、一際太い木の影へとギディオンを連れて行った。彼女がこんなふうに自分に接することが滅多にないので、ギディオンは驚きながらも黙って従う。

「どうした? 怖い顔をしている。今度はザザが相手かな?」

 背中を木に押し付けられて、ギディオンは初めてザザに軽口を叩いた。

「左手を見せてください」

「え?」

「左手、を私の頭の上に乗せてください」

「……」

「できないでしょう? 感覚もほとんどないはずです」

「わかるのか?」

「わかります。ほら、こんなに冷たい!」

 ザザは両手でギディオンの左手を握った。薄い手袋越しにでも、彼の指先が氷のようだと言うことが伝わる。

「どうして……どうして、こんなことをするのですか? デルスさまのためですか?」

「いや、まぁそう言うわけではないが、今の俺が戦士として通用するのか実地で見極めたかったと言うか……戦闘状態になったら、疲れたからやめますとはいかないからな」

 おどけたように言ってもザザの顔は険しい。

「そんな顔をするな。俺は大丈夫だから」

 普段は静かな夜の瞳が、今は秘めやかな怒りをたぎらせている。

 そしてそこに映るのは他でもない、自分であるとギディオンは知った。

「ギディオンさま。ギディオンさまは以前、わたしに魔力を使ってはいけないとおっしゃいました。でも、お願いがございます」

「お願い?」

「今、魔法を使わせてください」

 ザザはギディオンの左腕に両手を絡めた。

「よせ!」

 ギディオンが素早く身を引いたので、行き場を失った両手が空を掻く。自分の腕をよじり合わせたザザは体を固くした。

 拒まれたのだ。

「……も、申し訳ありません! 出過ぎたことをっ」


 また、いとわれることをしてしまった……わたしのなまくらな魔力では、大したことなどできはしないのに。


「……お許しくださ、」

「違う、そうじゃない! いつも言っているだろう? ザザは何も悪くはない」

「で、ではどうして……」

 ギディオンはうなだれるザザを促して古い切り株に腰をかけさせた。自分はその前にあぐらをかいて座る。

 ザザがびくりと膝腰を浮かすと、逃げられないように両手をついて、泣きそうな魔女を下から覗き込んだ。

「ザザ、よく聞け。俺は確かに魔法など信用できないと思っていた。けれどもな、お前の魔法は嫌じゃないんだ」

「……」

「ザザは俺の主君であるフェリア様の傷を癒してくれた。泉で殿下が溺れないようにしてくれていたのも、ザザの力だ。そうだろう?」

 ギディオンは、出会った頃とは見違えるほど艶やかになった髪を撫でた。

「魔法は信じなくてもお前のことは信じる。お前は人を救うために魔法を使おうとしている」

「……」

「でもな、俺のためなんかに大切な魔力を使うことはないんだ。これは俺のやったことの結果なんだから。自業自得だよ」

「じごう……? どうして?」

「戦いで、罪深いことをたくさんしたからだよ。多くの人をほふったことの罰だと思えば、こんな痛みくらいどうと言うことはない」

「でもそれは仕方がなかったのでしょう? いくさなのだから、誰もが潔白ではいられません」

「それでもだ。確かにアントリュースの戦いでは、野心に燃えるチャンドラに攻め込まれたことが始まりだった。そして俺にはどういう訳か、戦いの才能があった」

「たたかい、の才能……」

「ああ、剣術や体術、他には作戦を立てて兵士を動かす能力のことだ。アントリュースの戦いでは重宝されたものだ。しわくちゃの老兵からあどけない少年兵まで、何十人もこの腕に持った剣でたおし、俺の練ったはかりごとで何百人も殺してきた。でも苦しかったのは最初だけで、俺は次第に人殺しに慣れた。殺さなくてもいい人間まで平気で殺せるようになったんだ。わずか数ヶ月の間でだ」

 限りなく苦く、ギディオンは吐き出した。瞳の青の輝きがどろんと失われていた。

「部下を死なせるくらいなら、敵を倒すことなど平気だった。国のためと言う大義名分もあった。常に瀬戸際だった。あの頃の俺は少しずつ狂っていったのだと思う。要するに……俺には人殺しの才能がある。俺は人殺しなんだよザザ、魔女よりも悪いのさ」

「そんな事を仰るものではありません!」

 ザザは思わず、両手を伸ばして彼の口を塞いだ。

「言葉だって生きているのですよ! 悪い言葉は心をむしばみます! ご自分の行った事に囚われてはなりません!」

「あの時、最後の大きな戦いが終わって……索敵中に毒矢を受けた時、やっと自分の番がきたと思った。死んだら、こんなぎりぎりの日常から逃れられると。何日も意識がなくてな」

 ギディオンはそっとザザの手を自分から離す。

「でも」

「ああ。俺は助かった。戦も勝利した。いつの間にか俺は英雄ということになっていた。たくさん人を殺したから英雄になったんだ」

「英雄になったのは、街を、人々を守られたからです」

「そんなことどうでもよかった。俺はあの時一度死んだんだよ。左腕の痛みだけが俺を生きていると思い知らせてくれた。そして、俺はまた戦いに行くが、罪を忘れてはいけないんだ。もっと傷つく人が少なくてすむ方法を考えようと思う。だから、別に痛いのは構わないんだよ、ザザ。お前の優しさには感謝している」

「感謝など要りません。私は今から魔法を使います。たとえお許しをいただけなくても」

「……ザザ」

 困ったようなギディオンをザザは平然と見返した。

「私には痛みを軽くすることができます。苦痛を耐え忍ぶのはただの自己満足です。ギディオンさまは自分から進んで戦いに行くとおっしゃいました。でも、罪悪感で、もし守るべきものが守れないとしたら本末転倒です。ギディオンさまは指揮官なのでしょう?」

「……」

 切り込んだザザに、ギディオンの視線が僅かに下がった。

「ザザにそんなことを言われる日が来るとはな」

「言います」

「参った。確かにそうだ。俺は痛みを堪えることで罪滅ぼしをしている気になっていた。青二才の考えることだな」

「では、腰を下ろしてください」

 いつになく厳しい口調でザザは、自分の代わりに男を座らせ、その前に両膝をついた。

「寒くて申し訳ありませんが、服を脱いでいただけますか?」

「わかった」

 しかしギディオンは痛みが酷いのか、片腕だけでは軍服の上着を脱ぐのがやっとのようだった。「お手伝いします」と、ザザは下に着ているシャツの胸ボタンに手を伸ばす。

「若い娘に脱がされるのもオツなものだ」

「冗談ではありません」

「ああ。そうだな。ザザは冗談など言わない。すまなかった」

 らしくない口のきき方をしたことを彼は素直に詫びた。ザザはもう構わずにシャツをはだけると、袖から腕を抜く。そして息を飲んだ。

 男の見事な体には大小たくさんの傷が縦横無尽に走っていた。

 肩、腕、胸、腹。筋肉をえぐられた跡が薄赤い肉の帯になって盛り上がっている。目を覆いたくなる傷跡の数々。見えない下半身にも、おそらく同じような傷が走っているのに違いない。

 しかし、左腕の傷は違った。肘窩ちゅうか(肘の裏側)から前腕ぜんわんにかけて、おぞましい青緑色の染みが広がっている。

「こっ、こんな強い毒が!」

 ザザの顔がさっと青ざめる。

「知っているのか」

「これはユラベルの毒。こんなものをずっとお抱えに……」

「襲撃を受けて矢が刺さったが、大したことはないと俺はそのまま戦った。それからどうにも苦しくなって、俺は気を失ったようだ。気が付いた時には戦は終わっていて、俺は寝台に転がっていた。医師はあと少し処置が遅ければ、腕を切断していたと言っていたな……お!」

 

 魔女は男を抱きしめていた。

 禍々しい緑色の痣、無数の傷が自分に語りかける。先ほど拒まれたことは、もう頭になかった。


 こんな……こんなにたくさんの傷を負われて……その上呪われたユラベルの毒まで受けて……私がその場にいたら、すぐに吸い出して差し上げたのに! この方はいつも自分のことは後回し……私は……。

 私はこの方を守りたい!


 ギディオンは自分を抱きしめる腕の中にいた。髪の香りが鼻腔を満たし、緊張していた筋肉が自然に和らぐ。

 

 この感じ……ザザの匂いと感触……俺はずっとこうされるのを待っていたのか?


 痛まない方の腕でザザの腰を抱くと、ギディオンは魔女の耳に囁いた。

「ザザ、やってくれ。俺を癒してほしい」

「……」

 魔女は黙って頷き、両手を彼の左腕に巻きつける。

 小さな矢傷を中心に、二の腕の外側が濃い痣になっている。痣は血管の流れに沿って放射状に広がっていた。悲しみと怒りで唇を噛みしめながらも、色をなくしている左手を包み込み、ザザは首を垂れる。

「ザザ! おい、ザザ」

 禍々しい痣に唇を寄せたザザを見てギディオンは焦った。

 しかし魔女はぎゅっと目を閉じたまま、ギディオンの傷に口づけをし、細い指先で胸の刀傷をなぞっている。

 受けたユラベルの毒は僅かだったが、戦っている間に細胞の奥深くまで入り込んだ毒は、優秀な軍医でも抜ききることができなかった。

 それは今もギディオンの体に残り、筋肉の細胞を傷め続けている。痺れのような感覚がいつもあり、寒い日には疼くこともある。毎日の鍛錬を欠かさなかったら、左手はもっと使えなくなっていただろう。

 ザザは瞳を閉じて額に魔力を集中させている。ふわりと前髪が持ち上がり、額に白く輝く紋様が浮かび始めた。

 そしてギディオンは、ザザの唇が触れている所から、温かいものが流れ込んでくるのを感じていた。

 それは体を巡り、血をざわめかせる。常に感じている痺れが少しずつ引いていく。それはじんわりとした快感を伴って彼を包み込み、もう拒むことができなかった。


 何度見ても、不思議なものだな。


 魔力を練り始めたのだろう、ギディオンは輝きの増した印を見つめた。

 考えてみれば魔法が自分にほどこされるのを見るのは初めてだった。

 ザザは目を閉じて口の中で何かを唱えている。いつも垂れ気味の眉がぴりぴりと切れ上がっていた。魔法に集中しているのだろう、不自然な姿勢になっていたので、ギディオンは自分の膝の上にザザを座らせてやったが、そのことにも気がついていない。

 二人は今座ったまま、抱き合っているのだ。上半身が裸なのに、ちっとも寒くはなかった。

「あ……」

 感覚のなかった指先や、痣の周りに熱いものが流れていく。

 まるで身体中に湯が通っていくようだ。血管が広がり、すごい勢いで全身を巡っていく。痺れるような痛みは一瞬拡大したが、急速に薄れていった。

 ギディオンは自分が目を閉じていることに驚いた。公園とはいえ、身を隠せる大木が林立した場所で、自ら視界を閉ざすなど、普段の彼なら絶対にしないことだ。

 しかし、まぶたは持ち上がろうとはしなかった。肌を晒しているはずなのに、心地のいい温もりに包まれて小さな娘に身を委ねている。

 温もりは体の末端まで届き、緊張していた筋肉は弛緩した。まるで小さな手に全身を揉まれているようだ。


 ああ、心地がいい……。


 不意にギディオンはもう一つの体の変化に気がついた。小さな尻の下の男性が緩やかに反応している。

 

 ……まさか!


 それは紛れもない快楽だった。



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