第36話35 魔女、扉を開ける 3

 あの後、一日経ってザザの体調はほとんど回復した。

 過度な集中はやはり体に大きな負担をかけるものらしい。一日近くぴくりともせずに眠った後、非常な空腹を覚えてザザは目覚めた。

 後で知ったことだが、ザザが休んでいた部屋は王宮の高位貴族のための病室の一室だった。ウェンダルの配慮だったらしい。

 ザザは身一つで運び込まれたのだが、ギディオンは身の回りのものがないと不便だろうと、荷物を人に頼んで運び込んでくれた。その中にはザザが森から持ってきた、小さな鞄まで入っている。きっと大事なものだろうと気を回してくれたのだろう。

 また、ギディオンは気をきかせて、ザザとは顔見知りのフェリアの侍女のセリカをよこしてくれたのだ。慣れぬ王宮で知らない者に囲まれるのは不安だろうと、侍女頭に頼んでくれたのだ。

 

 ギディオンさまは、やはりとてもお優しい。


 ザザは森から持ってきた懐かしい小さな鞄を抱きしめた。ずいぶん長いこと触っていなかったような気がする。

 そこにセリカが入ってきた。

「ザザ! だいじょうぶなの?」

「はい。なんとか」

「まったくびっくりしたわ。まさかザザがこんなところでひっくり返っているなんて!」

 セリカは湯気の立つ盆を脇に置きながら言った。光線の加減から見て今は昼過ぎのようだ。

「スープよ。食べられそう?」

「はい、いただきます。お忙しいのに、ご面倒をおかけしてしまってすみません」

 スープのカップを受け取りながら、ザザはしゅんと肩を落とした。

「そんなことはいいの。だってこっちのほうが断然楽だもの。ザザは面倒かけないし……あら、スープがあっという間になくなってしまったわね。お代わりは?」

「ありがとうございます。あと、お水もいただけますか?」

 二杯目のスープをありがたく受け取ってザザは言った。濃くて暖かで速やかに吸収されていくようだ。体が食べ物を欲している。新しい感覚だ。

「それにしても、いったいどうしちゃったの?」

「薬草苑のお仕事のお手伝いをしている時、お茶と間違って強い薬を飲んでしまったみたいなんです」

 ザザは慎重にギディオンに教えられた通りの理由を説明した。セリカは一も二もなく納得している。

「ふぅん。大変だったわね。でも薬草苑で働くことになったのね。すごいじゃない」

「はい。ウェンダル様のお手伝いをします。それに学問所の初等部にも通わせてもらっています」

「へぇ~、仕事を二つも持ってるんだ。それじゃあ、ザザもそろそろ独り立ちができるわね」

「……そうなると思います」

 細い肩がわずかに下がったが、セリカは気づかずに空の器を見て言った。

「まぁ、全部食べたわね。よかったわ。あら? 誰か来たみたい。また来るわ」

 召使いから薬師やくしの来訪が告げられ、セリカはザザに「早く元気になってね」と言って、手を振りながら出て行った。

 入ってきた薬師はウェンダルである。

「おお、食事を取れたか。具合はどうじゃな?」

「はい。もう大丈夫です」

「どれ」

 ウェンダルはザザを診察し「もっと肉をつけるように」と不機嫌そうに言った。

「体力と気力は密接に関わり合っておる」

「はい。私もそう思います。もっとお役に立てるように、体も心も修練しなければ」

「刺客の男のことだがな。今聞いた話では、少しずつ白状し始めたそうじゃ」

「彼は落ち着いておられますか?」

「そのようだ。尋問もあまり刺激しないようにゆっくりと進められておるらしい。無論わしは詳しい内容までは聞かされておらん。おそらくチャンドラの陰謀に関することだろうから、その点においてはわしに興味もないしな。しかし、これだけは確認できた。あの男に暗示をかけたという魔女の……」

「ウェンダルさま。どうかその名は伏せてお話しくださいませ」

 あの時、ザザを押しつぶそうと圧力をかけたのは、術をかけた者が名前を呼ばれた時に発動する遠隔魔術なのだ。


 大魔女スーリカ。恐ろしい魔力だった……よく無事に戻れたものだ。


 ザザはぞっと身を震わせた。

「……なるほど。では黒い魔女とでも言っておこう。男の供述によると、それはあんたが言った通りの人物だった。恐るべきことじゃ。いったいどのくらい生きておるのか。最初にその名が記録に登場するのは約百年も前のことになる」

「大魔女と呼ばれる者には、独自に調合した秘密の食べ物があるそうです。それを食べれば寿命が伸びるのだとか。ただ、眠りの期間も長いそうですが」

「らしいの。しかし、魔女に主人が付き物である以上、黒い魔女の背後には命令を下す人間が控えておるのだろう。無論、あの男にはそこまでは知らされておらぬが」

「……はい」

「わしは政治向きのことは知らぬ。だが、魔女が刺客を操って我が国に仕掛けてきたとなれば、少々話が違ってくる」

「……」

「魔女には魔女でもって対抗しなければならぬ」

 ウェンダルは重々しく言った。ザザは驚かなかった。

「それはわたし、ですか?」

「第三王女で未婚のフェリア姫が狙われたとあっては、我が国も穏便には済ませないだろう。もしかしたら再びいくさになるやもしれぬな」

「国同士の戦いになるのですか?」

「その可能性があるということじゃ。三年前のような一つの街を滅ぼしかねない戦にはにならずとも、なんらかの事変にはなる。もしそうなれば、ギディオン卿は再び戦場に駆り出されるやもしれぬな。いや、確実に前線に立つ。なんといっても彼はこの国一番の戦士であり、優秀な指揮官だ」

「そんな! ギディオン様はお怪我をされて第一線を退いたと!」

 ザザは思わず叫んだ。

「そんなものは何の言い訳にもならない。先日の襲撃で、彼一人で四人もの刺客を屠ったのだから」

「……」

 

 人を大勢殺してしまったと、ギディオン様はとても苦しんでおられた。

 もしまた戦いが起きたら、あの方はどれほど心を殺して立ち向かうことになるのだろうか?


 主の心を思い、ザザは急に息がしづらくなる。ザザの豊かな感受性はギディオンの苦悩に否応なく共鳴してしまうのだ。

「ところであんたは今、ギディオン卿のところで世話になっておるのだろう?」

「……はい」

「わしは考えたのだがな。薬草苑温室の管理部屋が空いておるから、体調が戻ったらそこに入るのはどうかの?」

「え?」

「最近まで使っていた者が独立したから、ちゃんと住めるようになっている。あんたもいつまでもギディオン卿の厄介になるわけにもいかんだろう。それに出入りの許可証を私が書けば、学問所の仕事も続けられる。どうじゃな?」

「……ギディオンさまのお家を出る?」

 ザザは一瞬の逡巡の後、心を決めた。

 

 これからもっとギディオンさまをお助けするためには、わたしが強く、優れた魔女にならないといけない。

 そのためには、ウェンダルさまの元で修練を積み、学びを深めなければ。

 心と体を鍛え、自分の殻を破る。ギディオンさまの庇護にこれ以上甘えていてはならない!


「ウェンダルさま。どうぞ、わたしをそこに住まわせてくださいませ」

「そうか、よく言った」

 ウェンダルは珍しく笑いを滲ませて言った。

「いつでも引っ越してくるがよい。家賃は特別に無しにしてやろう。ただし、わしの手伝いはしてもらうぞ」

「望むところでございます」

 ザザも小さく笑った。


 ウェンダルが去ってから、ザザはまた少し眠ってしまったようだ。

 目が覚めたときは、夕暮れで気の早い月が空の低いところで瞬いていた。明かりは灯されていない。


 なんだろう、夢もみていないのに、なんだか不思議な気持ちがする。なんだか胸のあたりが暖かい。


 ザザは宵闇の中で光る月を眺めながら思った。服の下に手を入れて胸の石を握ってみる。

 それはやはり少し暖かかった。

 

 あの時助けてくれたのは、もしかしたらお母さんだったのかな?


 ザザはふと思いついて、寝台の下に置いてある、古ぼけた鞄を探った。中から引っ張り出したのは、開くことのない手記ノートである。

 その時どうして自分がそんなことをしたのか、後から考えても説明できなかった。

 ザザは服の中から細長い翠色の石を取り出すと、手記の上にかざした。僅かな月光を吸収し、石は密やかに輝く。

 すると、本が微かに震えるような動きを見せて、封印がされた皮の表紙がふわりと開いた。中のページが露わになる。

「な、なに?」

 ザザが見ている前で、白紙だと思っていた頁に銀色の文字が浮かび上がったのだ。


 我が娘 ザーリアザへ

 魔女 ユージェ 記す



   *****


夢寐(むび):眠りにつくこと

瞑目(めいもく):ここでは死ぬこと

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