第4話
受講室を出たものの行き場がなかったため、私はトイレの個室へと籠もった。
便座へと腰をかけ、乱れた感情を深呼吸で落ち着かせる。「私はなんてことを言ってしまったのだろう」と冷静になっていくにつれて後悔し始める。
自分の不甲斐なさを誠のせいにして、挙げ句の果てには『恋人にならなければ良かった』と言ってしまった。もし、私が誠にそんなことを言われたら、立ち直れないくらいショックを受けていたことだろう。それを彼に言ってしまうなんて、私は愚かな人間だ。
『成績の不安』と『誠との関係性の不安』が同時に押し寄せてくる。
ただでさえ大きな負の感情が、その強大さをさらに肥大させて押し寄せてくる。関係を拗らせている場合じゃないのに、自分の行いで自分の首を締めてしまうとは情けない。
本当に私という人間はつくづく馬鹿だ。頑固すぎるが故になにもかも失ってしまう。いっそのことこの個室に閉じ込められてもう2度と外へ出られないようになってしまえば良い。そうなれば、私も他の人たちもみんなハッピーだろう。
こんな人手なしの私に存在価値はない。
「さっきの凄かったね。受講室全体が凍りついてたよ」
トイレのドアが開く音と一緒に女子生徒の声が聞こえてくる。
個室に入る様子はなく、おそらく小休憩のつもりで身だしなみを整えにきたのだろう。
「受講室を出る前に悠凪先生の様子を見たんだけどさ、取り繕っているように見えて相当取り乱してたね。そりゃ、自分の彼女にあんなこと言われたら凹むよね」
誠が吹聴したのか私たちの関係は他の生徒たちにも知れ渡っているようだ。私に対する誠の親しい話し方とか、私が座っているテーブルの席に誠が腰掛けたことから、私たちの関係について質問されたんだろう。「地獄の受験生活の唯一の癒し」と言っている人もいるくらい誠は女性人気が高いのだ。
「可愛そうだよね。せっかく彼女のために大学を休学したのにね」
彼女たちが話す内容に耳を疑った。
自分の存在を消すように息を潜め、話に耳を傾ける。
「ついてないよね。一緒にキャンパスライフを送りたいから、休学して足並み揃えようとしたのに、その前に関係が崩れるなんて」
「彼女思いの良い先生だよね。それにさ、彼女が行きたかった海外旅行に合格記念として行かせるために今はお金貯めているんでしょ。最高じゃん」
「あと格好しいしね」
「まったくだよ。あれにはもったいない男よね。もし、これで別れたら私がもらっちゃお」
「むりむり、やめときな」
再びドアの開く音が聞こえて彼女たちの声が遠ざかっていく。小休憩を終えて勉強に戻ったみたいだ。私はしばし呼吸するのを忘れており、おでこに手を当てながら大きく息を吸った。
まさか誠がそんなことをしていたなんて。でも、よくよく考えてみれば辻褄が合う。
平日にも関わらず開校時間から居たことや夏休みはただただバイトすると言っていたこと。あれはすべて私を海外旅行に連れていくためだったのか。
誠の思いに気づかないまま、彼を罵倒してしまった。私は本当に救いようのない女だ。
何度も何度も両手で顔面を叩く。愚かな自分とおさらばして、目の前にある問題に目を向けよう。ここで真面目にならなくてどうする。
先ほど大きく息を吸ったように、今度は大きく息を吐く。
「よしっ!」と気合いを入れるために小さく呟く。スマホを手に取って時間を確認。人がいないことを音で確認してからトイレを後にした。
****
「クシュンッ!」
秋も半ばとなり、半袖では過ごしにくいほど寒さが肌に染みる。
私は予備校近くの壁に背中を預けながら、誠が来るのを静かに待っていた。
結局、あの後戻ることはできなかった。誰かに見られている中で誠と会うのは憚られたのだ。変なプライドが邪魔して素直になれないのが嫌だった。だから大事な話は2人きりでしようと思った。
荷物は受講室に置いてきたままだ。今日は手ぶらで帰って明日取りに行くことに決めた。 幸いスマホは持ってきていたので、閉校時間まで予備校専用のアプリにログインして英単語テストやリスニングテストを受講した。
スマホで受講していると右上に掲載されたデジタル時計が閉校時間を告げる。
しばらくすると続々と生徒たちが校舎から出てきた。私は気づかれないように角の方で身を縮ませる。みんな友達と喋ったり、イヤホンやヘッドホンで音楽を聞いたりしているため私の存在に気づくことなく素通りしていった。
良くも悪くも、人は私が思っている以上に私のことに興味がないのだ。
チューターは片付けや見回りなどがあるので、出て来るまでにはまだまだ時間がかかるだろう。私は誠が来るまでの間、どのように彼に接しようかと頭を働かせた。
「香恋……」
その時は案外早く訪れた。
ボソッと私の名前を呼ぶ聴き慣れた声。儚い小さな声にも関わらず、私の耳には確かに彼が私の名前を呼ぶのが聞こえた。一種のカクテルパーティ効果というやつだ。
「よっす」
体に力を入れて立ち上がる。長時間しゃがんでいたからか足が微かに痺れていた。
誠は私を見たきり動かない。代わりに私が誠へと歩んでいった。
「それ……」
ふと彼の脇に目を向けると見慣れたバッグが目に映る。私の鞄だ。
「本当は帰りに香恋の家に届けようと思ったんだけど」
誠は私の視線に気づくとバッグを肩から外し、私へと差し出した。受け取り、中を確認すると外に出していた参考書等が綺麗に並べられている。その中には面談の際に使用した成績表があった。
「ありがとう。それから……酷いこと言ってごめん」
自然と謝ることができた。馬鹿みたいに溢れ出した激情が今はすっかりと寝静まっている。きっと誠の優しさに触れることができたからだろう。
誠はハッとした表情で私の顔を覗く。謝ったことに対して心底驚いている様子だ。
「一時の感情の起伏で誠をたくさん傷つけたと思う。本当にごめんなさい」
気にすることなく言葉を続け、深々と頭を下げた。
「ふっ、はははっ。まさか香恋が謝るなんて。珍しいね」
緊張が解れたかのように誠は息を吐いた。顔を上げると彼の表情が和らいでいるのが見えた。目元が垂れ、いつもの誠の笑みが伺える。
「私だって、自分が悪いと思った時くらいは謝るよ。成績が落ちて焦ったとはいえ、罵詈雑言を口走ったのはいけなかったと後悔したから」
「確かにかなりショックだったな。でも、香恋の気持ちを考えれば仕方ないことだと思った。それでも流石に『恋人にならなければ良かった』は効いたけどね」
「本当にごめんなさい。あんなこと言うつもりはなかったの。誠と恋人になって良かったことはたくさんある。ただ……」
私はそこで口を噤んだ。
「成績開示のこと?」
誠は私が言おうとしたことを促すように心に押し留めた言葉を口にする。
「よく分かったね」
「それくらいしかないと思ってね。香恋があんな重い言葉を口にするってことはきっと何かを見て考えてしまったんだろうと思って」
「夏の初めに志望校の成績開示が届いたんだ。私の点数は、ホームページに掲載されていた去年の合格最低点と誤差だった。だから誠がもし私と同じ大学を志望しなかったら合格できたんじゃないかって思ったんだ。本当に最低な人間だよね。自分の不甲斐なさを人のせいにしてさ」
「そんなことないよ。予備校での香恋の様子を見ていれば必死さは嫌でも伝わってくる。そんなところに俺みたいな剽軽物がやってきて、合格したら怒るのも無理はないよ」
「誠……なんかその言い方ムカつく」
「ええー。せっかくフォローしたのに!」
「はははっ。うそうそ。一緒に帰ろうか? 誠は自転車だったっけ?」
「いや、歩き」
互いの気持ちが晴れたことで私たちは一緒の帰路を歩んでいく。
この時間は酒につぶれた人たちの姿がちらほら見える。イルミネーションはまだ点灯していないが、点灯に向けて着々と準備が進められていた。
「ねえ、誠。ありがとうね」
「いきなりどうしたの?」
「いや、実はお手洗いで盗み聞きしちゃってさ。学校休学してるんだってね」
「あぁ……うん。まさかそんなところでバレちゃうなんてね」
「他の生徒に話すからいけないんだよ。それに海外旅行の話も」
「えっ! そんなことまで漏れてたの。やっぱり、話すんじゃなかったなー」
「噂はすぐに広まるから気をつけないとダメだよ。でも、私としては嬉しい限りだよ。本当にありがとう。私さ、誠のためにも絶対に合格する」
「うん。期待してる。香恋ならできるさ。合格ギリギリってことはいつもの調子でいけば絶対にできるよ」
誠はそう言って私に向けて拳を作る。
私は改めて彼に誓いを立てるように彼の握った拳に自分の拳を合わせた。
****
次に誠が出勤した日、私たちはすぐに面談を行った。
私たちを遮るテーブルの上には前に使った模試の結果が置かれている。
「この前言ったとおり、前回の模試では結果の残せなかった分野が今回の模試では良い成績を残せている。確実に苦手なところは消せてるよ」
「でも、苦手を潰せても他の部分で取りこぼしが出ちゃう。それをどう防ぐかだね」
「ただ、去年の結果も交えて、取りこぼした分野について追っていくとその前に良い結果を残せなかったのは1年以上前になるんだ」
「つまり、この調子で克服し続ければ、いずれは満遍なく取れるようになると言うことだね」
「あくまで可能性が高いという話だけど、信じてみる価値はあると思う」
「そこは私の力量次第だね。傾向が見えているなら、予め対策を取ることができる」
去年の頭から成績の悪い分野についての問題を解いて、躓いたところを復習すれば次の模試までには良い成績を残せるようになっているはずだ。あとは私がどれだけ集中して取り組むことができるか。
「ありがとう。自分の傾向が知れただけで有益だった。あとは頑張るのみ」
「応援してるよ。それからこれ」
誠は隣に置かれた自分の鞄に手を伸ばすと中からリングケースを取り出した。蓋を開けて私の前に差し出す。見ると、紺色の珠が結ばれた腕輪が入っていた。
「1ヶ月以上早いけど、誕生日プレゼントを渡しておこうと思って。これは『タンザナイト』の腕輪なんだ。正しい判断力を与えてくれて、落ち着きと思慮深い思考で成功に導いてくれるらしい。香恋の誕生日である12月の誕生石だから効果は高いと思う」
「こんなところで渡さなくていいよ。なんか恥ずかしい」
私はチラチラと周りを見る。休憩している生徒や先生は不思議な様子で私たちを見ていた。それもそのはず。あんな騒動があって、数日後にはイチャイチャしているのだ。「一体何があったのだろうか」と思うのは当たり前のこと。
「ほらほら、これつけて落ち着いて」
「こんなところで効果を出させるな!」
そうは言いつつも、嬉しくないわけがない。
私はケースの中に手を差し伸べると、腕輪を取り、利き手とは逆の腕につけた。光り輝く紺色の珠。思っていたより軽く、つけていてもあまり気にはならない。
「ありがとう。絶対に成功させるから見ていてね」
「今度こそ絶対に合格しよう」
一つの不安が払拭されたことで、心の器に空きができた。落ち着きを取り戻し、私は再び受験に専念した。
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