第29話28 騎士と王女 3
風の強い日だった。
「ごめんね、ギディ。私はいい母親じゃなかったね」
旅の踊り子だった母はそう言って屈み込むと、ギディオンの頭を撫でた。
離れたところに停まっている荷馬車には旅芸人の一座が待っている。
「さよならギディ。母さんは行くけど、伯爵様と奥様の言うことをよく聞いていい子でいてね。離れていてもあんたのことは大好きよ」
そう言って母はギディオンの頬に口づけし、一度だけぎゅうっと抱きしめた後、すらりと立ち上がった。
派手な赤いスカートが大きく
スカートの裾の
最後に一度だけ彼女は息子のほうへ振り返った。
大きな門を背に立ち尽くす少年に向かって手を振ると、母親は彼が好きだった歌を歌いながら
母は一番後ろに座ってずっとギディオンに向かって歌い続けた。伸びのある高い声が、車輪の音とともに風に乗って消えていく。
それがギディオンが見た母の最後の姿だった。
場面は転換する。
冷たい北風がアントリュースの城壁にぶつかり、悲鳴のような音がとどろいた。
戦いの
長い冬の夜が明け
本陣が落ち、司令官を失ったチャンドラ軍は総崩れになり、
街に雪崩れ込んだパージェス軍の先頭に立ったのは、やはりギディオンであった。略奪の限りを尽くし、油断し切っていたチャンドラ軍は崩れに崩れた。ギディオンは九時間の間、剣を奮い続けて街の深部に侵入し、アントリュース城主の家族を人質に取っていた敵の将──チャンドラ太守の弟を討った。
そのギディオンが負傷したのは、本陣が落ちた二日後のことである。
小隊を率いて壊滅状態の町を偵察していた時、崩れた建物の影に潜んでいたチャンドラ兵士数名が、隊の背後を襲った。
隊の最後につけていた若い兵士達何人かが斬られて倒れ、先頭のギディオンは疾風のように双剣を
気配を悟られぬように放たれた小さく鋭い矢は、盾の役割をしていた左腕に突き立った。ギディオンは矢も抜かぬまま、最後の一人を倒すまで戦い抜き、その後意識を失った。
その時のギディオンは知る由もなかったが、矢じりが吸っていた毒は、とうに絶えたと思われていた魔女の一族の秘伝とされるものだった。
幸い矢が小さく、遠くから放たれたこともあって、深くは刺さらなかった。そのため体内に入った毒の量が少なく、処置をした医師の手当が適切だったのもあって、命を落とすことにはならなかった。
しかし、焼け残った病院で目が覚めた時、左手は腫れ上がりほとんど動かせなくなっていた。
「……状況は?」
「問題ありません。街中のチャンドラの残党は我が軍が
「そうか……よかった」
「指揮官殿、お顔の色が酷く……」
「俺は大丈夫だ。少し体が熱くて重いだけだ。休めば治るさ」
しかし、体に篭った熱はなかなか下がらなかった。
生まれて初めて、ギディオンは自分が疲れ切っていることを知った。伯爵家でも軍でも気が休まることはなかったのだ。
皮肉にも負傷が初めての休暇となってしまった。
懸命な努力の甲斐もあり、感覚のなかった左手が少しずつ動かせるようになって、数ヶ月後にはなんとか日常生活動作ができるようになるまで回復した。しかし、鈍い痛みは消えず、握力も全復はしなかった。以前のように双剣を駆使して戦うことは、もはや不可能だと医者は言った。
意外にもギディオンは、それほど落ち込んだりはしなかった。自分でも不思議なほど何も感じなかったのだ。
俺は人を殺しすぎた。これは罰だ。
上官にも部下にも強く引き止められたが、ギディオンは国防軍を辞して旅に出る。
行ったことのない地方や町を巡ることは戦いと負傷で疲れた心を癒してくれ、半年の間、ギディオンは自由を謳歌した。
そんな時、南のある町を視察に訪れていた王太子レストレイと出会ったのだ。
庶民の格好をした彼と居酒屋で隣り合わせたのはもしかしたら彼の筋書きではなかったかと、現在のギディオンは疑っているが、当時はただその人の魅力に圧倒されていた。
レストレイは熱心にギディオンに近衛入隊を勧めた。幾度彼が断っても諦めることなく、何度もなんども根気強く説得してくれた。
そして俺はまたも軍に戻ってきたのか……。
ギディオンは重い
見慣れた王宮内の近衛騎士詰所の休憩室の天井が見える。
事後処理を済ませて戻ってきた途端、連日の夜勤のせいで眠気が襲い、仮眠を取ると言って長椅子に横になったことを彼は思い出した。
何時だろう?
あたりは薄暮だった。ほんの
「あ、お目覚めですか?」
向こうの机で作業をしていたフリューゲルが声をかけ、ギディオンは気だるげに身を起こした。
「なぜ起こさなかった」
「ひどくお疲れのご様子でしたので。確か三日連続の夜警でしたよね? それに昼間も王女殿下のお側に侍られることが多かったようですし……よくその状態で戦えましたね」
「護衛騎士が戦わずにどうする」
「はい。久しぶりに指揮官殿の剣技がみられて良かったです。双剣でなくても人並み以上に戦えるではないですか」
「人並み以上は余計だ。生かしておいた賊は吐いたか?」
「それが、本人は吐こうとしているようなんですけど、なぜか喋ろうとすると息が詰まるようなんです」
「息が?」
「はい。ものすごく苦しみ出すのです。演技とは思えません。何かの病気でしょうかね?」
「……いや」
魔女だ。魔女の呪いだ!
直感的にギディオンは思った。
『大魔女と呼ばれた魔女は、人の心に魔を染み込ませ、無意識に命じた行動を取らせたりしたそうです』
以前ザザがそんな話をしていたことがあった。
ザザが生き残っているのだから、チャンドラに流れ者の魔女が入り込んでいる可能性は皆無ではない。
もし、そんな女がいたとしたら大変なことになる。
「とにかく、自殺だけはさせるな。拘束しておけ。なんなら薬を盛って眠らせてもいい。あと事務方から薬草苑に遣いを出せ」
ギディオンは内心の焦りを努めて隠しながら言った。
「わかりました。その……それで」
「なんだ?」
「本日フェリア殿下から二度も御使者がありました。指揮官殿は後始末に忙殺されているとお伝えしたのですが……そろそろ三度目が来る頃合いかと」
「ああ……そうか。すぐに来るようにと言われていたのだった。着替えてすぐ参るとお伝えしてくれ」
「承知しました」
「ギディ! 大丈夫だったの⁉︎」
部屋に案内された途端、フェリアが駆け寄って来る。
「ずっと待ってたのよ! 心配してた!」
「申し訳ありません。事後処理に思った以上に時間がかかりまして。陛下と王太子様には報告書を送りましたが、まだ調査中のことも多く」
「ギディが無事ならいいの……でも、怖かったわ。死んだ人もいるのでしょう?」
「殿下が心配されるには及びません。ですが、事前調査が足りませんでした。恐ろしい思いをさせてしまい、心からお詫び申し上げます」
「事前調査はあなたの役目ではないでしょう? 謝ることはないわ。でも、これからはもっと気をつけないといけなくなるわね。私の公式行事も減ってしまうのかしら?」
「少なくとも、完全に調査が終わるまではお控えになった方が良いかと思われます。陛下がご判断されることでしょう」
「そうね……私はますますここに缶詰めね。アレックスもさっきから元気がないの。ご飯も食べないし。やっぱり、このことが原因だと思うんだけど。不安だわ……私は弱虫ではないつもりだったんだけど」
「弱虫などということはありません。殿下は少しも騒ぎ立てずにじっと我慢しておられた。なかなかできないことです。ご立派でした。そしてアレックスも勇敢でした。しかし、獣医に見せた方がいいかもしれません」
ギディオンは部屋の隅で丸くなっている黒犬を見た。フェリアは犬が蹴られたところは見ていないはずだが、確かに心配である。
「そうするわ……ねぇ、ギディ。出来るだけそばにいてね?」
「承知いたしました」
フェリアは俯いてギディオンの胸に額を預けてきたので、背中をとんとん叩いて安心させてやる。こうしてみると、フェリアとザザの体格は本当によく似ていた。
「私、本当はとっても怖かったの。聞いたこともないような恐ろしい声や音がして。ギディ、あなたが怪我をするんじゃないかって思った……随分怒っていたでしょう?」
「申し訳ございません。怖かったでしょう?」
「責めてるんじゃないの。ただ、あなたが怒る声を聞いたのは初めてだったから……でもとても怖かったけど、少しだけ、その……素敵だった」
「素敵」
「ええ、男らしくて……物語の姫君のように、邪悪な龍と戦う勇敢な騎士に守られている気がしたわ」
「物語ではなく、命をかけてお守りいたしますとも」
「本当?」
「本当ですとも」
「ずっと?」
「殿下がこの国におられる限り」
「そう……じゃあ……じゃあ、ギディ。私をお嫁さんにして」
*****
この章おわり。すみません、すぐに戦闘を入れてしまうのは悪い癖です。
また、フリューゲルというキャラは別人ですが、他の作品にも出てきます。
わかりますか? 画家の名ですが、響きが好きなんです。
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