第72話 悪魔の囁き

将軍足利義藤のもとで戦乱が終わりを告げようとしている京の街。

街は賑わいを取り戻しつつあり、行き交う人々の表情にも、明るさが見えるようになって来ていた。

そんな京の街の一角に幕府政所執事である伊勢貞孝の屋敷はある。

本来なら強大な権力を行使する伊勢家に、多くの陳情を行う人々が来るのだが、ここ数年は陳情にくる人もいなくなっていた。

「クソッ・・」

伊勢家の惣領でもある伊勢貞孝は不満を紛らわせるように酒を飲んでいた。

伊勢家は政所執事として幕府で財政や訴訟を一手に扱っており、財政を握っていたため政に対する影響力がとても大きな存在である。

だがそんな伊勢家の力を嫌った将軍足利義藤は政所の権力を縮小。

財政管理と官途奉行を摂津晴門せっつはるかどに任せる様になっていた。

官途奉行は全国の武家に官位を斡旋する窓口であり、官位を斡旋した武家からの莫大な献金を扱う奉行職であるため、官位の欲しい武家からの付け届けもかなりのものになる。

将軍足利義藤は、生野銀山を手に入れてたころから銀山や財政・銭が動くところから伊勢家を排除して、腹心とも言える摂津晴門に任せる様になっていた。

伊勢家を疎んじる動きは前将軍足利義晴から始まっており、現将軍足利義藤の幼少期の養育を伊勢家に任せなかったことからも明らかであった。

そもそも代々将軍家の嫡男は、赤子の時期から伊勢家が養育を行っており、そのため伊勢家の幕政に対する影響力は大きなものがある。

そんな伊勢家の過度な幕政への口出しと専横、その影響力を前将軍足利義晴が嫌ったことから始まっていた。

「父上。お酒が過ぎます。悔しいのはわかりますがここは堪えるしかないでしょう」

嫡男である伊勢貞良は父の愚痴にハラハラしていた。

もしも、うっかりとこの愚痴が世間に漏れ伝わり将軍の耳に届けば、まずいことになると考えていたからだ。

「儂は、誇りある伊勢家惣領だぞ。儂に対する上様の仕打ちは何だ。儂を何だと思っているのだ」

「ならば、いっそのこと幕府奉公衆を辞して、叔父上や祖父のように相模北条家に行きますか。粗略に扱われることは無いかと思います」

伊勢貞孝の父である伊勢貞辰、貞孝の兄で伊勢貞辰の次男である伊勢貞就いせさだなりは、前将軍足利義晴の時代に幕府の使者として相模に赴き、そのまま北条に仕える様になっていた。

「相模にいる北条はもともと伊勢家の支流だぞ。伊勢家惣領である儂が、奴に頭を下げろというのか。誇りある伊勢の名を捨て、鎌倉執権である北条家の名を勝手に使っている奴らだぞ」

「ですが、このままではますます難しい立場になっていきます。現状に不満があるなら相模に行くしか無いかと思います。それがお嫌ならば、このまま静かにしているしかないでしょう」

「儂をバカにしおって・・」

再び、酒を飲む伊勢貞孝。

「殿」

家臣から声がかかった。

「何だ」

「松永様が御目通りを願ってやってきております」

「松永?・・」

「三好長慶様配下の松永久秀様でございます」

「大和国を預かる松永久秀のことか」

「はい、その松永様でございます」

「ふん。儂を笑いにでもきたのか。まあいいだろう。通せ」

しばらくすると松永久秀が部屋に入ってきた。

松永久秀は、伊勢貞孝の前に座ると不敵な笑みを浮かべる。

「伊勢殿。かなり荒れておられる様ですな」

「儂を馬鹿にする為に来たのか」

「いえいえ、その様なつもりはございませんよ」

「なら何の為にここに来た」

「上様の伊勢殿に対する扱いは酷いですな。長年、将軍家を支えて来たのは他ならぬ伊勢殿でしょう」

「当たり前だ。我が伊勢家は代々将軍家嫡男の養育と幕府政所としての役割を全うして来ている。儂ら伊勢家を上回る貢献をして者はおらん」

「ならば、上様にその旨を訴えてみたら如何です」

「門前払いがオチだ」

「フフフ・・訴えるやり方も様々ございますよ」

「何が言いたい」

「歴史を振り返れば、歴代の将軍様に不満を持つ者たちは多くおりました。それぞれがその不満を、それぞれのやり方で訴えて来ております。ある者は書状にて訴え。ある者は直接面前で訴え。ある者は将軍様に御退位していただくように迫った者もいた様ですな」

伊勢貞孝の酒で酔っていた顔が真顔に変わる。

「松永!貴様儂に謀反せよと言うつもりか」

「伊勢殿。その様なことは言っておりませんよ。歴史を振り返ればさまざまなやり方をとるかた達がいたと申しただけ」

「だが、貴様の言い方は」

「伊勢家はこの日本の隅々に多くの分家・支流がおられます。中には関東を制覇せんとする者達もおりますな」

「だから、何が言いたい」

「これだけ多くの血縁者がいる伊勢家。その惣領たる伊勢貞孝殿なら打てる手立ては多くありましょう。いっその事、日本中の伊勢家血縁者を集めて、ご相談されるのも良き手立てかもしれませんぞ」

「余計なお世話だ。失せろ」

「おやおや、歓迎されておらぬようですので、早々に引き上げましょうか」

松永久秀は立ち上がり部屋を出て行こうとする。

「あ、そうそう言い忘れておりました」

「何だ」

「前将軍足利義晴様ですが、かなり体調が悪い様ですぞ」

「何」

「顔色は青く、全身が大きくむくみ、呼吸は常に苦しそうにゼーゼーと言っているとか。動くことも苦しそうだと聞いております」

「それがどうしたと言うのだ。将軍職はすでに義藤様が継いでおられる。幕政に影響は無い」

「上様はとても親思いと聞いております。もし、暴漢どもに義晴様が捕らわれたら一大事。その様なことになれば、上様は抵抗することもできないでしょうな。万が一に備え、伊勢殿がしっかりとお守りすれば問題無いでしょうな。それでは失礼する」

松永久秀はそれだけ言うと伊勢家の屋敷を出て行った。

「義晴様を人質にしろと言うのか・・・」

伊勢貞孝は他に聞こえぬほど小さな声で呟いていた。

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