第66話 将軍と甲斐の虎

武田晴信は、人生最大の敗北を味わっていた。

今までは連戦連勝で、欲しいものは確実に手に入れてきた。

そんな武田晴信が味わう大きな敗北である。

本来なら村上義清と戦う上田原の戦いで大敗を味わうのだが、将軍足利義藤の介入で上田原の戦いの前に、上田原を上回る大敗となっていた。

躑躅ヶ崎館の奥で一人考え込んでいる。

目の前には甲斐武田の家宝である御旗と楯無の鎧。

御旗は日の丸の旗。

楯無の鎧は、小桜韋威鎧兜大袖付と呼ばれている。

甲斐源氏の始祖である源新羅三郎義光から代々受け継いだ甲斐武田家の家宝。

家中の重要な決定は、御旗と楯無の鎧の前で行われる。

信濃諏訪郡を手に入れ、信濃佐久郡を手に入れ、自らの手腕に自信を深めていた。

いよいよ信濃守護小笠原を排除して、次に村上義清を排除すれば、信濃国は手に入れたも同じはずであった。

「なぜ、将軍様は軍勢を率いて信濃まで来たのだ。たとえ守護小笠原の頼みであっても、京から軍勢を率いて来ても何の利益もないだろうに、なぜ儂の邪魔をするのだ」

「晴信様」

御旗と楯無の鎧の前で考えこむ武田晴信のところに老臣の原虎胤がやってきた。

「虎胤か、飯富の容態はどうだ」

飯富虎昌は、殿を務め満身創痍になりながら甲斐に戻ると、そのまま気を失っていた。

「峠は越えたと思われます。飯富殿は豪の者ゆえ地獄の鬼どもも逃げ出したのでしょう。飯富虎昌殿は、殿を自ら務められ満身創痍になりながらも、役目を果たし生きて甲斐に戻ることができました。そんな男があの程度の傷で死ぬことはありません」

「そうか。それは良かった」

武田晴信は少しホッとした表情をした。

「晴信様、この先どうされます。諏訪にはまだ将軍様が居られます。これ以上の戦いは危険でございます。早期に和睦をして体制の立て直しを図る必要がございます」

「将軍様の動きは分かるか」

「将軍様とその軍勢はいまだに上原城に居られるようです」

「そうか」

再び武田晴信は考えこむ。

腕を組んで考えこみそのまま動かない。

そこに慌ただしく家臣がやってきた。

「晴信様、今川家の太原雪斎様がお見えです」

「雪斎殿だと、何のために・・ここに通せ」

しばらくすると僧侶の姿をした一人の男が入ってきた。

今川義元の師であり、今川家の軍事・内政の要である太原雪斎。

眼光は鋭く、油断のならない空気を纏っている。

そんな男がゆっくりと座る。

「晴信殿。お久しぶりでございます。お元気そうで何より」

太原雪斎の言葉にムッとした表情をする。

「ふん。信濃国でのことは知っている筈であろう。それは儂への当てつけか。相変わらずの生臭坊主よな」

「いえいえ、滅相もありません。それだけ言えるのであれば元気の証拠でしょう」

太原雪斎は武田晴信の言葉には、全く動ぜず口元に笑いを浮かべる。

「それで何のようだ。川で溺れかけた虎を棒で叩きにきたのか」

「そのようなつもりはございません。ただ・・・和睦を勧めに参りました」

「ほお、和睦か」

「甲斐源氏武田家の存続を望むならば和睦しかございません」

「条件は」

「将軍足利義藤様の言い分を全て丸呑みなさる事ですな」

「何だと、それでは無条件で降伏することと同じではないか」

「無理にとはもうしません。ですがそうなると、幕府御敵・朝敵とされ近隣の全ての大名たちから攻められ、甲斐源氏は終わりとなります。よろしいのですか」

「今川家も敵に回ると言うのか」

「そもそも今川家は足利一門、つまり将軍家に連なる家でございます。いわば将軍を補佐し支える役目。そんな今川家が将軍家に弓引くことはできません。武田家は甲斐源氏の家。源氏の頭領であり征夷大将軍である足利義藤様に弓引くおつもりか」

太原雪斎の言葉に武田晴信の表情に厳しさが増す。

「武田殿。将軍足利義藤様は歴代将軍の中でも圧倒的な兵力をお持ちです。10万を超える兵力をたやすく集めてみせることでしょう。一度や二度勝てたとしても、そのあとは確実に負けます。それでも戦うと言われるのですかな」

「戦ってみなければわからんだろう」

「戦うのであれば止めませんが、そうなると、数年前に武田殿が信濃佐久郡で笠原殿に行った仕打ちと、同じことをやられることになりますぞ」

武田晴信は、数年前に信濃国衆や領民に対する見せしめのため、佐久郡で最後まで抵抗した笠原一族に対して残虐な仕打ちをした。

まず、関東管領上杉憲政が派遣した援軍三千を小田井原で殲滅。

その三千の首を、全て笠原一族の立てこもる志賀城前の城門前に並べた。

降伏した笠原一族と家臣たちの男は全て殺し、女子供は全て奴隷として売り払っていた。

降伏した者達に対する仕打ちのあまりの惨さに、佐久郡の領民どころか武田晴信の家臣達ですら恐怖を覚えたほどであった。

「雪斎殿。条件の詳細は」

「一つ目は、信濃国から完全に手を引く。

二つ目は、甲斐国以外の国へ将軍家の許可なく戦を仕掛けることを禁止。

三つ目は、武田晴信殿は隠居して、その身柄は京にて将軍家が預かる。

以上の三つになります。上様は一切の妥協をされるつもりはないようです。既に後詰めとなる軍勢が続々と到着しているようでございますから、速やかに決断なされませ。戦うのか、従うのか。戦うのであれば、甲斐国へ通じる全ての峠と街道から10万をはるかに超える軍勢が甲斐国に入ることになりますな、戦えるのですか」

唇を噛み締め悔しそうな表情をする。

しばらく黙り込んだ後、ゆっくりと口を開いた。

「分かった・・従おう」

その言葉を聞きホッとした表情をする太原雪斎。

「懸命なるご決断に感謝いたします」

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