第2章「友人と勉強をする」
第一話
アリーチェは、今とても不思議な光景を目にしている。
視力が悪いらしいレイビスに、視力矯正の
なのに、週が一周して、また音楽の授業のために訓練棟の内回廊を通った際、やはり中庭で魔術の実技授業があるらしく集合していた先輩たちの中にいたレイビスは、これまでと変わらず周囲を睨むように厳しい表情をしていた。
あれからレイビスの姿を見るのは、これが初めてである。
(え、なんで!?)
もしかして、魔術道具に不具合でもあったのだろうか。
それなら申し訳なさすぎて今すぐ原因究明をさせてもらいたいところだが、如何せん、人目がある。
そもそも王子である彼にアリーチェから気安く声を掛けるなんてできるはずもない。
(ど、どうしよう。さすがにここで魔術は使えないし、話しかけることもできないし)
無意識にレイビスの方を見つめながら歩いていたら、急に身体が何かによって進行を止められた。これはぶつかった衝撃ではない。誰かがアリーチェを止めるように両肩を押さえてきたのだ。
そのときやっとよそ見をしていたことに気づき、アリーチェは相手を見る前に謝罪の言葉を口にした。
「ごごごごめんなさい! 完全によそ見してましたすみません!」
「ふふ。そんなこと気にしなくていいよ、フラン嬢。それより怪我はない? 柱にぶつかりそうだったから止めてみたんだけど」
「って、アラン先輩……!?」
「そうだよ。俺の名前覚えててくれたの? 嬉しいな」
「ひっ!?」
手袋越しにキスを落とされて、女子らしからぬ反応をしてしまう。
でもこの反応は相手にも失礼すぎたと気づいてまた謝ったら、彼は「俺も突然ごめんね」と春の日差しのように柔らかく微笑んでくれた。
前も思ったけれど、なんて紳士的な人なのだろう。これはもう拝むしかない。
「おい、何をしてるんだ、おまえたちは」
「あ、レイビス。ねぇ見て、なんか俺拝まれてる。面白いねこの子」
「アリーチェ」
「ひゃい!」
なぜかレイビスが呆れたような顔をしていたが、その眉間にしわは寄っていなかった。それにほっとしつつ、でも今は彼の焦点が近距離だからそうなっているだけかもしれないという不安が押し寄せてきた。
「友人づくりで大切なのは、なんだった?」
「え? えっと……あ! 挨拶、ですか?」
「そうだ。で?」
「で……? ――あ! お、おはようございます、殿下!」
「ああ、おはよう」
特に笑顔はない。でも返事があった。挨拶をして返してもらえたのはこれが初めてで、胸の奥がじんと温かくなる。
「あ、あの、アラン先輩も、おはようございます!」
「ふふ、おはよう」
「――!」
やばい。感動で泣きそうだ。涙は出ないけど、心境的にはぼろぼろと泣ける。一方通行じゃないことがこんなに嬉しいことだったなんて。
嬉しすぎて、調子に乗ってしまった。
「あ、あの、アラン先輩」
「うん?」
「もし良かったら、わ、わたしっ、と、友だちに、なってください……!」
握手を求めるように手を差し出す。
レイビスと千人の友だちをつくると約束したのだ。もしアランが二人目になってくれるならとても嬉しい。
けれど、視界の端に映るアランの手が動いたと同時、アリーチェと同じく特別棟にある音楽室に向かっていた女子グループが、くすくすと笑いながら通り過ぎていった。
「あの子、ついにやったわね」
「まさかランベルジュ先輩にまであんな図々しいこと言うなんて」
「相手にされるわけないのにね」
彼女たちはいつものようにひそひそと話していたけれど、アリーチェの耳にはしっかり届いている。こそこそ話が、イコール小さな声とは限らない。
たぶん、レイビスとアランにも聞こえてしまっているような気がする。だって視界に映ったままのアランの手が、彼女たちの声に反応して空中で止まったから。彼らに聞かれたと思ったとき、途端に羞恥心が身体の内側に広がっていく。
(恥ずかしい……っ)
彼女たちの言うように、調子に乗ってしまった自分が心底恥ずかしい。
レイビスが友だちになってくれると言ってくれて、きっと図に乗ってしまったのだ。
アランの手が再び動き出した瞬間、弾かれたように一歩身を引く。
「あ、あの、やっぱり、今のナシでお願いします。聞かなかったことにしてください!」
言い逃げするつもりでダッシュを決め込んだら、それを許すまいと腕を思いきり掴まれた。
反射的に振り返ると、銀の瞳を鋭く細めたレイビスと目が合う。さっきまでと違って明らかに不機嫌なオーラを滲ませていて、アリーチェは我知らず小さな悲鳴を上げた。
「アリーチェ。今日の放課後、生徒会室に来い」
「え、な、なんで……」
「いいから来い。命令だ」
これはノーも言い訳も許してくれなさそうな雰囲気だ。
アリーチェは身を縮こまらせながら頷くことしかできなかった。
*
本日の授業が全て終わり、クラスメイトたちが部活動に向かったりサロンへ女子会をしに行ったり寮へ直帰したりするなか、アリーチェは一人まだ自席に残っていた。
両手で顔を隠しながらため息をつく。
(殿下の呼出し……なんだろ)
怖い、というのが正直な気持ちである。だってあんなに怖い顔で命令されたのだ。
レイビスがただ恐ろしいだけの人じゃないことは知っているが、今朝のあれは視界不良からの睨みではなく、怒りを伴った睨みだった。
しかも彼がああなったのは、クラスメイトの女子がアリーチェの失態を指摘してからだ。ということは、彼も彼女たちのようにアリーチェの図々しさに気づき、それを叱るために呼んだのではないか。
(せっかく友だちになってくれたのに、失望させちゃった……)
羞恥心と絶望と悲しみでごちゃごちゃである。
(でも、わたしが、悪いから)
行かない選択肢はない。友だちづくりのための本も言っていた。『友だちには誠実であること』と。
(ぜ、絶交されるかもしれないけど……でも、行く! 頑張れ頑張れ頑張れわたし)
自己暗示のように自分を奮い立たせる言葉を繰り返しながら生徒会室の前までやって来ると、まずは深呼吸をした。
それから震える手をなんとか伸ばして、ドアノブを掴んだとき。
「――そこのあなた、生徒会室になんの用?」
「ひっ!?」
なんとも絢爛な人に声を掛けられた。アリーチェがこれまで出会ってきた中で、一番の美女である。
金塊のように輝く縦巻きの長い髪に、ブルーサファイアのような青い瞳。彫りの深い顔立ちに負けない化粧が彼女を一層美しく飾り立て、厚めの唇に刷かれた真っ赤な紅が特に目を引いてやまない。
ネクタイの色は緑だ。つまり、突然登場した派手な美女は、三年次生であるとわかる。
彼女の視線が一瞬だけ下に降りた。
「あなた、普通科の一年次生ね。どうせアラン・ド・ランベルジュに口説かれて勘違いしたんでしょうけれど、ここはあなたのような色恋で頭を弱くした女が来るところではなくてよ。さっさと消えなさい」
「えっ、で、でも……」
「『でも』?」
「ひぃっすみません!?」
「わたくしに口答えするなんて、とんだ田舎者ね。ノックもなしに入室しようとしたことも含めて礼儀知らずにも程があるわよ」
レイビスとは違う、氷の瞳に見下ろされる。
彼は鋭い刃のように切れ味抜群の睨みを利かせるが、彼女の睨みは相手を凍らせるような冷たさがある。
けれど、アリーチェはそれにびびりながらも、彼女の言葉には思うところがあった。
(そっか、部屋に入るときは、ノックしなきゃいけないんだ)
これまでは、誰かの部屋を訪ねたときは、アリーチェが扉を開ける前に部屋の主人に仕える使用人が扉を開けていた。アリーチェが自分で開けることもあったけれど、ノックをしないことで怒られることはなく、むしろ早く入ってこいと怒られた。
王宮にしばらく滞在させてもらっていたときだって、誰かの部屋を訪ねる機会には恵まれなかった。
スラム街で暮らしていたときは言わずもがな、そもそもノックを必要とする場面なんてない。
だから、部屋に入室する際、ノックが必要だという常識をアリーチェは備えていなかったのだ。
「あ、あの、ありがとうございます、教えてくださって。ノックって、扉を叩けばいいんでしょうか?」
恐る恐る訊ねれば、彼女が怪訝そうに眉根を寄せる。美女がそんな表情をすると迫力がすごい。
「あなた、ノックの仕方も知らなくて? どういう教育を受けたらそんな出来損ないが育つの? それで生徒会室の扉を叩こうだなんて不愉快だわ」
「うっ。す、すみません……」
「謝るときは『申し訳ございません』!」
「はひっ、申し訳ございません……!」
もうやだ。怖い。だからなんで学校はこんなにも怖い人が多いのだ。
一応、一番目の魔女の名誉のために言い訳をするならば、アリーチェは必要最低限のマナーは教えてもらっている。食事のマナー然り、パーティーでのマナーも。一番苦労した平民訛りは、お墨付きをもらうほど綺麗に直された。
けれど彼曰く、あくまで学生だからそこまで気にする必要はないですよ、とのことだったのだ。
だからアリーチェは、貴族らしい言葉選びも、貴族が軽く交わす挨拶も、部屋を訪ねた際のマナーも貴族の常識も、自分の知らないことがたくさんあるということを学生生活を送る中で気づき始めた。
「それで、わたくしはさっさと消えなさいと言ったのだけど、それは聞こえていなかったのかしら」
「い、いえ、聞こえてました」
「だったらなぜ動かないの? わたくしは愚図も嫌いよ」
言葉も態度も冷たい。入学したばかりのアリーチェなら、この時点でとっくに逃げている。
けれど、これまで送ってきた学生生活で、アリーチェの礼儀知らずな行動を嘲笑こそすれ、どうするのが正解か教えてくれる人はいなかった。アリーチェなりに何が〝間違い〟だったのか考え、修正し、これならと思う方法を実践してみても、やっぱり嘲笑しか返されない。そんなことばかり繰り返してきた。
どれが正解なのかわからなくて途方に暮れたことは何度もある。
ゆえに、たとえ言い方はきつくても、ちゃんとどうするのが正解か示してくれた目の前の先輩がどれほど貴重な存在なのか、アリーチェは気づいていた。
(勇気を出すなら、今しかない)
右足をぐっと引き、スカートを摘まむように軽く持ち上げ、頭を下げる。
「お、初に、お目にかかります。わたしは、フラン子爵の娘、アリーチェと、申します」
壊れそうなほどばくばくしている心臓を宥めながら、嚙まないようにゆっくりと言葉を続ける。
「実は、殿下に呼ばれて、ここに参りました。もしよければ、わたしにノックの仕方を、教えてくださいませんでしょうかっ」
なんとか言えた……! と安堵の息を吐く。
けれど相手からの反応はない。恐る恐る頭を上げて窺うと、まるで虫ケラでも見るように目を眇めている彼女と視線が合った。
(あ……わ……終わっ、た……)
これは殺される。本能的に思った。どう考えても殺される。
美女は怒らせると本気で怖いと、通りすがりの見知らぬ酔っ払いが嘆いていたことがあるけれど、まさにそのとおりだと思った。
――しかし。
「背筋」
「…………へ?」
アリーチェが条件反射的に謝罪をする前に、ようやく相手からの反応がある。
「背筋をもっと伸ばしなさい! なんなのその腰の曲がった醜い姿勢は。それと足! 後ろに引きすぎよ。だからバランスが悪いの。あと顔! もっと自然に笑えないの、あなた」
「え、あ、え」
「まるで貴族の真似事をしている平民のようだわ。言われたとおりやりなさい!」
「は、はいぃ!」
右足を先ほどより浅く引き、背筋をぴんと伸ばして、もう少し口角を上げてみた。
「ふん、顔以外はいいわね」
「……え!? ほ、本当ですか!?」
「わたくしが嘘を言うとでも?」
「いいいいえ! そ、そうじゃなくて、ほ、褒めてもらったの、初めてで……っ」
あまりの感動に、目の奥がじんと熱を持つ。
「なっ、ほ、褒めてはなくてよ! 顔は最悪だって言ってるの。不合格!」
「すみっ……じゃなくて、申し訳ございません」
「…………」
教えてもらったことをさっそく活かしてみれば、相手が片眉をわずかに上げた。
何も言われないけれど、叱責も飛んでこない。
(この人、良い人だ……!)
悪いところを悪いと言ってくれて、間違いを嘲笑うこともない。ちゃんとできれば褒めてもくれる。
怖い人だと思ったけれど、意外とそうではないかもしれない。
(殿下もそうだった。最初は……今もたまに怖いけど、でも、怖いだけじゃない)
嬉しい。そんな思いが心に生まれる。嬉しい。嬉しい。これまで放っておかれることばかりだったから、こんなふうに向き合ってもらえるのが嬉しくてたまらない。
(お名前、訊いてもいいかな。だめかな)
でも、訊きたい。知りたい。
友だちに、なりたい。
「あ、あのっ、失礼ですが、お名前を、う、伺っても、よろしいでしょうかっ?」
彼女は一瞬だけ瞳に剣を乗せたが、これまでの振る舞いでアリーチェの無知に少しだけ慣れたのか、ため息を吐いて言った。
「そうね。相手が名乗ったのに名乗らないのはマナー違反だわ。わたくしはアンヌ=マリー・ド・アヴリーヌ。アヴリーヌ公爵の娘であり、第一王子殿下の幼なじみよ。ちゃんと覚えておきなさい、アリーチェ・フラン子爵令嬢」
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