第四章 安寧の続き (15)~(19)
15)学園生活
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「いってきまーす」
玄関を出て、春風を連れて歩き出す。羽を休めていた鳥が青空に飛び立っていく。思わず笑みが溢れる。今日も平和だなぁ。勢いをつけて、通学路を走り出す。これじゃあ、ちょっと小学生っぽい動きかな。
曲がり角に駆け出す。人影が突然現れて、派手にぶつかる。突然のことで、後ろにはね飛ばされて地面に手をついてしまった。
「いててて……。大丈夫、ですか?」
背の高い男性が動じずに立っていた。僕と同じ高校の制服を着ている。自信に満ち溢れた表情で、見下ろしてくる冷たい感じの視線が格好よかった。
「あ? 前くらい見ろや」
かすれた声もまた渋くて、改めて見いってしまう。二年前に居なくなってしまった兄を思い出す。あの人もこんな目をしていた。あまり多くを語らない人だったから、話すこともほとんどなかった。
「何ガンくれてんだよ。……ケッ、ガキが」
「が、がきじゃないです! こう見えても高校生です」
歩いていこうとした背中に力一杯言い返した。一度だけ振り返る。
「見りゃ分かる」
その人との最初の出会いが無性に運命的な気がして、僕の高校生活は波乱の幕開けを予感させていた。
出会いの季節。新しいクラスメイトは優しい人ばかりで安心した。特に、男の子から親切にされることが多いのは中学校から変わりがない。女の子の友達も多いけれど、何か違う気がするんだ。
授業の合間の休み時間のこと。廊下で一人、外を眺めていた。朝に会った人のことが忘れられない。何年生なんだろう。たくましい顔立ちからして上級生だとは思うけど。そんな自分に小さな溜め息が出た。どうして意識しちゃってるんだろ。
「リーアちゃん。いつものあれ、やってよ」
歩いてきたのは、同じクラスの哀此(かなし)くん。積極的に話し掛けてくる僕の幼馴染みだ。もう十年来の付き合いになる。でも、僕は彼にそれを要求されるのが嫌で仕方ない。やったら、決まった反応をして、恥ずかしいことになる。それに、なんだか怖い。
「やだよ。哀此くん、抱き付いてくるんだもん」
「いいじゃんか。男同士、何が減るもんでもないだろ」
腕っぷしの強そうなあの人ならともかく、哀此くんはインドア派であんまり好みの男性とは言い難かった。友人としての接触なら嫌じゃないけれど、時々「それっぽい」態度で迫ってくるから、適度に突き放さないといけない。
「男でも嫌なの。哀此くん、そんなんじゃいつまで経ってもカノジョできないよ?」
能面のような顔が向けられる。それどころか一切の動きが停止している。そのまま何も言わないままきびすを返して、教室に入っていく彼の背中が遠ざかっていく。
言い過ぎちゃったかな……。
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予鈴がなり、急ぎ足で教室に戻る。後ろ側の出入り口付近の席に着いている女子が話し掛けてくる。
「梳哭くんってさ、なんかかわいいよね。空を眺めてる姿も絵になるっていうか。ウフフフフ」
「ちょっ、それどういう意味!? 変なこと言わないでよ」
周りの人はそうやって僕をよく冷やかすけれど、居心地はわるくない。だって、こんなに穏やかな時間をみんなで過ごせるのだから。学校で勉強して、お昼ご飯を食べて、運動もしたり、たくさんお話をしたり、楽しくて笑顔になる。いい人ばかりで本当によかった。
放課後になると、クラスメイトたちから遊びに誘われた。数日しか経っていないのに、もうすっかり打ち解けてた。カラオケやレストランに立ち寄るのもおもしろそう。でも、辞退して彼の方に向き直る。
親友でもある哀此くんは僕と違って人見知りで、新しいクラスに馴染めてなくて、ひとりぼっちになることが多い。僕には解っている。彼がどうして、周りの人と関わりたがらないのかを。
「哀此くん、一緒に帰ろ。どっか寄ってく?」
こちらに顔を見せずに、鞄に教科書を詰め込んでいる。すごく重たそう。僕の鞄は彼ほど多くの物が入っていない。それに、そんなに入れたら持ち上がらない。
何も言わないまま歩き始める。そんな彼の後ろについていく。爽やかな刈り上げで首もとの線がきれい。哀此くんのまじめなところは好きだし、他の人にない個性があるのも知ってる。だけど、彼は時々難しくなる。そうなってしまうと、どう声をかけたらいいか解らない。余計なことは言わずにいる。
下校途中、学校を出てから、まっすぐ行った街の奥で何か破裂したような大きな音が鳴り響いた。煙を出していたのは管理ビルだ。中学生の時に社会科で、僕たちの暮らしが安定するように調整する役割のある建物だと習った。
それを機に走り出した彼の後ろについていく。そのペースが速くて置いていかれそうになる。息が苦しくなってきて、もう大分先に行ってしまった人の姿が小さい。まだ休まらない呼吸をしながら歩いて、ようやくのところでひと息ついて再び合流する。立ち入り禁止のテープで囲われた現場にはやじ馬が集まっていた。
「哀此くん?」
「おい。あれ、見てみろよ」
指で示された方を見上げる。ガラス張りの窓に人が立っている。瞬きをしたら、そこにはもう居なかった。既視感ある男性の姿。もう何年か前のことになるけれど、兄を助けてくれた人に、似ている。
「ミツハル、さん?」
つぶやいて、その直後に肩が痛いくらいに掴まれて揺らされる。
「さっきの影が何者なのか、知ってるのか?」
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「知ってるってほどの人じゃないよ。人違いかもしれないし」
会話のきっかけができて、哀此くんを見据える。寂しそうな目をしていることが多い彼だけど、異常事態を前にして普段よりも緊迫感を含んだ輝きに満ちている。彼の基本的な表情はマジメさんな印象を与える。それに近い。付き合いの長い僕だから、解ることもある。
「ごめんね。僕、哀此くんにひどいこと言っちゃってさ」
「ひどいこと? なんだっけ」
僕が一から説明をしていくと、やじ馬の列を観察しながら話を聞いていた。立ち入り禁止のまま、無人ロボットが繰り返し、近付かないようにとアナウンスをしている。あろうことか、哀此くんは出入り口になる場所を熱心に探している。
復旧作業が進んでいくと、人だかりが減り始めてきた。おもしろいものはなさそう。哀此くんは最後まで建物に侵入しそうな様子を見せていたけれど、やっぱり他の人たちと同じように来た道を歩いていく。
二人での下校を再開する。彼は時々後ろを振り返って、管理ビルを気にしている。僕の目から見てもおかしなところはなかった。あの爆発は一体、なんだったんだろう。
「裡娃。日常が突如として一変するようなことが起きたらどうする?」
神妙な顔をして問い掛けられた。こういう日常の外の事を話す時、哀此くんはいつにも増していきいきしている。危ない事を自ら望んでいるようで不安があおられる。
「とにかく、危ない所には居たくない。哀此くんも一人でどっか行っちゃわないでね。心配になるから」
「わるいな。俺、この世界がぶっ壊れちまえばいいって思うのさ」
その穏やかじゃない発言に僕は嫌いな何かを見る時のひどい顔をしていたと思う。哀此くんの思想を問い詰めるよりも、何か助けを必要としているのなら、いち早く救い出してあげなくちゃ取り返しが着かなくなる。
歩み出て、彼の手をやさしく握る。
「ねえ、哀此くん。僕にできることならなんでもするから。一人で悩まないで」
見つめ合っていた。一〇秒以上はそうしていた。どんな返事が来るのか、胸の鼓動が高鳴るのを実感しながら待った。すると、彼の口元が動く。
「お前が女だったら、俺と付き合ってくれたか」
複雑な気持ちだった。親友として哀此くんのことは好きだけれど、恋愛感情を挟み込んで意識したことがなかった。男なのに女の子扱いされるのは嫌だし、自分から女になろうなんて考えたこともなかった。
4/4
女の子の服を着ていたのは小さい頃からの名残だし、僕の意志じゃない。でも、男らしくない自覚はある。実力で何かをするよりはみんなに助けてもらうことが多くて、何かを一人でやろうとすると失敗する。男の子がそれじゃあ、格好わるい。僕はお兄ちゃんみたいなできる男になれたら、って思い描いていた。
でも、女の子だったら、そこまで男らしさにこだわってなかったのかな。
「哀此くんは大切なお友達。その、えっちなことされたら、もう口利かない」
「フッ。俺がそんなことするふうに見えるのかい」
見えはしない。いつも僕の味方をしてくれるし、ケンカしてもすぐ仲直りしちゃうくらいお互いを分かってる。でも、怖い。彼に近付きすぎてしまうと、友達じゃ収まらなくなってしまうんじゃないかって。
「うーん。僕たち、まだ子供だもん。我慢、できないでしょ?」
「ああ。裡娃って、女子よりかわいい顔してるもん。その気があるんなら、俺はお前と付き合えるぜ」
その目は嘘偽りなくまっすぐに僕を見つめている。どうして、こんなに胸がドキドキしているんだろう。そんなんじゃないのに。顔が熱い。下を向いてごまかす。
無言のまま立ち尽くす。しばらくして、肩に手が触れて、反射的にびくってなってしまう。
「わりい。嫌だよな。『かわいい』なんて言われて男に意識されるのは」
その声が素っ気なく耳を通る。
「嫌じゃ、ない」
僕は前を向いて、背中を向けて立っている同級生に飛び付く。背骨や筋肉でごつごつしているのに、触れていると安らぐ。哀此くんの匂い。懐かしい気持ち。
「付き合ってはあげられないけど、ぎゅってするくらいなら、いいよ」
「それマジ?」
一〇センチ以上は背の高い彼がすぐに振り向いて僕の方を見る。自分で言い出しておきながら、しどろもどろになる。無言でうなずく。すると、哀此くんは一歩近付いて、抱き付いてくる。
何かを確かめるような、苦しいくらいの強い抱擁。きっと寂しかったんだ。頭をなでて慰めてあげる。体を密着させたまま時間が流れていく。…………長い。
「やっぱりぎゅーは二〇秒まで。今日はもうダメ!」
身をよじらせて、なんとか抜け出す。僕、余計なことをしてしまったのかもしれない。不安げに彼の様子をうかがう。その表情は普段の哀此くんのものだった。
「ありがとな。お前、本当にいいやつだ。んじゃ、帰ろうぜ」
きっと、まだ寂しい気持ちを取り除いてあげられていない。納得していたら女の子である必要はないのかもしれないけど、できれば親友には普通の恋をしてほしいと願う。その方が男の子としても、ずっと幸せになれると思うから。
16)先輩
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あれから哀此くんは定期的に僕を抱き締める。彼にカノジョでもできたら、この役目にも終わりが来る。それまでは複雑でも受け入れてあげなくちゃ。でも、どうして僕はそこまでしてしまうんだろう。
朝、この日も制服に身を包んで歩き出している。玄関の姿見にお世辞にも男っぽいとは言えない体が写る。あんまり考えたくないのだが、これに女子の制服を着たら、体型も顔付きも違和感がないのだろうか。同級生にいじられそうでなんか嫌だな……。
いつもの時間に登校していると、決まってあの人に遭遇する。自信に満ちた勇ましい顔を阻害せず、表情のはっきりとした髪型がトゲトゲしてる。彼の後ろを歩く。身長が高いから歩くのが速い。ついていくのも一苦労、でも目的地が同じだけで、追い掛けているつもりはない。
走ってその背中にたどり着く。息を切らして足元を向くと彼の足は止まっていた。顔を上げると、突然感じた視線に驚いた。
「なんでおれについてくんだよ」
「べっ、別についてきてるわけじゃないです。それに、同じ学校じゃないですか! そっちに用があるんです!」
ついムキになって言い返してしまう。全然そんなつもりないのに。彼は鋭い眼光でにらんでくると、何も言い返さず前に向き直って歩き出す。その迫力にひるみはしたものの、距離が空きすぎないように、あの人の後ろを歩いていく。
ちょっと怖かったけど、話せたのがうれしかった。
この日も授業が終わり、いつもの放課後。
高校に入って雰囲気の変わった友達は何人か居るけれど、それは僕にも言えることだ。まず、女の子の服を着なくなったのもそうだけど、髪に着けていたヘアピンの数を控えめにしたりメイクを男の子っぽく(?)したりするようにした。その割には、周囲からはそんなに変わったような反応が返ってきてない気がする。
この前、お誘いを断ってしまったお友達の埋め合わせをしたかったけれど、その人が部活動に体験入部するらしくて、運悪く時間が合わなかった。哀此くんとは一緒に帰らなくても大丈夫そうだし(仲良くなりすぎちゃうのも考えものだ)。
クラスメイトのだれかがいつも誘ってくれるから一人で帰ることはほとんどないけれど、一人になりたい気分の時もある。……やだ、こういうの、なんか男の子っぽくてカッコいいかも。
学校鞄を肩に提げて、教室を出ていく。せっかくだから、このままだれにも話し掛けられないように気を付け(?)ながら、一人で帰ってみよう。
学校を出るまでは、取り合えず無事に一人で来た。そこから家までの道を歩き始める。遠くはないけど、ある程度の距離は歩く。それがあるから、あの人とその分一緒に居られるって言うのもあるけれど。
朝のことを思い出すと、口元が緩んでしまう。
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ぼんやりと帰路をゆくと、前の方から若い人たちが歩いてくる。これから出掛けるところなのかな。顔の感じから二〇歳くらいの、年上っぽい雰囲気がする。「こんにちは」と声を掛けて、横を擦れ違う。
「おう、待てや。少年」
立ち止まって応じる。ピアスをしてる。なんかちょっと、あか抜けた身なりの男性が僕に手招きをしていた。警戒心がそれを拒もうとしていたけれど、その先を読み解くと、無下にするのも悪手だと告げる。
僕の背が低いのもあるかもしれないけれど、そこに居る人たちはみんな背が高くて、近付くと圧倒される。
「ホモかw。ホモなのかwww」
いきなりそんなことを言われて、つい眉根が寄ってしまう。その反応は案の定、好感とは正反対の印象を与えてしまったみたいで、話し掛けてきた彼らが詰め寄ってくる。その表情はどういうわけか薄笑いを浮かべている。
すると、胸ぐらを掴まれる。勢い余って、かかとが上がりそうになる。
「ウヒョ、軽っ」
今度は両脇に手を差し込まれて、体ごと持ち上げられてしまう。一同の笑いが巻き起こる。その仕打ちに、涙が出そうになる。
こういう時、なんで何もできなくなってしまうんだろう。口を開けて何かを言い返すこともできない。とにかく、次はその人たちに何をされるのか、想像するのが怖かった。
「おほっ。なにこいつ、ほんとに男かよwww、確かめてやろうぜw」
「!!」
ズボンのベルトに手が伸ばされる。やめて。その言葉すら出てきそうにない。
目をつぶって、唇を噛む。もうだめ。僕、恥ずかしい思いをしなくちゃならないんだ。こうなったら覚悟を決めて、体を差し出す。そのつもりで目を開いていくと、彼らの意識は違う方に向けられていた。
数名居た男性のうち、二人が地面にうずくまっている。驚いた。何よりも、その人がそこに立っていることが思いも寄らなかった。
「なんだこいつ、強え」
見る間に次々と倒れていく男の人たち。その分だけ、振るわれる拳が鮮やかに叩き込まれていく。その姿が本当に勇敢で、気高くて、惚れ惚れするくらいにすごかった。
撃退された人たちは残らず立ち去っていく。なんだかちょっとかわいそうな気がしたけれど、下着を見られずに済んだ安堵(あんど)の方が大きかった。
「あ、ああ、あり、がとう……ご、ござ」
声が震えてしまう。まだ気持ちが落ち着いてない。
暴漢から助けてくれた恩人はケンカの後とは思えないくらいの平静を保って、まっすぐに僕を見ている。それはほんの一瞬で、そのまま何も言わずに歩いていく。行ってしまう。何か言わなきゃ。せめて、一言でも。
「あ、あの。好き、です!」
3/3
間違った! でも、間違ってもいないのかも。だけど、明らかに飛躍した。いくら、さっきの姿に心を奪われたからって、これはいきなり過ぎる。
肩幅のある体格のよい後ろ姿が止まる。横顔がちらりとこちらに向けられる。
「なんでそうなんだよ。ケッ」
深呼吸をして、どうにか立て直す。もう大丈夫。この人が近くに居ると、不安も和らいでいった。
「お強いんですね。びっくりしちゃいました」
「は? お前、腕っぷしで野郎を好きになるのか?」
話に乗ってきた……!
「そ、そうじゃなくて。優しいところも、カッコいいと、思います!」
「あっそ」
心底興味なさそうなのがちょっと腹立つけど、おかげですっかり元通りになった。歩いていく人の隣まで駆け寄っていく。そちらを見上げる。彼の視線は前を向いたままだ。
「お名前を、教えてください! 僕は梳哭裡娃といいます。一年生です」
「馴れ馴れしいな。オマエ」
睨まれちゃった。負けじと見つめ返す。この人は怖くない。本当は優しくていい人だって判ったから。彼は溜め息をしたものの、顔を逸らして普段の目をしていた。
「家蔵。家蔵磊乃(かぐららいの)。三年」
僕の方を見ずに言う。屈強な体の彼らしい名前だ。カグラ先輩か。これからはそう呼ぶことができるんだ。運が良ければ、学校でも会えるかな。
何かを忘れていた気がして、それに思い当たった僕は前髪に着けていたヘアピンを一つ外して、手に握り込む。
「こ、これを見てください」
彼が僕の手のひらに反応する。それは僕が愛用している物の中でも、レアな部類に入る、ニコニコうさちゃんのお顔をあしらったキラキラヘアピンだった。これと同じ物はもう売っていないし、この一つしか持ってない。
「……なんだ、それ」
「さっきのお礼です。受け取ってください」
ヘアピンを着けなさそうな人だけれど、意外にも手に取ってうさちゃんをじっくり観察している。
「うさちゃん、かわいいでしょう」
「フン」
プレゼントをポケットに仕舞い込んだのを見届けて、直感した。この人はヘアピンが好き(?)なんだって。髪に着けていた残りのヘアピンもすべて取り除いて差し出してみたけれど、先輩は受け取らなかった。
助けてもらった上、カグラ先輩と一緒に帰れたのはすごくうれしくて、とてもよい一日になった。
17)女の子らしさ
1/3
もうすぐ五月になる。気温が暖かくなってくるのを肌で感じ、笑顔になる。夏が来たら浴衣を着て、どこかに行きたい。花火もいいな。海も見たい。
学校が終わると、友達の誘いを断るようになった。「先約が居る」から。と、いうことにしてある。校舎を出て、真っ先に向かうのは校門前。そこに居れば、会える人が居る。部活動に入っていない生徒たちが通りすぎていく。クラスメイトが通ると、あいさつを交わす。
やがて、下校する人が疎らになる。しばらく待っていたら、近付いてくる足音が聞こえてきて、振り返る。
「まだ居たのか。うち、来るか?」
その男子は三年生ではなく、クラスメイトだった。足音で薄々分かっていたけれど、やっぱり少し物寂しい。この気持ちを悟られないようにしながら、精一杯の笑顔に寄せた表情をして頷いた。
先輩とはまた明日、会えるよね。きっと。
校門前に立っていた僕を誘った哀此くんは帰る時間が他の子たちに比べてやや遅い。人混みを避けて帰りたいという内向的な彼らしい。教室では他の人と接している姿を見たことはないし、小学校の時も中学校の時もそうだった。できれば、もっと積極的に関わっていって欲しいのに、僕との付き合いに片寄りがちみたい。
帰り道の通学路とは異なる道順を通って、哀此くんのおうちを目指す。高校生になってから行くのは初めてだった。中学は少し遠い所にあったから、放課後にゆっくり遊ぶことが多くなかった。休日はお互い、部活動に入っていた。僕は吹奏楽部で、哀此くんは文芸部だった。次第に、彼の家で遊ぶことも減っていた。
よく遊んでいたのは小学生の頃。いろいろ思い出す。懐かしいなあ。
「なあ、制服のままだとなんだし。家に戻って着替えてきたら? 俺も付いてくから」
僕と同じ事を考えていたのかも、なんて思う。その分、時間はかかってしまうけれど、この前みたいに男の人に囲まれるのも嫌だ。認めたくはないけど、僕がこの格好をしているのは、変な意味で噛み合っていないのも納得せざるを得ない。
幼馴染みを伴って、進行方向を変える。何も知らない人が僕たちを見たら、「ホモ」って言うのかな……。胸が痛くなった。
言葉数は増えないまま、僕の自宅に到着する。道すがら人が通り掛かる度に、考えなくてもよいような事を考えて気持ちが沈んでしまっていた。玄関先に彼を待たせて、扉を開く。
家には母だけが居る。まだ父は会社に居る時間。台所の母まで聞こえるように「ただいま」と声をかけて、二階の自室に上がっていく。廊下を歩いていくと、使われていない部屋の前を通る。もう二年か。元々家に戻らない人だったけど、ここで兄と擦れ違った記憶がよみがえる。
自分の部屋で着替えをする。やっぱり、「こっち」の方が僕には合っている。そでの短めのベージュワンピースを選んでいた。髪をアイロンでセットして毛先を自分の好みに合わせる。メイクも一から、やり直し。
チャコールのパーカーを羽織って、グリーン系の鞄を持って、急いで階段を降りていく。
2/3
姿見で全身を確認する。ばっちり僕らしく決まっている。情けないけど、これがなんだかんだ言って、他の人から見ても「それっぽい」感じだと思う。
「いってきます」と言いながら玄関を出て、外に居た親友に謝って駆け出す。準備だけで結構、待たせてしまった。こだわると、徹底的に追求しないと気が済まない。わるい癖だ。
制服から私服になった僕を、つま先から顔の方までまじまじと見てくる。哀此くんは呆然としていた。歩み寄って、彼の目の前でそれとなく手を振る。
「裡娃ちゃん、だな」
魂を取り戻したかのように、しゃべり始めたかと思ったらこの調子なものだから、僕は口をとがらせて、一人先に歩き出した。哀此くんは小学生の頃、僕をそう呼んでいた。だけど、もっと何か言ってほしかった。……僕、どうして怒ってんだろ。
道に出ると、歩いてくる人影があった。その姿を見て、ぎょっとした。
「「…………」」
しばらく見つめ合った末、道端で遭遇したネコみたいに、何事もなかったかのように去っていく。先輩の背中が遠ざかっていくと、溜め息がもれた。
哀此くんの家に着く頃には五時を回っていた。普通のお友達の家庭だと、夕飯前には帰らないと失礼になるし、暗くなる前に帰るようにするのは家でよく言われてきた。高校生になってからは厳しく言われないけれど、お父さんやお母さんに心配はかけたくない。
彼の家は父子家庭で、一軒家ではあるけれど、お母さんが居ない。たしか、生まれた時から居ないって話していた。その理由までは言わなかった。知らないのかもしれない。それとも、言いたくないような事かもしれない。でも、触れられたくない事なら追及しない。
「裡娃」
僕を呼ぶ。彼の部屋に二人きりで、畳張りの床に脚を寝かせて腰掛けている。哀此くんの方は身を乗り出して、今にも掴みかかりそうな勢い。後ろにのけ反りそうになるのをこらえて、なるべく平静を装う。意識しちゃ、だめだ。
「な、なに? 哀此くん」
「いつものあれ、やってみせてくれないか」
そう言われて、しばし悩んだ。
タダでやるというのも腑(ふ)に落ちなかった。家を出た時のあの反応をまだ引きずっている。我ながらなんと器の小さい。でも、悔しいのは嘘じゃない。ここまでに着替えてきて、気の利いたことを望まなかったら、なんかもう全部どうでもいいみたいになっちゃう。
やがて、そっぽ向いてあしらっていた。うまく言えない。この感情、どう表現するのが正しいのか解らない。
「俺、お前を見てると再認識させられるんだ。『スゲエ、イイ』って。だから、やってよ」
「具体的に、何がいいの?」
「胸」
「…………」
「嘘。ほっぺた。触らせて」
無言で横を向いて応える。丸顔ぎみな自覚はあるけど、そこは髪型でカバーしているから大丈夫だと思い込んでいた。男の子っぽく見えない要因の一つで、僕としてはマイナス要素なんだけど。なんでそこがいいかな……、もう。
あと、胸は当然、女子みたいにはいかないけど、見た時に形がそれなりになる下着はパット入りで着けている(ブラトップと呼ばれる)。これは中学生の時に芽生えた対抗心がきっかけで着ているものだけど、思い返すとこだわりの一つに過ぎない。スタイルを作る時に、全体の整合性を保ちたい、っていうバランス感覚みたいな。
3/3
顔にひんやりする手が触れる。僕、こういうのに弱い。判ってしまうからつらい。この人はきっと、僕が思った通りの事を秘めている。
頬に触れていた手を取り、両手でしっかりと握る。
「僕はどこにも行かない。大丈夫」
次の瞬間、彼の瞳を見ていたはずの視界が天井に変わっていた。両腕が押さえつけられて、僕の体の上にはその人が覆い被さっていた。やばい。何かまずいこと、しちゃったのか。
観念して目を閉じる。男の子って、やっぱり難しい。
哀此くんの息遣いが耳元で聞こえる。ドキドキする。その気なんてないのに、体は「その」つもりで脱力していた。体格差を始め、力で敵うはずはない。
無抵抗のまま横になっていると、彼は退(ど)いて、元の位置に座った。加わっていた拘束から解放された僕は起き上がって、膝を抱えるようにして座る。
「どうしたの。しないの?」
唇を噛んで、うつむいている。彼が寂しがっているのには気付けるのに、この時の様子が何を発端にしているものなのかは見当もつかなかった。とにかく、この場の空気を覆したい僕は意を決してから、両膝を着いて座り直し、咳払いをする。
目線を合わせるためそのままの体勢で、両手で握りこぶしを作り、両手首の裏側をひじの方までぴったりくっつけて、胸に押し付ける。丁度近くのこぶしの上にあごを乗せて頭を少し下げる。それから、右に左に一度ずつ体をくねらせて、正面に戻ったら畳んでいた腕を前へ放射状に広げ、手のひらを上にして両方とも開いて、相手の目を見る。そして、最後にセリフを言う。
「おいでっ☆」
完璧に再現した。もちろん、これを考案したのは……。
「リーアちゃん!」
かけ声を放ち、大げさに抱き付いてくる哀此くん。この一連の動作があって、「いつものあれ」が完成するというのが、この人のこだわりらしい。
これの特に難しいのは、セリフに星を付与するニュアンスのところ。自分でやっておきながら、完全に理解しているとは言えない。さっきのは、偶然できただけ。
苦しいくらいに抱き締められた。もう二〇秒は経っていると思うけど、非難はしなかった。哀此くんのこういうところが「かわいい」と思ってしまうのが、また僕らしい「らしさ」なのだと思う。それは恋愛とか友情とかで割り切れるものじゃなくて、ちょっと特別な感情なのかもしれない。
彼が僕に抱いているのもそうだとしたら、なんだか胸の方がむずがゆい心地になった。だって、僕は男の子なのに、どうしてこんなに甘えたがりのこの人を包み込んで大事に守りたいだなんて強く思うんだろう。
本当はダメなのに、それも悪くないなんて自分に許してしまうんだろう。
18)先輩のカノジョ
1/4
ある日の通学風景。いつもと同じ時間に登校する。衣替えまで一か月を切った。もう少しで、このそでが余っている大きめなジャケットを着なくて済む。だけど、ワイシャツになったら、体の線が目立ってしまうのも困りものだな。
僕の悩みをよそに、ずっとずっと前の方にはワイシャツ姿の男子生徒が歩いている。かなり速めに走っていって、どうにか追い付く。息を切らして、慌ただしい足音と共に現れた僕を彼がちらりと見ている。
「今日も落ち着きないな」
それだけ言って歩いていく。置いていかれないように、相手の歩幅に合わせて早歩きになる。
「先輩が歩くの速いんです! 落ち着けるわけが――」
突然、立ち止まるカグラ先輩の背中にぶつかりそうになって、手が触れる。振り返ると、そのままじーっとこちらの顔を見つめている。えっ、まさか……。
「えっ。ちょっ、近い。その」
彼の呼吸から感じられる男子のかすかな匂いに鼓動が高まる。これから、僕はどうなってしまうのだろう。
五秒くらい見つめ合って、何事もなかったように、また前を向いて歩いていく。何もないのかい。さりげなく隣を歩いていく。やっぱり、この人と一緒に居ると安心できるかも。先日の件で確信した。僕、この人のことが……。
「お前さ、この前、女のカッコしてただろ」
唐突に切り出された。そう言えば、哀此くんの家に行こうとした時に、見られてたんだった。
外出先で着る頻度は減っているにしても、部屋着は大体、女の子の服で過ごすことが多い。単純に男物の服が似合わないからだ。似合うような男になればいいだけなんだけど、いくら筋トレしても肉が付かないし。体力にも自信がない。
「あ、ああ、あれですね。僕の、普段着です」
癖だとか趣味だとか言い方は様々ある。そのいずれよりもこれが最適な答えだと思っていた。いまだにメンズの服は所持数が少ない上、男らしいものを着なきゃいけないと判ってても、どうしても中学生の頃の感覚でレディースを着てしまうのだ。
「フン。どうりで」
普段と変わらない強い目付きで、たった一言だけ。えっ、なに。それはどういう意味で捉えているの? 気持ち悪いって感じでもなさそうだけど、誉めてくれてるってわけでもないだろうし……。
もやがかかったような、晴れ晴れしない疑問を抱えたまま学校に着いた。
僕は先輩に「それでは」と声を掛けて、先に来ていたクラスメイトたちと門の付近で合流して、別々に校舎へ歩いていく。あの人とは、学校の中では知らない人同士みたいに、言葉も交わさない。それがなんか今の僕たちらしくて、丁度いい距離感なんだ。
2/4
この日は面談の都合で、早めに授業が終わった。
四月に提出した進路希望に沿って、それを両親のいずれか一人と自分、担任の先生の、三人で話し合われる。一年生の段階からすでにクラス分けがなされているけれど、二年、三年と上がっていくに連れて、具体的な進路によって多少の変動が起こるかもしれないと、父から聞いたことがある。
来年の事を考えると、ちょっと憂鬱になってしまう。進路は「自動適性判定」で出た通りにいけば、何も心配することはないのだけれど、三年生が居なくなってしまったら、もうあの人とお話しすることもできなくなってしまう。
ちなみに、僕の適性は「自己肯定感促進カウンセラー」という職業に向いているらしくて、もらとりあむ? の若者を対象とした会話をするお仕事がよいと出ていた。体を使った事は得意じゃなくて、他にも保育士や学校の先生と出てはいたけれど、ピンと来たのは自己肯定感を促すというそれくらいしかなかった。
とはいえ、僕は僕を肯定している自信はない。男の子っぽくない弱さが嫌いだし、この前みたいに心無い集団から排斥を受けることもある。この体が女子のようになればと考えたことはないけれど、女子で困ることの方が少ないなんて思ってしまう。
それは僕にとって、逃げなんだ。女の子らしさ=僕らしさである限り、僕は僕を肯定できないかもしれない。だって、こんなにも非力で、情けなくて、弱いから。
この日はクラスメイトたちとカラオケに行こうという話になっていて、複数名で外出する予定があった。みんな制服を着たままで出掛けるようだ。僕もそれに倣うつもり。少しは男の子らしく振る舞わないといけない。
靴箱に上履きを仕舞って革靴を履いて、同級生と校舎を出ていく時、昇降口付近でワイシャツ姿の見覚えある男子が立っているのが視界に入ってきた。帰りは滅多に同じ時間にならないのに、すでに下校するところだったなんて珍しい。あえて見ないようにして、クラスメイトたちに気付かれないよう前を向く。
少し歩いていって、あれはやっぱり先輩だったのか確かめたくなって、先を進んだところから振り向く。すると、入り口の軒下にある柱を隔てた方に、髪の長いやせた女性が立っていた。影に溶け込みそうな、とても異質な雰囲気が放たれている不思議な人。でも、なんだか先輩とそう年齢が変わらないようにも見える。
「リア? 忘れ物でもしたの?」
隣に居たアジサさんに問い掛けられて、すぐ我に返った。すらっとした体型が特徴で、僕よりも背が高い。教室で僕を「かわいい」と言って、無邪気にからかってくる。それと、面倒見がよく細かいことにも気が付く、しっかり者だ。
すぐさま応答して、数学の時間に出された宿題の話をしてごまかす。
あの人、だれだったんだろう。わざわざ、学校帰りに迎えに来たとか?
まさか、先輩のカノジョなのかな……。ここの制服は着ていなかったし、他校もまた早めの放課後になるとは限らないし、高校生じゃない年上の女性かもしれない。いや、定時制の学校に通っている人だったり、あるいは登校拒否で休んでいる人だったり……思考が迷い始めてくる。段々冷静じゃなくなって、もやもやが膨らんでいった。
3/4
友達との時間を過ごしている間、意識が別の方に向いてしまうことが多かった。無性にぼんやりしてしまった、いきなり曲を振られた時は驚いて変な声が出てしまうこともあった。
声変わりする前は合唱等で女子のパートに分類されるのが常だったけど、中学三年生からはなんとか男子のパートに入れるようになった。それでも声が高いらしく、勧められたのは大体が女性歌手の曲ばかりだった。
男子連中は最後まではしゃいでいたけれど、女子の一人、アジサさんは気が付いているみたいで、返り際に「何かあったら相談乗るから」って言ってて、心配させちゃった。本当に僕、どうしてしまったんだろう。
カノジョだったら、カノジョでいいじゃん、なんて当たり前に割り切れたら、こんな溜め息は出てこなかったろうな。
カラオケボックスには三時間くらい居た。その場で解散して、また後日集まろうということになった。友達と過ごす時間は楽しい。日頃、溜め込みそうになる余計なことを忘れられる。困った時には助けてもらえるし、すごくいい人たち。
別れてから、まだ夕暮れまでには多少の時間がある。自宅までの帰り道を一人で歩いていく。
「もうさすがにおうちに帰ってるよね」
通り過ぎた学校の方を気にしながらつぶやいて、また歩いていく。すぐに思いとどまって、近くの塀に寄り掛かる。このまましばらく待っていようかな。いくら一緒に歩く通学路の途中だとしても、これからあの人が通り掛かる確証はないけど。
ふと、壁の物陰に何かが落ちているのに気が付いた。小さくてもこもこした長い耳をした動物の、小さなぬいぐるみ。だれかが踏んでしまったのか、白い布地が汚れてしまっている。だれのものか分からないけれど、きれいにしてこの辺りに戻しておこうかな。いや、でもだれかが持ってっちゃいそうだな。
僕は覚悟を決めて、拾った物を手に持って走り出した。
一度帰宅した後、外出するための私服に着替えて、必要な用事を済ませて、また外に走り出した。夕飯に間に合うかどうかギリギリのところだけど、今日がだめなら明日もある。とにかく、すぐ元の場所に戻らないと「これ」の持ち主が探しているかもしれない。
一生懸命に何かをしていると、それまで悩んでいたのが嘘みたいに意識から遠ざかっていた。僕は拾った場所まで引き返し、汚れた箇所をきれいに掃除したぬいぐるみを、外から見えるように両手に乗せて街角にたたずんでいた。これだと、通行人に不審な印象を与えてしまうかもしれない。でも、落ちていたうさちゃんのためなら、しょうがないよね。
そろそろ日没が近い。もう帰った方がいいのかな。
「君、ここで何をしているのかな?」
何人か擦れ違っていたけれど、お巡りさんに会うのは初めてだった。詳しい事情を説明しようとしていたら、間もなく警官の後ろの方から現れた男性に手を引かれ、歩くように促された。
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「すいません。こいつ、うちの妹です。すぐ連れて帰りますんで」
既視感のありすぎる男性がまったくのでたらめを口にして、僕の手を引っ張る。妹って、なんでそんなすんなり口に出せるの? その後、振り向くと、お巡りさんは首をかしげて立ち去っていくところだった。高校の制服に身を包んだ彼もそれを見届けていたのか、次第に歩みが止まる。掴まれていた手が放される。
「お前、なんだって一人でぼーっと出歩いてんだ。危ねぇだろうが」
男性は、もうとっくに家に帰っていると僕が思っていた、カグラ先輩だった。どっちの方向から来たのかは気付かなかった。服装からして、外出してたのだと思うけれど。こんなところに現れて、わざわざ僕を心配してくれている。なんだか、胸の奥がきゅんとする。
うさちゃんの持ち主探しはまた今度にしよう。手にしていたぬいぐるみを、羽織っているパーカーのポケットに移そうとした時の事だった。前の方から人が歩いてくる。その影が次第に、鮮明になってきて直感した。
「先輩の、カノジョ?」
思わず口をついて出てきた。それを聞いた先輩が言うよりも先に、背の高くやせていて怖い目をした女性が口を開いた。
「おもしろくない冗談。それより、あったじゃない。それ」
季節感のない黒い長そでの服に被われた片方の腕が持ち上がり、人差し指が僕の持っていた小さなうさちゃんを指している。目が合って、一瞬たじろいだ。冷たい眼差しがカグラ先輩に向けられている。その直後、きびすを返して、一人で来た道を戻っていってしまった。
「クッ。…………それ」
あの様子だとカノジョ、ではないのかな。考え込んでいると、先輩に肩を小突かれた。
「それ。寄越せ」
彼はなぜだか悔しそうに細められた目でうさちゃんを見ている。「これですか?」と尋ねて両手で掲げてみたら、うさちゃんが即行で没収されてしまった。……え、ええーっ!? 見る間に、彼は奪い取ったそれを学校鞄の中に仕舞い込んだのだ。
「それ、先輩のうさちゃんだったんですか」
「だったらなんだ」
歩き出した彼に付いていく。普段のぶっきらぼうな態度に戻ってしまった。兎に角(とにかく)、先輩の意外な一面を見れて暖かい気持ちになってくる。
でも、一つだけ判らないことがあった。うさちゃんを探していたのが持ち主のカグラ先輩ならともかく、なぜあの暗い感じの女性もそれを探していたのだろう。
「ふふふ、なんでもないです。ところで、先輩。さっきの人はだれだったんですか」
「……カノジョじゃねェ」
それを聞いて、なんだかもやもやがちょっとだけ晴れた気がした。なんで安心しているんだろう。うさちゃんもちゃんと元の居場所に戻ったみたいだし……って、あれ。何か忘れているような気がする。
自分の格好を見て、慌てて後ずさる。
「せ、先輩。今の僕、その、気持ち悪い、ですか……」
先輩の知り合いみたいな人にも見られちゃったし。それも相まって、冷や汗をかきそうな僕は穿いていたスカートのすそを握り締める。
「は? それが『お前の』普段着なんだろ。だったら、もっと堂々としろ」
息が止まりそうだった。何か酷いことを言われたわけでもなく、特別に誉めてもらえたわけでもない。けれど、彼のこの感じが、僕には何物にも換えがたい大きな衝撃となって伝わってきた。
僕、この人のことが、好きだ。
19)アンドロイド
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先輩との通学をするのはなんでもない日課でしかなかった。
だけど、自分の本心に気が付くと、意識が変わってしまっていた。
せめて、登校する時だけでも、女の子ではいけないだろうか。私服で行こうというのではなくて、女子の制服、スカートを穿くということ。インターネットで調べてみると、そうした男子生徒は珍しくも皆無ではないらしく、方々に居る事実が判った。着ているところを本人の手で写した画像も見た。うちの学校でも男子がスカートを穿くなという校則はない。
あとは親が制服を工面してくれるかに懸かってくるけれど、この「計画」は是非とも自分だけに留めておきたい(着ていくその時になったらバレるんだけど)。必要なのはお金か。まとまったお金のためにアルバイトをしなくちゃいけないか。
そうと決まれば、学校からの許可を取るために動き始めた。
さて、職員室で担任の先生に聞いてみたら、正当な理由があれば校長から許可証に印鑑を押してもらえるということだったので、それらしいアルバイトの動機を考えることにした。まさか、女子の制服を着るためにとは書きづらいところではあるものの、それで申請書を提出してみたらどうなるのだろう。
まる一日考えてみても、それらしい理由は思い付かなかった。
放課後、クラスの友達とボーリングで遊んでから、帰路についていた。みんなが遊んでいるような所で働くのもわるくないかもしれない。理由が定まらないうちから、バイト先の候補がいくつか思い浮かんでくる。
夕暮れ時、一人での帰り道は心細い。わるい人に絡まれるなんて早々起こるはずもなく、それでも安心して帰るためにはだれかと帰るのが一番だ。でも、一緒に帰ってくれるような友達が同じ通学路に居ない。先輩の姿が最初に思い浮かぶけれど、いつも校門で待ち伏せているのも無理。ずっとそこに立っていたら、クラスメイトの目もある。
堂々と先輩と帰れるのはいつになるやら。
あと半分くらいのところで自宅、といった時に、大きな空き地に何かが落ちているのを見付けた。目測で一メートル五〇センチくらい、つまり僕と同じくらいの身長をした、ロボット……なのかな。人の形をしているけれど、体を被うような服は着ておらず、間接には機械の構造を思わせる部品の、切れ目や繋ぎ目が出ていて、人体を再現する作りにはなっていなかった。すごく前時代的なデザインのロボットだった。
通り過ぎようとして、それから後戻りして、こっそりと空き地に足を踏み入れる。
どうしてこんなところに落ちているのだろう。おそるおそる、倒れている上からのぞき込んでみた。近くで見ると、顔の部分がちかちか弱い光を放っていて、口の辺りの丸い穴がいくつも集まってできた横長のスピーカーから、ぶつぶつと小さな音が鳴っている。
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「…………あ、あ、あああ、すすす、けけけけ、え――」
た、す、け、て? そう言っているように聞こえた。機械の腕を持ち上げて、その場に座らせてみる。やっぱり動かない。こういう不良品を見つけたら、まずお巡りさんに連絡して引き取ってもらわないと。
鞄から連絡用の端末を取り出す。電話をかけようとしたら、後ろから声が聞こえた。
「待って待って。それは、ボクが直したげるから」
いつからそこに居たのか判らなかった。僕が存在に気付かなかったその人は、少しお腹の出た女の人だった。上下とも飾り気のない紺色のジャージで、どこかの学校のものを着ているのだとしたら、ちょっと無頓着にも程がある。
直すと言って、腰に回していたウエストポーチの中から、薄手の手袋と、工具のような物を取り出している。手を白地の手袋で覆い、いくつもの工具が束になって、一つに重なり合ってまとまったような形をしたそれを駆使して、ロボットの頭をいじっている。
「それ、直るんですか?」
長い髪を後ろの方でまとめられてできたお団子が、頭の動きに合わせてちょこちょこ動いている。こちらを見ずに、女性は電子回路の作業に集中している。くっついていたチップを取り外すと、ポーチの中から出された新しい部品を付け加えている。なんか手際がよくて、見いってしまう。
「まあ、見てなさいって」
慣れた手付きで頭の回路を外したり付けたりを繰り返して修復し終えると、腕部や胸部といった他の故障にも手が加えられる。二〇分から三〇分くらいかかったように思うけれど、この人がやっていたのは普通の人がやるよりきっと速い。
その証拠に、作業が終わって起動させられたロボットが見違えるかのように、二本足で立ち上がって動き出した。
「んじゃ、ボクはこれで。イニシャライズはキミがやりなさい。あーあ、帰ってゲームしよ」
イニシャライズ? 突然現れて、またすぐにどこかへ行ってしまう女性の背中を見送っていたら、その鮮明になったスピーカーで声をかけられた。
「はじめまして。マスター。ワタシは第三種ジェノサイド型アンドロイド。初期設定をお願いいたします」
ジェノサイドって、どういう意味だろ。よく解らないまま投げ掛けられる質問に答えていく。その内容は僕の個人情報からこのロボットの活動に関わる事などで、マスターの詳細を認識することで、その人に適した様々な手助けをしてくれるお手伝いロボットみたい。
設定が終わり、僕はこのロボットに兄の名をあやかって「ダイム」と名付けた。
それで、一体これをどうすればいいのだろう。そのまま空き地を出ていこうとすると、後ろから付いてくる足音がした。ダイムが付いてきている。これをこのまま家に持って帰っても大丈夫では、なさそう。
3/3
「あのー。僕、これから家に帰るけど、付いてこられると困っちゃうよ」
振り向いて、彼にそう告げてみると、赤く光る目の部分が点滅している。
「了解しました。家に付いていくことはしません。ですが、ワタシはジェノサイド型であるがゆえに、マスターを脅かすものがあれば排除する使命があります」
そういう役目を持ったロボットだったのか。暴漢をやっつけてくれるのなら、これほど頼もしいことはない。……って、そういうことでもない気がするけれど、せっかくだから付いてきてもらうとしようか。
帰宅の途に戻ってみたはいいが、ロボットが後ろにいるだけで、通行人から向けられる視線がその都度、痛い。
「……ダイムくん、僕の近くに居られると、目立ってしまって仕方ないから、もうちょっと離れることはできる?」
「ムムム、危険回避を優先させるべきか、リア様の意向を優先させるべきか、ムムムム」
葛藤している。
「危険なんてそう簡単に降り掛からないと思うし、心配しなくて大丈夫だよ」
僕がそう言うと、不意に腕を引っ張られた。先ほどまで立っていた地面の辺りに白いモノが落っこちてきた。遥か先に飛んでいくカラスが一羽。そこへ、ダイムは大きく振りかぶって腕を振ると、右ひじから先のところが外れて空に向かっていく。
鳴き声を残して、カラスが降下していく。まずい。
「ちょ、ちょっと何してるの!? あれはカラスといって、すごく賢い生き物なのよ。このままだと仕返しされちゃう……」
「心配ご無用です。あの鳥は二度とリア様にご無礼を働くことはないでしょう」
それを聞いて僕はがっかりした。ためらいなく生き物を殺してしまえる冷たい存在でしかないのだ。こんなロボットが、なぜあんなところに捨てられていたのかは知らないけれど、付き合いきれない。
「次、君が何かを殺すような事があれば、僕はもう君とは関わりを持たない。そばにも寄らないでいて」
ロボットは音もなく立ち尽くしていた。僕がその場を後にしても、それから聞こえる足音はしなくなり、振り返ると、そこにはもう居なかった。ちょっと言い過ぎてしまった気がするけれど、もういい。
命を大切に扱えないのなら、それが何であろうと最低だ。
結局、アルバイトをするための理由が見つからないまま家に帰ってきてしまった。学費に関しては両親が苦もなく支払ってくれているし、大学に行くためのお金だって用意してくれることになっている。幸せな家庭だとは思う。
自分でできることから探していこう。
考えて溜め息が出た。やっぱりまた明日考えよう。布団の上に寝そべって、女子の制服を着た自分を空想する。ここであきらめたら、叶わないな。
先輩の隣を歩くカノジョみたいになりたい。
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