虚構のシスイ 〜異世界に不法投棄されたおじさんが世界に名前を刻みます~

yagi

プロローグ

01 衝撃

 カラッとした空気が頬を撫でる。

 秋と冬の境界、どちらかといえば冬よりだろう。

 こんな時にはどっかの喫茶店にでも入ってコーヒーを嗜むと、さぞ気分がいいんだろう。

 けれど生憎、僕はそんな趣味はなかった。

 あったとしても、そんな気力は僕には残っていない。会社の外回りがようやく終わって、疲れ果てているのだ。体力がないってわけではない。十年以上やってきたんだから慣れているとも。

 ただ、そう……ただタイミングが悪かったのだ。 

 徹夜してエナジードリンクが染みた体に、疲れが蓄積しているだけなんだ。

 この不快感を表すなら、内臓が体の中で暴れまわっているような、気色の悪い浮遊感とでも言うべきだろうか。


「若くないって実感するよ、畜生」


 若い頃はこれくらい良くしていたんだ、全然へっちゃらだったんだ、というこの思考自体に若さがない。


「なに悟ったことを言ってるんですか、先輩。人生これからですよ!」


 隣にいるショートボブが似合う後輩、鈴香すずかちゃんは若さを体現したような爛漫らんまんな笑顔で励ますように僕の肩を叩いた。


「えー、僕もう三〇代だぜ? この年になったら人生なんてあっという間に過ぎちゃうもんなんだよ」

「それは先輩が何もしていないからです。もっと何かに没頭したり、新しいことに挑戦してみたら人生もっと充実しますよ。ちなみに私は一昨日からジムに通い始めました」

「やりたいことねえ……。あ、今僕家で寝たいかも」

「ふざけないでください。私に仕事が回ってきます」

「冷たッ! 塩対応じゃない?そこはせめてねぎらいの言葉をかけてくれるところなんじゃないのかい?」

「もうすぐ冬ですからね」

「季節によって対応が変わるかよ」

「先輩、歩くのが遅いですよ。まだ仕事残ってるんですから年齢を言い訳にしないでください」

「本当に冬になっている?!」

「あー予定思い出しちゃった。今日は帰ろっかな。先輩、後の仕事任せました」

「それはもう冬とか冷たいとかの話じゃないよ。悪魔の所業だよ!」

「ちょっと先輩、急に近づかないでください。加齢臭が移ります」

「お前、冬にかこつけて僕に悪口言いたいだけだろッ!!あと僕まだ加齢臭はしない!!」


 絶対にないとは言い切れなかったのが、どの言葉よりも僕を傷つけた。


「ところで先輩。私が先輩の後輩になってから何年経ちましたっけ?」

「五年だな。僕が三〇歳に来たからね」

「五年も経てばそれなりに頼りになる後輩キャラを確立できたと思うんですけど、どうですかね?」

「……いや、さっきの件で読み手からは、絡むと面倒くさい毒舌系後輩キャラを確立したばっかりだと思うぞ、お前」

「私の五年の努力は1005文字で解釈されちゃったんですか!?」

「そう、鈴香ちゃんのキャラは1005文字で格付けされちゃったわけ」


 キャラ付け、もとい人当たりっていうのは一瞬で決まるもんだ。

 否応なく理不尽に決まってしまうものだ。

 そう考えてみれば今の彼女の印象と、最初の印象は違っただろうか。

 ふと思い出してみる。


「先輩。これからよろしくお願いします」

「先輩、お疲れ様です。コーヒー淹れたのでどうぞ」

「先輩、何かお手伝いさせてください」


 全然違った。

 あえてもう一度言おう。

 全然違った。


「あの頃は良き後輩だったなあ」

「過去形にしないでください。現在進行形にして」


 「ぷんすかぷんすか」と効果音が聞こえそうに頬を膨らませるスズカちゃん。彼女をなだめるように言葉を付け足した。


「まあ、信頼関係が出来てるってことなんじゃないか。良いことだと思うよ、僕は。他の人にももっと崩して接しても良いともうよ」

「いえ、他の人は尊敬しているので大丈夫です」

「……なんか棘があるなあ。ああ、でも鈴香ちゃんの二つ上の先輩の上野さんともよく話してるじゃん?あの人年下にラフに接してもらうの大好きだから、今度同じテンションで話してみたら?」

「優しくしてもらってるから、よくしてもらってるから、必ずしも馴染めるとは限らないんですよ」


 普段明るい彼女らしくもない物言いに、僕は少し驚いた。

 そういう表情をあまり見たことがなかったからだ。


 馴染むとはそれほど難しいものなのだろうか。

 生まれてこの方、流れるように、いや流されるように生きてきた人間だ。

 運が良いことに、対人関係において悩んだことがない。

 いや、もしかしたら運が悪いのかもしれない。

 言い換えれば、悩むほど人と深く関わることがなかったとも言えてしまうのだから。


 自分は根本的にネガティブ思考だ。

 その影響で深い人間関係を出来るだけ避けてきたというのが原因としてあるのかもしれない。

 悲しくなることも、苦しくなることも、嬉しくなることも、楽しくなることも、疲れることだという事を知った。

 知ってしまった。

 それ以来、あらゆることに興味がなくなってしまった。

 そういうのは、指で摘まめるくらいで丁度良い。


 馴染む、というのを考える以前の問題だな、これは。

 だから僕は考えることを諦めた。

 諦めて、最近の若い子は苦労するんだな、と思考を停止した。


「冬なのに湿っぽくなりましたね」

「疲れてるんじゃないか? やっすい居酒屋でも奢ってやろうか」

「それは良いですね。馬刺し食べたいです!」

「良いだろう。その程度でも食べるがいい」

「『いくらでも』ではないんですね」

「馬刺しって割と高いから」


 そんな会話をしながら交差点を渡る。

 青信号を渡る。


 キキイイィィィイイイイイーーー!!


 思考をかき乱す摩擦音。

 トラックが鼓膜を突き破るようクラクションを鳴らして、こちらに爆走してくる。


 油断していた。

 当然のように、当たり前のように、青信号を盲目的に信用していた。

 だから、異変に気付くことに反応が遅れた。

 いや、気付けたからといって対応できたとは限らない。

 こちらに激突するまでにできるアクションなんて、いくらもない。

 けれど意外にも思考は冷静で、目の前の事象を頭が高速で処理していた。

 トラックに乗っている男は四、五〇代だろうか。体をうずくまる様にして苦しんでいる様子が見える。

 どうやらこちらには気付いていないようだ。

 このままでは、数秒と経たずに轢かれてしまう。

 けれど前に倒れこむように避ければなんとかなるだろう。

 こんなところで死にたいなんて、微塵も思えない。

 意地でも死にたくはない。



 それじゃあ、鈴香ちゃんはどうだろうか?



 彼女は状況を理解できていないだろう。

 僕の隣を歩く彼女は、僕の体に視界を遮られ、判断が遅れる。

 必然的に彼女は避けられない。

 彼女はどう思うだろうか。

 当然、死にたいなんて思っていないだろう。


 …………。


 ごめん、鈴香ちゃん。僕はちゃんとした大人ではないらしい。

 誰かを救うという事をするのは、心に余裕がある人間がすることだ。そこには善性なんてものはなく、打算や謀りが奔走する。

 僕にはそんな心の余裕なんてない。

 それに、自分の命を天秤にかけて誰かを救おうなんていうことは、到底できない人間だ。

 だから、本当にごめん。

 僕は車を避けるように、前に倒れこんだ。


 瞬間、悪寒が走った。

 それはいけない、そんなことは許されない、お前なんかよりもずっと彼女の方が価値がある。

 そうした思考が混線して真っ白になり、パニックを起こした。

 

 気づけば僕は彼女を突き飛ばしていた。


 彼女は軽く、少し離れた場所まで飛ばされる。

 あそこまで飛べば、轢かれることはないだろう。 

 そうして僕は、横断歩道の真ん中に、一人取り残されていた。


「は?」


 僕は声を上げていた。

 どうして僕は彼女を突き飛ばしているのだろう。

 こんなことをせずに一歩でも踏み込んでいれば、彼女を押さずに歩道に身を投げ出すように倒れていれば、僕は助かったかもしれない。

 なのに、どうして。

 どうして僕は彼女を押しているんだ?


 僕は後悔していた。

 後輩の鈴香ちゃんを助けたことに。

 酷いくらい、後悔していた。

 そして、そんな後悔をしている自分自身に、嫌悪感を感じてしまうのが、嫌で嫌で仕方がなかった。


 何もかもが中途半端だ。

 行動に対する責任も、人との関わりも、これまでの人生の何もかも。

 嫌悪感なんて感じるくらいなら、後悔なんてしなければ良かった。

 そうすれば、死に際くらい自分の行いを誇れただろうに。

 それとも、性格が本当に最低であれば嫌悪感を感じる事なんて、なかったのだろうか?


 加速した思考のトルクが正常に戻る。

 瞬間、強い衝撃が全身を襲う。

 この衝撃をなんといえば良いだろう? 大岩にひっぱたかれる、というのが一番近いのではないのだろうか。

 吹き飛ばされる最中、そんなことを考える。

 やがて地面に打ち付けられた僕の体は、「バキッ」なんて乾いた音が鳴るんだと覚悟したのだけど、聞こえてきたのはもっと粘着質で不快感を煽るような音だった。


 下半身の感覚がない。

 背中が逝ったのか、あるいはなくなってしまったのか。


 息ができない。

 衝撃で肺が強張っているのか、それとももう必要がないのか。


 目が見えない。

 目が閉じているのか、開いているのかも定かではない。


 全身が痛い。

 痛い。

 いたい。

 イタイ。


 脳が焼けるように、頭が眩しい程に白く、痛い。

 意識が遠のく中で、高い音が耳に響く。

 聞き慣れた高い音は、僕に駆け寄って泣きじゃくっている。

 泣かないでくれ、謝らないでくれ。

 謝られる資格なんて……泣いてもらう資格なんて僕にはない。

 君を救うことを後悔した僕なんかに涙を流すなんて、きっと水分の無駄と言ってもいい。

 だけど、だけれど……君が救えたのなら、あんまり悪く、ないのかもしれない。


 意識が暗い闇に落ちていく。

 自己が霧散していく瞬間まで、彼女の声が離れなかった。

 

 これが僕の最後の記録である。

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