第35話34 魔女、扉を開ける 2
スーリカの呪縛は外れた。
後はこの人の心の深部に入って、真から気持ちを開放しなければ。
ザザは男の精神の内部に沈み込んでいった。
人間の深層心理に潜ることは決して容易いことではない。あまりに自我の強いものだと、反対に取り込まれて自分の体に戻ってこれないこともあると言う。
しかし、ザザはウェンダルの知識や資料をもとに、暗示を破る術について必死で学んだのだ。
暗示とは人の無意識領域に働きかける情報操作である。
ザザは今、その無意識領域に入り込み、暗示にかけられた心をイメージ化して目の前に再現すると言う術を使っている。
それは魔法というよりも、精神力に
ウェンダルは魔力の多寡に関係なく、集中すればできると言った。だからザザは何時間も祠に篭って瞑想を続けたのだ。
この人の中に取り込まれないように、心で感じたものをイメージして映し出すのよ。
落ち着いて。大丈夫。
目を開くのは今──。
ザザは見た。自分が再現したイメージを。
そこはごつごつした岩と砂が広がる空間だった。それはとても広いようにも、手が届くようにも見える壁に閉じ込められている。緑や青といった色合いは一切なく、無彩色の中に、ところどころ暗い赤がへばりついている不気味な風景だ。
そして、これは風なのだろうか? 頬や髪にびょうびょうと吹き付けるものがある。空気は錆びた鉄のような匂いがした。
落ち着け。
荒涼とした風景は、この人の生きてきた道だから、わたしが介入できる部分じゃない。
わたしは、ここに少しだけ癒しのイメージを注ぎ込むだけ。この人の
ザザは暗く冷えた空間の中で、指先を額に向けた。
綺麗な玉のイメージで魔力を集める。粒のような光が無数に指先に灯ってゆく。まるで手が発光しているようだ。
さぁ、受け止めて!
わたしの魔力は弱いかもしれないけれど、その分柔らかくて受けとめやすいの。
あなたに──あなたの中に染み渡れ!
ザザは大きく両腕を振った。
小さな光が帯を引きながら暗い風景の中に散っていく。いくつかは壁にぶつかって消え、いくつかは跳ね返り、いくつかはふわりとくっついて吸い込まれるように消えた。
強く吹き付けていた風が弱まり,押し寄せるような閉塞感が少し軽くなった。
これでいい。
あなたも少しは楽になったでしょう?
わたしは役に立てたかなぁ、立てたなら嬉しいのだけど……。
そうしてザザの意識は遠のいた。
「ザザ!」
ギディオンは膝から崩れ落ちるザザの体を支えた。
魔女の顔は蒼白で唇も紫色だ。
「かなり集中して精神の深部に潜りこんだようじゃな。大魔女の暗示を解いた上に、
ウェンダルも心配そうに言った。
「大丈夫なのでしょうか?」
「しばらく休ませるほうがいいだろうな。それとこの男」
ウェンダルは寝台に横たわる男を覗き込んだ。
「顔つきが穏やかになっておる。麻薬の効き目は抜けたし、大魔女の呪いも解けて、その上に嬢ちゃんによって癒術を施されたのだ。たぶん、もう尋問をしても以前ほどは手こずらせないことだろうて」
「わかりました。でもまずはザザをゆっくり休ませてやりたいです。ここの医務室を使ってよろしいか?」
「かまわんが、ここは不便な場所だからな。宮の医務室を使うように指示を出しておこう。目が覚めたら白湯とスープを飲ませてやるがよい」
「は。ありがとうございます。では上に連れて行きます」
ギディオンは一礼し、ザザを抱いて暗い牢から外に出た。
「苦しかったろう」
閉じられた目の下には
「済まなかったな、ザザ」
ザザが目覚めたのはそれから三時間後のことだった。
見慣れない清潔な壁。瀟洒なレリーフが施された白い天井。窓が開けれれているのだろう。頬に当たる風は心地がいい。しかし、首を動かすのさえ億劫なほど体が重かった。
「目が覚めたか。気分はどうだ」
「ギディオンさま。わたしは……眠っていたの、ですか?」
「ああ。力を使い果たしたようだ。あまりに集中していて、最後は呼吸さえしていないよう見にえた。短い時間に過度に働きすぎたんだろう」
「そうですか……あの方は?」
「自分がこんなにぼろぼろになっているのに刺客の心配か? ザザらしいな。あの男も大丈夫だ。報告によるとなんだか
「そう、ですか。よかった……」
ザザはふぅと息をついて、再び目を閉じた。
元々そんなに血色が良い方ではないのに、一層白くなった頬に黒い睫毛が濃い影を落とすのを、ギディオンは痛ましそうに見つめた。
「とりあえず白湯を飲みなさい」
ギディオンはザザの背中に腕を回して半身を起こすと、用意しておいた白湯のコップを取った。やや大きなものだったので、両手で持ったザザの指先がおぼつかないのを見て、自分の手で支えてやる。
「飲めるか?」
「は、はい」
ギディオンの腕にすっぽり囲われて緊張しながらザザは白湯を口に含んだ。少し苦みがあるのは薬が入っているのだろう。半分くらい飲んだところでおなかがいっぱいになった。
「もう、大丈夫です」
「何か食べるか? スープを用意させてある。持って来させるか?」
「ええ、でも後でいただきます。あの、ギディオンさま?」
「ああ」
「わたしは少しはお役に立てたのでしょうか?」
「この魔女はいったい何を言っているんだ」
ギディオンは背中に回した腕で、黒い髪を撫でた。そのままもう一度寝かせてやる。ザザはされるがままにおとなしく横になった。まだ疲れが抜けていないようだ。
「お前は俺など及びもつかないほど、すごいことをやってのけたんだぞ」
「……」
「詳しくは言えないが、あの男が今回の襲撃の首謀者の名を示せば、それで言質が取れる。どうせ相手は認めはせんだろうが、敵が明らかなのと、そうでないのとでは雲泥の差だ。情報の探りようもある」
「……恐ろしいこと、になるの……ですか?」
ザザは再び眠気が差してきたらしく、むにゃむにゃした口調になっている
「今はなんとも。しかし、ザザは何も心配することはない。さぁ、もう少し眠れ。起きたら何か食べるといい」
「はい……あの、それでその……」
「ん?」
「わたしが……その、眠るまで、ここにいてくださいませんか?」
白い頬がほんの少し赤くなったように見えたのは、気のせいではないだろう。
「いいとも。ほら安心しろ」
ザザは力強い手が自分の手を握ってくれたのがわかった。
それはとても大きくて硬かったが、全てを
「……ふふ」
知らず、ザザは微笑んだ。眠りの入り口がすぐそこに来ていた。その扉をくぐった瞬間、頬に触れた熱くて湿ったものはなんだったのだろう?
そんなことを思いながらザザは再び寝入ってしまった。
「さぁて、これから忙しくなるかもしれんな。だが、まずはこの娘の身の振り方だ。もう俺と一緒に暮らすのは無理かもしれん」
小さな息を
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