第二話


 彼女の自己紹介を内心で繰り返す。

(殿下の、幼なじみ……?)

 そして。

(公爵令嬢……!?)

 アリーチェは自身の口を両手で塞いだ。危うくまた「友だちになってください!」とお願いしてしまうところだった。ちょうど今朝、調子に乗っていたことを自覚したばかりだというのに。

 公爵令嬢ということは、アランと同じ身分である。自分ごときが声を掛けていい人ではない。

(そんな……仲良く、なりたかったな)

 しゅんと落ち込んでいたところ、生徒会室の扉が開いてレイビスが現れる。

 先に反応したのはアンヌ=マリーだ。

「ごきげんよう、殿下。もしかして中まで聞こえておりましたか? すぐにこの者を追い返しますから、少々お待ちください」

 けれどレイビスはアンヌ=マリーではなく、アリーチェの落ち込む姿に反応した。

「アンヌマリー、そいつはいい。俺が呼んだ」

「……殿下が?」

「二人とも入ってこい」

 そう命令したのはレイビス本人なのに、なぜかアリーチェだけは彼に制服のカラーを捕まれて強制的に中へ連れ込まれる。

 何事かと困惑も露わに視線を泳がせるが、身体は恐怖のせいで動かない。

 こんな仕打ちを受けるなんて、いったい自分はどれほどやばい逆鱗に触れてしまったのだろう。

 初めてここに来たときと同じように応接用の椅子に座らされたが、そのときとは違ってレイビスのすぐ近くの椅子に強制連行されていた。

 向かい側にはお馴染みのアランがいる。優雅にカップを傾けてお茶を飲む仕草は、ザ・貴族という感じで見惚れる。

 その間にレイビスに指示されたアンヌ=マリーがアリーチェの隣に座った。

「悪いな、アンヌマリー。生徒会の始まる前に時間を取らせて」

「そっ、そんな、殿下。殿下が謝るようなことは何一つございませんわ。我が国の至宝である殿下の御命令でしたら、わたくしは喜んでお受けいたしますもの」

 氷の瞳はどこへやら。ぽっと頬を染めるアンヌ=マリーに、アリーチェはこれでもかと目を大きく開いた。

「そうか? だが、公爵令嬢であるおまえに、そう簡単に頼るのは気が引けるな」

「いいえ。何を仰いますの。殿下とわたくしの仲ではございませんか。わたくし、殿下の御命令でしたらなんでもお聞きしましてよ」

「本当に?」

「ええ、もちろん」

 アリーチェはレイビスとアンヌ=マリーを交互に見やる。今はレイビスも眉間にしわを寄せることなく、むしろ微笑みを浮かべていた。

 それはアリーチェに見せた笑みよりも、甘い色気を含んでいる。

 そこでなぜか胸がツキンと痛んで、アリーチェは無意識に自分の胸を制服の上から押さえた。

「そうか、それはありがたい。さすが、建国以来忠実に王家に仕えてきたアヴリーヌ公爵家の娘だ」

「当然ですわ」

「ではアンヌマリー、おまえにアリーチェの教育を任せたい」

「「……え?」」

 アンヌ=マリーとアリーチェの疑問符が重なる。

「彼女は訳あって高等部からの編入でな。周りにうまく馴染めていないらしい。そういう生徒をサポートするのも、生徒会の役目だと思わないか?」

「え、ええ。そうですわね……?」

 そうなのだろうか。学校というものが初めてのアリーチェは、生徒会というものが具体的にどんな職務を担っているのかは知らない。

「アンヌマリーはこの学園に在籍する令嬢の中で一番女性のマナーに詳しいだろうと思っての指名だったが、どうだ?」

「殿下にそう仰っていただけて光栄ですわ。ただ……少し、事情が呑み込めないと言いますか……失礼ですが、殿下とこの方のご関係は?」

 アンヌ=マリーの口角が引きつっている。レイビスの提案にはアリーチェも驚いたのだから、いきなり厄介事を頼まれる彼女はもっと困惑してもおかしくはない。

「あ、あの、殿下。えっと、いきなりこういうのは、あんまり……というか、なんで……」

 と、悪気なく口を挟んでしまったら。

「今はわたくしが質問していてよ。人の話を遮るのはマナー違反だわ」

「すもっ、申し訳ありません!」

 また癖で「すみません」と言いそうになって、すぐさま自分の舌に軌道修正をかけた。おかげで変な嚙み方をしてしまったが、特に誰も気にしなかったようだ。それが逆に恥ずかしかったのだが、なんとか自分の中で消化して流す。

「関係というなら、そこのアリーチェ・フランとは友人だ」

「……ご友人、ですか? 殿下の?」

 アンヌ=マリーの驚いた顔の何が面白かったのか、レイビスがくすりと笑った。

「俺に友人がいたらそんなにおかしいか?」

「いいえっ。そんなことはございませんが……」

「いやあ、でもわかるよ、アヴリーヌ嬢の気持ちは。俺も最初は驚いたからね」

「……ランベルジュ卿もご存じですの」

「うん。ね、フラン嬢。俺とも友人だもんね?」

「えっ!?」

 いきなり話を振られて心臓が跳ねたが、アランの言葉にも心臓がびっくりした。

 今朝、まさに友だちになってくれないか彼にお願いするところだったから、そう言ってもらえるのはとても嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい。

 でも――。

「あの、申し訳ありません。わたしも、その、アラン先輩と友だちになってみたかったんですが、分不相応なので……。だっ、だから、ですね、殿下とも、その、わ、わたし……っ」

 言え。言うんだ。そう内心で自分自身に命令する。

 今言わないと絶対に言えなくなる。友だちをやめます……なんて。

(調子に乗っちゃいけない。友だちは欲しいけど、誰かに迷惑をかけたいわけじゃない)

 意を決して息を吸い込んだとき。

「あなた、名前の呼び方もなってないわ!」

「えっ、俺振られた!?」

 前と隣から一斉に責められて、アリーチェはぽかんとした。

「ランベルジュ卿、ちょっと黙っててくださる? 今すぐこの方にマナーを叩き込む必要があるわ」

「え~、別にそれくらい構わないよ? 女の子なら許せるかな」

「あなたがそんなことだから調子に乗った女子生徒が生徒会室に押しかけてきて殿下にご迷惑をおかけしているのではなくって!?」

「う~ん。だって女の子にお願いされちゃうとねぇ」

「だったらわたくしがお願いしても同じよね? その軟派な性格を今すぐ改めなさい!」

「ごめんね、アヴリーヌ嬢。いくら女の子のお願いでも、一人に絞れっていうのは無理なんだ。ほら俺、博愛主義者だから。色んな女の子と楽しみたいんだよね」

「知りませんわよ! 誰なの、この男を『春の貴公子』と呼ぶ愚か者は!」

「あはは。まあそう怒らないで。せっかくの綺麗な顔がかわいくなってるよ?」

 アンヌ=マリーがキッとアランを睨む。氷の瞳が怒りで燃え上がっているのが不思議で思わず凝視してしまう。

「こんな男のことはどうでもいいわ。言っても無駄ね。でもあなたは許さなくてよ、アリーチェ・フラン」

「……っ!?」

 恐ろしすぎて驚く声も出ない。絶対零度の眼差しが突き刺さる。

「よくって? 異性の名前は特別な関係にある者しか呼んではならないの。あなたの親はこんな初歩的なことさえ教育しなかったの?」

「も、申し訳ありません!」

「訂正なさい。なんと呼ぶべきかわかるわね?」

「は、はいぃっ。ランベルジュ先輩です!」

「よろしい。二度目はなくってよ」

「ききき気をつけます!」

 元気よく返事をして、アリーチェは思わず歓喜のため息を吐いた。

 それに気づいたアンヌ=マリーが不審者でも見るような顔をする。

「なんなの? 文句があるなら、最初から指摘を受けないほど完璧なマナーを身につけておくべきよ。それもできないのに――」

「ち、違いますっ。そうじゃなくて、えっと、アヴリーヌ先輩って、素敵だなって」

 我知らずぽっと頬を染めた。

「…………はい!?」

「だって、わたしの悪いところ、ちゃんと指摘してくれるじゃないですか。直したら、やっぱり褒めてくれて。わたし、本当に感動してるんです! 無視されないってこんなに嬉しいんですね……!」

「あなた……」

 なんだか不憫な子を見るような目で見られているが、全然気にならない。

「本当はアヴリーヌ先輩とも、と、友だちになりたかったんですけど、だめみたいなので、代わりにあの、わたしのこと、もっと叱ってもらってもいいですか!?」

「ぶふっ」

 喉をいったん潤すために紅茶を飲んでいたらしいアランが、その瞬間見事に噴き出した。

 アンヌ=マリーが嫌悪も露わに彼を怒ったが、怒られているアランはせていてそれどころではなさそうだ。

 とりあえずアリーチェがテーブルに散った飛沫を持っていたハンカチで拭いていたら、アランにその手を止められる。

「待って待って、そんなの汚いから。俺が自分でやるよ」

「ええ、ぜひそうしてくださる? もし殿下の御身にかかっていたら、この場でそのご自慢の顔を燃やして差し上げるところだったわ」

「アヴリーヌ嬢は本当に容赦ないね……。あ、フラン嬢。そのハンカチ貸して。さすがに申し訳ないから、これは俺がもらうね。今度新しいのプレゼントするよ」

 そっちのほうが申し訳ない。拒否するように首を横に振るが、アランはアリーチェから奪ったハンカチを返してはくれなかった。

「それよりさ、俺としてはさっきのフラン嬢の言葉のほうが気になるんだけど?」

「そうよ! あなた、わたくしのことなんだと思ってるの? 好きで叱ってるわけではなくってよ」

「ちがっ、違うんです! それはもちろんわかってます。で、でもわたし、もっとアヴリーヌ先輩の御指導を、受けたいなって思って……」

「指導……?」

 一番目の魔女に教えてもらったマナーは、使いどころが限定されている。

 クラスメイトはアリーチェの無礼を笑うだけ。

 本で勉強しようにも、貴族にとって当たり前のマナーなんてどの本にも載っていなかった。

 だからもう、縋れるのはアンヌ=マリーだけなのだ。彼女だけが、厳しくても正しいマナーを教えてくれた。

「わたし、どうしても友だちがほしいんです。友だちをんです。でも、覚えたマナーは全部通用しなくて、だからっ――」

 そのとき、途中からずっと沈黙を保っていたレイビスがおもむろに口を開く。

「なぜ、そこまで必死になる?」

「え?」

「単に一人が寂しいのかと思っていたが、どうやらそんな様子でもないだろ」

 彼が椅子のアーム部分に肘を置く。どう答えたものかと悩んで、少しだけ俯いた。

 瞼の裏に蘇るのは、妹の楽しそうな笑顔だ。

「……それが、わたしが勝手にした約束だから、でしょうか」

「へぇ……〝約束〟ね。なのに俺との友人関係も解消するのか?」

「ご、ご迷惑を、おかけしたいわけじゃ、ないので」

 本当は解消なんてしたくないけれど。

 初めて友だちになってくれると言ったレイビスのことを、アリーチェは怖いと思いながらも好感を持っていたから。

「そうか。おまえがそう言うなら仕方ない」

 突き放したような無機質な声音に、喉がきゅっと痛んだ。

 これで友だちは誰もいなくなった。またゼロからのスタートだ。無意識に唇を嚙む。

「アンヌマリー」

「はい、殿下」

「そういうことだ。こいつをどこに出しても恥ずかしくない女に仕上げろ」

「…………それは御命令ですか」

「ああ、命令だ」

「承知いたしました。殿下の御心のままに」

「え、なんで殿下が……え……?」

 一人戸惑う。アンヌ=マリーに指導をしてほしいと頼んだのは自分だ。なのにどうしてレイビスが彼女にそんなことを命令するのだろう。

 アリーチェの困惑を読み取ったのか、レイビスが応えた。

「俺はこれでもおまえのことを気に入っている。おかげで視界もはっきりしているしな。そんなおまえを馬鹿にされたんだ。見返してやりたいだろうが」

「え、っと、目は、良かったです、けど……」

 ちょうどそれは気になっていたので、問題なく見えているなら安心した。

 でも、それとこれを同じ話にしてしまっていいのだろうか。

「おまえは努力するのが得意だろ? だったら、今度は俺の友人になっても誰からも文句を言われないくらい、そしておまえ自身が自信を持てるくらい、立派な女になれ。そうしたら二度と迷惑だなんだと弱気にもならないだろ」

 アリーチェはゆっくりと目を見開いていった。

 まさかレイビスがそこまで自分を気に掛けてくれているとは思ってもいなかった。

「いいか。まずは俺を落とすつもりで励め、アリーチェ」

「お、落とす……」

「俺を落とせば他の連中なんて簡単だ。あっという間に千人も達成できる。やれるな?」

 頷こうとして、けれど一番の問題を思い出す。

「でも、身分が……」

 たとえ完璧なレディになったとしても、身分の壁は大きいはずだ。

「アリーチェ、おまえの大好きな本には、なんて書いてあった?」

「?」

 突然なんのことだろうと思ったけれど、すぐに友だちづくりのための本のことを言われていると思い至る。

「あ! もしかして、友だちに人種や身分は関係ないって、あれですか?」

 すると、レイビスが片方の口角だけニヤリと上げた。

 その表情があまりに似合っていてドキッとする。

(そっか……じゃあわたしが、誰にも文句を言われない人間になれば、殿下に迷惑をかけずに、友だちになれるんだ。友だちに……)

 だんだん心が晴れてきて、自分が何をすべきか明瞭になっていく。

「わ、わたし、今度こそ頑張ります! ずっと手探りだったけど、今なら何をすべきかわかったような気がします!」

「ああ。いいか、よそ見はするなよ」

「はい! 目標が一つなら、頑張りやすいです!」

 もともとアリーチェは、同時進行で物事を進めるのは得意ではなかったのだ。やるべきことが一つならどこまでも頑張れる。

「アンヌマリー、期待してるぞ」

「殿下にそう言われたらやるしかありませんもの、わかっておりますわ。ただし――殿下の婚約者はわたくしだってこと、ちゃんと覚えておきなさいよ、アリーチェ!」

「はい! ありがとうございます、アヴリーヌ先輩。よろしくお願いします!」



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