第三話
それから始まったアンヌ=マリーによるマナー講座は、放課後、生徒会の活動が始まる前に行われることとなった。
どうやら普通科とその他の科では授業数に違いがあり、週の何日かは魔術科のほうが遅く授業が終わる日があるらしい。そういう日は生徒会メンバーが全員集まってから活動を始めるようで、それまでの空いた時間をアリーチェのために使ってくれることになった。
さらには、一般科目の成績が最悪なことに気づかれて以降は、昼休みに勉強も見てくれることになった。
ただ、最初はアンヌ=マリーが見てくれるのかと思いきや、なんとレイビスも交代で見てくれるという。最初はド緊張でいつもよりポンコツになっていたアリーチェだったが、回数を重ねるごとに彼の存在に慣れていく。
緊張すると吃ることの多かった口が、今ではそれなりにスムーズに話せているのがいい証拠だ。
それに、勉強のときに使う図書館の雰囲気も、アリーチェの緊張を
というのも、この学園の図書館はどこの劇場かと思うほど広く、U字型を描くように本棚が配置され、それが四階まであるのだ。真ん中は吹き抜けとなっており、その一階部分に勉強机と椅子が設置されている。生徒たちは皆、その場所で本を読んだり自主学習をしたりしている。
が、人気の第一王子がそこで同じように勉強などをしていると、他の生徒たちが寄ってくるらしく。そのせいで、身分ゆえではなく、単純に人避けのためにレイビス専用の個室が設けられたらしいのだが、これが窓際に面していて人目につかない絶好の場所だったのだ。
アンヌ=マリーと勉強する際もそこを使っていいという本人からのお達しがあったので、アリーチェは今日もそこで昼の時間を勉強に充てている。
「……これも正解ね。あなた、もしかして今までのは殿下の気を引くための演技だったんじゃないわよね?」
「え!? そんな、滅相もないです……! ええっと、なんと言いますか、わたし、興味のないことは本当に覚えるのが苦手で……」
「どうやらそうらしいわね。こっちの歴史学は間違いだらけじゃない」
「うっ」
「特に人物名がだめね。誰がどんな偉業を為したかまるでわかってないわ」
さすが三年次生の中でもトップを争う人である。ずばり苦手なものを当てられてぐうの音も出ない。
歴史学はひたすら暗記する科目なので、アリーチェにとっては特に苦手な教科に入る。
「…………」
「? アヴリーヌ先輩、どうかしました?」
なぜか見つめられたので、他にも何かだめなところがあっただろうかと首を捻る。
これまでの自分のポンコツ具合から、アンヌ=マリーに睨まれるように見つめられることと、自分が何かやらかしたことが同義になりつつあった。
「あなた、クラスでの虐めはどうなっていて?」
「? わたし、特に虐められた覚えはないですけど……」
「あれを虐めでないと言うのはあなた以外にいなくってよ。クラスメイトに笑われていたでしょう」
「ああ! 実はそのことについて、今日の放課後にお話するつもりだったんです。アヴリーヌ先輩が丁寧に教えてくださったおかげで、わたし、笑われなくなったんですよ。勉強も、アヴリーヌ先輩と殿下の教え方がとてもわかりやすいおかげで、最近では小テストでも良い点を取れるからか、バカにされることもなくなって」
教わり始めた最初は本当に酷かったのだ。
マナーも、まるでイノシシのように挨拶をかましていたのがいけなかったらしく、最初にそれを披露したときのアンヌ=マリーは顔を真っ赤にして怒鳴ってきた。
『淑女がなんてはしたない!! あなたは獣なの!? 殿下! なぜこれを見て何も教えて差し上げないのです!』
本当にあまりにもあんまりだったらしく、アンヌ=マリーの怒りは初日だけ参加したレイビスにも飛び火した。
『その猪突猛進なところが面白かったからな』
彼の答えにアンヌ=マリーが額を押さえて天井を仰いだのは言うまでもない。
レイビス曰く、自分は特に不快に感じていなかったため、それがクラスで孤立する一因だったとは思わなかったそうだ。
『信じられないわ! あなたのクラスの誰も何も教えずただ笑っていたというの!?』
それからは鬼のようなレッスンの日々だ。
歩き方が雑すぎて人とは思えないと言われたり、貴族名鑑を取り出してきて『貴族の名前を覚えるのもマナーよ』と言い、間違えるたびに罰として苦手なチーズを食べさせられたり――おかげで嫌いでも顔色を変えずに食べられるようになった――、手紙の書き方を教わっているときなんかは、練習として書くよう言われたのでアンヌ=マリーへの感謝を綴ったところ『誰が恋文を書けって言ったかしら!?』とまた顔を真っ赤にさせて怒られたり、とにかく怒られることが常だった。
一般科目の勉強も、アンヌ=マリーには怒鳴られることが多かった。
対してレイビスは、怒鳴ることはなかった。が、彼は彼で怖かった。というのも、彼の場合は無言で怒りのオーラを放ってくるからだ。特に同じ間違いをしたときは容赦がない。
『へぇ? おまえ、この間俺が教えたことを何も理解してないのに、理解したって嘘を吐いたのか?』
銀の瞳が細められた瞬間『あ、殺される』と思ったのは秘密である。あれは本気で死を覚悟した。
こんな感じで
「本当にお二人のおかげです! わたし、こんなに嚙まずに話せるのも、妹とトーマスおじさん以外ではほとんどないんです。アヴリーヌ先輩と殿下が、根気強くわたしの相手をしてくださったからです。本当に……っ本当に、嬉しくてっ」
涙の代わりに鼻水が出る。ズズッと洟をすすったら、なんとも言えないような目でアンヌ=マリーがこちらを見ていた。
「あなた、前から思ってたけど変な泣き方するわよね。というより、泣いてるの? それ」
「あー……えっと、どうなんでしょう? あはは……」
それは自分でもよくわからない。妹の最期を聞いて涙腺が決壊して以来、アリーチェの涙は一滴も流れ落ちていない。たぶんあのときに枯れたのだと思うけれど、それを伝えるつもりはなかった。
「まあ、どうでもいいけれど。その不細工な泣き顔を外で晒すことは許さなくてよ」
「はい!」
「あと中間試験であなたを笑ったクラスメイトより悪い成績を取ったら、承知しないわ。殿下とこのわたくしが教えているのだもの、当然よね?」
「は、はい!」
感動で声が震えた。アンヌ=マリーは言葉も態度もきつく、そのせいで人から敬遠されがちだということは、一緒にいるうちに知ったことだ。
けれど、アリーチェは彼女ほど面倒見のいい人はいないと思っている。厳しい優しさを持つ人だ。無知なアリーチェを笑うことなく色々と教えてくれたことがその全てを証明している。
だから、たまに耳にするアンヌ=マリーの悪評が、この頃のアリーチェには我慢するのが難しかった。
「よくって? アリーチェ。あなたは意外に頭だけはいいし、存外素直に人の言うことを聞けるわ。それを誇りに思いなさい。舐められたらやり返すのよ。黙ってたら相手をつけ上がらせるだけなんだから。これが貴族のやり方よ」
「わ、わかりました……!」
やり返す自信はちょっとないけれど。でも、アンヌ=マリーの言うことに間違いはないと断言できるほど、すでにアリーチェはアンヌ=マリーを信頼しきっている。
(殿下に感謝しなきゃ。アヴリーヌ先輩と出会わせてくれたこと)
そうして今日も昼休みが終わるまで勉強をし、放課後はレッスンを受けた。
自分にできることが増えるというのは、全ての自信に繋がっていく。
だから、順調にいっていると思っていたのだ。そのとおり順調にいっていた。
――アリーチェだけは。
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