第三章 選べない死 (10)~(14)

10)復讐 -前編-

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 一月七日。入念な下準備が終わった。この作戦が失敗するようなことはないだろう。いかに、クシナキが僕と同様のメカであったとして、できることとできないことがあるように。


「ようは、フタを開けてしまえばいいのさ。この第一区画から第四区画までを“オープンな”状態にする」


 司令塔に当たるキズカラは難民キャンプの一室で五名の参加者に作戦概要を説明している。編成は三名一組の部隊を三組の予定だ。ここに居ない四名は外部からの招集でまかなわれる。


 自宅とは違って、“めかし込んだ”黒髪の彼女はグレーのブラウスに暗色のスカートという姿で、上着にしていたジャケットは室内の奥の方にハンガーでかけてあり、目に刺激を与えるほど濃い青だった。


 司令塔らしく、時折何かを要求しては、今度は参加者の一人に飲み物を持ってこさせている。その指令に逆らう者はおらず、上下関係は徹底していた。


 この二日間でじつに八回にも及ぶ練り直しを加えられた手順の説明が終わっていた。集まっていた五名が退室していく。あとは、日没前の決行を待つのみだ。寝る間もなく働き詰めたキズカラは、自身のノートパソコン(自作)を置くために用意されていたデスクと対になっている厚めのクッションのイスに深々と寄り掛かる。


「ふぅ、疲れたー。おーい、肩揉んで……って、コムちゃんか。まさか、人類存続機構をハックしろだなんて。ボクにかかれば朝メシ前っつーか、寝る前に終わるくらい楽勝なんだけどねー」


 のんびりした口調で僕に語り掛けた。コムというのは僕を呼ぶ時に使う名称。他の参加者たちのこともあだ名で呼ぶ、独特の感性がある。しかも、徹夜が続いているというのに、その目は生気を失っていなかった。


「いいのか。テロリスト、になっても」


 自分から誘っておきながら、矛盾しているのは解っている。予定では、前回の作戦で協力させたハッカーと同じように「所有権の強制執行」で言うことを聞かせるつもりでいた。だが、キズカラは普段の意識を保ったままここに居る。


「だって、あっこは『下部組織』だもんさ。今や形骸化した組織。潰してももーまんたいってね。……ほれほれ、そこそこ」


 会話中なのに、オンラインゲームに興じている。画面とキーボードを見ないで一切の操作をしていた。音だけで解るようだ。モニタ越しで見た時の鬱屈していたのが嘘みたいに、無邪気な少女を思わせる目付きが僕を見つめる。

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「ボクはこの通り、“なんの取り柄もない”からさ」


 この数日、キズカラの働きを近くでずっと見ていたから解る。部隊編成を三組に増やそうと提案したのは彼女だ。対クシナキを想定して、作戦参加者たちに僕との実戦訓練をさせようと提案したのも彼女だ。


 しかし、彼女はそのまま押し黙って、左手だけでタイピングを続けている。もう片方の手では連絡用の携帯型端末を見ていじっている。


「そうか」


 否定も肯定もできなかった。間違いなく、人の域の上級に相当する能力を持っているのに、果たしてそれだけが「生を肯定し得る」のか。少なくとも、キズカラにとってはそうではない。あたかも、そう言っているように聞こえたから。




 枝分かれした構造の廊下で繋がる部屋をいくつも進んでいき、扉を開ける。そこに長は居た。いつもの扇情的な格好ではなく、ちゃんとした身なりをしていた。黒一色の喪服のようなドレスが厳かな雰囲気を演出している。


「あいつを部下に任せたのは誤算だった。……いっそ、この手で殺しておけば」


 絵梨香はイスに腰掛け、テーブルに両ひじを着いて組まれた両手の中央に額を当ててうつむいている。


「逃がしたのは、僕の落ち度だ。だから」


「ううん。そうじゃないの。あたしはクシナキをいつでも殺せる立場に居たの。先月、彼が自殺するまではね」


 絵梨香は滅多に自分のことを語らない。だが、珍しく過去の出来事を聞かせてくれた。




 窓のない暗い地下室。大勢の有志を連れて、その先頭に拳銃を持った女性が立っている。その目の前には脚から血を流して膝を着く、両腕を二人係りで捕らわれた男性が居る。上半身は服を着ておらず、その筋肉質な体は水に滴っている。力なくうなだれて、かすかな息遣いがする。


 二人によって、両腕を天井から下ろされた鎖に拘束されていく。完全に身動きが取れなくなった男を置いて、その場に居合わせた他の者たちは一人ずつその部屋を去っていく。最後に残ったのは、集団の唯一の女性だった。彼女は憔悴(しょうすい)した男の、髪をわし掴み、顔を上げさせて汗の浮かぶ頬をやさしくなでる。


「楽には死なせない。生きて。後悔しながら、この先もずっと」


 最後の一人が立ち去り、扉は固く閉ざされた。深い闇と共に、傷付き自らでは動けない男だけを残して。


 この男は数日置きに食事を与えられては、それと等しいだけの痛みや苦しみが“継続して”提供され、その度合いは日に日に増していった。「慣れ」を感じさせないための残酷な工夫。彼は耐えて、耐えて、耐え続けた。もはや、元の暮らしに戻れるという望みは断ち切られ、いつ訪れるとも知らない死まで続く日々を。


 そんな仕打ちを受け入れるだけだった男性にたった一度だけ、奇跡が起きた。


 彼にとってはもう「死ぬ」ことだけが生きる目的となっていたから、それが行えるだけの自由がほんの少しだけあればよかった。


 断片的に語られた過去は、その男の死亡で決着した。


「それまで多くの殺人を行ってきたクシナキは他の部下には目もくれず、真っ先に自分自身を殺した。あたしはその時、『逃がした』と思った。馬鹿よね。……自分で自分を殺せるような“幸運”を与えてしまうなんて」

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 拷問には意味がない。いたずらに人を苦しめて、それを行ったり観たりすることへ「娯楽」を楽しむ人間のそこはかとない利己が介在しているだけで、殺意とは相容れない。その者が持っている情報を引き出すためにも行われてきた原始的な手法でも、機械が管理しているこの時代にそんな「非効率」は不要だ。


「あたしがしたかったのは『復讐』なんかじゃ、なかった。つくづく甘いわ」


 そう語る女性はいつになく思い詰めていた。この日を以て決着が着く。僕が請け負ったのだから。そのためにやれることはすべてやった。作戦で使う人たちの技量や詳細にも抜かりはない。たとえ失敗したとしても、また僕は繰り返し作戦を立てて、奴を殺す。


「心配しないで。僕が、あの男を必ず、倒す」


「フッ、フフフ……」


 ふと、絵梨香がイスから立ち上がった。細身でいて女性らしい線をした長身がそれでも、直立不動の僕より下方から緩やかな角度で見上げている。


 渇いた笑みが鳴り止むと、二本の腕が首元に襲い掛かった。呼吸が不安定になり、ロボットの声をしたガイダンスが身体への傷害を感知した。それでも僕は無感動に女性の見開かれた眼を見つめる。


「梳哭を殺しても、次はあんたがあたしを手に入れようとしてくる。じゃあ、ここで死んでもらってもいいわよね?」


 そういう、ことか。目的を果たせず死ぬのは心残りだ。だけど、これも本望だ。生きる意味だけに留まらず、死ぬきっかけをも与えてくれるのだ。この人の手にかかって死ぬのなら、それはそれでいいのかもしれない。


 女の細腕とは思えない握力が首の骨を刺激する。それでも、まだ折れるまで猶予がある。簡単に折れてくれたら悩みなどしなかっただろう。


「わたしは、あなたのことを、愛しています」


 どうして思い浮かんだのかは解らない言葉が脳裏で再生された。漠然と、無気力だった僕の体を奮い立たせる。女性の手を掴み、その左手の親指をねじ曲げる。音を立てて何かが折れる音が鳴った。


「ッいつ、光陽ッ! あんた。……少しは男の顔を、するようになったじゃない!」


 意味は掴みかねた。その代わり、痛がる手をそっと掴んで握った。初めて自分から触れた彼女の体。このような形になるとは想像もしていなかった。だけど、生きているからそれが起こり得た。曲がった親指を元の向きに修正する。


「くっ……ううううぅぅ」


 痛がる絵梨香に容赦せず、指は元の形を取り戻す。僕には自覚がなかった。このわずかに胸の奥がすっと軽くなる安らぎにも似た新種の感情が「復讐」から伸びていた影に限りなく近いものであることを。




11)復讐 -後編-

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 モニタ部屋に戻ってきていた。時刻は正午を回っている。一月七日は、僕が一九歳になってから最も長い一日になる予感を告げていた。もう既に一度死んでいて、眠りすらしない体でさえはっきりと判る。


 絵梨香が僕に手を掛けたのはあの一回きりで、それ以上の争いにまでは波及しなかった事を考えると、作戦に特段の影響はなさそうだ。あの時、彼女は本当に僕を殺そうとしていたのだろうか。


「その可能性は低いです。0と言ってもいいでしょう。シシツキエルカはあらゆる勢力を利用する。その中には彼女自身の『所有権』も含まれる。あの女には自身の所有権を差し出すに値する利得が、『ミツハルに』あるんだなぁ」


 わざとらしく片目で瞬きをしてみせて、愛想を振り撒いている。嫌みはなく、素直に僕を評価してくれているみたいだが、およそ彼女にしか解らない領域なのだろうから、考えるのをやめた。


「そんなことより、お前はいつまで“ここ”に居るつもりだ」


「えっ。わたしがここに居たらだめですか? だめなんですか……。ミツハル」


 人の形をした存在が常に寄り添っている事には慣れなかった。自宅でも、学校でも、職場でも。常に一人で行動し、目的が済めば勝手にどこかへ消える。だから、周囲のことはどうでもよかったし、周囲からも僕は取り留めのない人間であったに違いない。


「あいにく大学は休み。ミツハルのおうちは不在。おまけにクトゥルフはごみ箱……しくしくしく。もとい、わたしはあなたをどうでもいいなんて思いません」


 嘘では、ないのだろう。人に慕われる道理はなくとも、現実にこのような目を向けられては疑いようもない。絵梨香もこんな気持ちを抱えて、僕のことを利用していたのか。どれだけ配られても味気なくて、退屈な遊びに付き合わされているような、こんな気持ちを。


「ひどいっ……。ミツハルがそんなふうに思ってたなんて。しくしくしく」


 またもわざとらしく、目の下を擦る仕草をするが、わずかにのぞかせる瞳がちらちらと様子をうかがってくる。どうせ口に出さなくても考えていることは筒抜けだ。僕は無視を決め込んでモニタに目をやる。


「ふふ、やっぱりミツハルはミツハルだ。わたしもうれしい」


 かくして、目的を与える側になれてよかったのだが、イブには元の場所に帰ってもらいたかった。

2/4

 作戦開始まで残すところ、四時間。僕と全く同じような身体的能力を付与されているクシナキを倒すための手段は一つだけ。粒子航行が行われる寸前に起動する仕掛けが用意してある。


「今さらだけど、オーナーとオーナーが潰し合うのは、許されていることなのか」


「えっ。そんなこと、言えるわけないじゃないですか。ですが、甦ったオーナーたちに禁止されていることは少ないんです。うーん、ないに等しい」


 ますます解らない。このような手間と技術をかけておき、制限時間は設けられているとはいえ、僕たちに命令を下した声の男性は一体何を……。僕がそのまま死に直していたら、所有権を何一つ回収できなくて大損だったろう。


「一つだけ、忠告をさせていただきます。あなたが思っているほど我々は甘くはありません」


 その声は役割に従順なロボットでもなく、同じ時間を過ごして親しくなってきたイブでもなく、もっと別の何かが発している。そんな印象を受け取った。




 午後三時五〇分。人類存続機構の周辺に今回の人員が建物の外に集まっていた。A~Cの三組に振り分けられた九人がそれぞれの配置についている。先行部隊と後続部隊、予備部隊という順に進んでいく。


 先行部隊の役割は進路を切り開き、敵が居たら処理していく。対応力が重視され、突破する力に秀でる三人が選ばれている。この隊のみ全員が絵梨香の直属の部下であり精鋭だ。後続部隊は戦況に応じて先行部隊に合流して戦力の増強を行う。不利な時は退路を確保する役目もあり、行動力のある一人が随行員の二人を率いる。予備部隊は先行・後続部隊のいずれにでも欠員が出た場合や、キズカラの采配で適宜補充される予定で、待機が主な任務になっている。予備と後続の二組に、一人ずつ絵梨香の部下を配属している。


 全指揮を任されているキズカラは安全性を配慮して、絵梨香たちのネットワークによって確保した建物から遠隔で参加している。護衛も数名配置されている。残り約八時間、彼女の所有権を有しているといっても暫定的な範囲であり、通信するためにロボットを介さないといけない。


「オンラインゲームでのキズカラリヤハの勝率は97.899%です」


 デスクの隣にはロボットが立っている。本作戦の「ナビゲーター」ということになる。僕の意思をキズカラに伝達する役で、実質は僕が指揮の補佐をする立ち位置になっている。個人的な会話でうるさかったイブは作戦一時間前になって、自ら部屋を退出した。


 勝率についてだが、2.1%はアカウント凍結による強制退場で“運営に敗北する”パターン、あとの0.001%は純粋な実力不足による敗北。それでも万単位の勝負に挑んで(運営が絡まなければ)常勝という驚異の数値なのは確かだ。

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 だが、今回は相手が強い。オンラインゲームのプレイヤーキルとはわけが違う。万が一が起こらないとも限らない。勝率を上げるための下準備は充分に尽くしたが、この期に及んで万全でない気がして、ちっとも傲りが湧き立たない。


 ロボットが顔の部分を特有の黄色を放つ光で点滅させて、音声を発する。この部屋は濃い緑色の照明が照らしているのが前提で、目で見えて黄色か水色の発光で「だれなのか」見分ける。黄色系は外部との通信時の挙動だ。


「心配しなさんな。敵さんが強けりゃ強いほど、ボクも燃えるし。コムちゃんが“直接”来るような手間は取らせんて。まあ、見てなさい」


 キズカラの声だ。油断とは違うが、いつにも増して言葉が活き活きとしていた。僕の思考もまた彼女に送られている。むこうの様子はモニタで確認できる。ハッキングと部隊への命令、戦況予測、それぞれに割り振られた三機のパソコンとキーボードをほとんど時間差なく操り、まさに本気モードだった。


 命令用のパソコンは作戦説明で決められた事を定型文で送られる仕組みになっているが、手が暇なのか、予備の部隊の人員を相手に下らないやり取りをしている。ディスプレイには会話の内容が書き起こされており、「三人がこの日の晩飯に食べたい物」が画像付きで表示されている。


「まじめに、やってくれないか」


「ふへっ。これも“作戦”なんよ。……おーつつつっと。総員に定期連絡。作戦開始まで残り四分五〇秒。施設内ハッキング58パーセン完了~。第一から第四区画オーープーン。次! 第五から第七区画に着手中~。もうちょいで終わるよん。…………作戦目標“マルD”、第八区画及び第九区画で待機中。御武運を」


 軽いノリで仕事をしていると疑って恥ずかしくなった。減り張りがあって、重要な部分は声にも厳かな響きがこもっていた。この作戦に参加する九人、僕を入れて十人、にとって、キズカラは女神なのだ。勝敗の行方を司る女神。


「コムちゃん。こそばゆいことをさらっと言ってこないで。ボク、そういうの慣れてないんで」


 おどけていない、まじめな口調の声が送られてくる。そんなつもりは。隣に立っているロボットは音声を中継しつつも僕の方をじっと見ている。すると、黄色だった発光が水色になって点滅する。


「コメカワサマ。まさかとは思いますが、まさかそういうアレではありませんよね。ありませんね。ありません。なし。ないということで。今決めました。絶対にない」


 こちらはこちらでムキになっている。イブのやつめ。


 もうすぐ作戦が開始するのに、緊張感が一瞬にして消失した。僕は別に、顔で人を判断しているわけではなくて、そうだからといって、美的感覚が人よりズレているわけではなくて。とにかく、女性の好みなんて僕には心当たりがない。断固として、キズカラをどうこうしようとは考えていない。そう、だろう。そうだ。……そうなんだ。




 午後四時〇〇分、作戦が開始された。


 人類存続機構の本部は、研究都市の中枢部にある三階建てのビルであり、こぢんまりとしている。ロボットの言っていた「統合」が現実味を帯びるようだ。ちなみに、この都市の北東部に僕が投身したビルがある。


 人間の警備しか配置されていない一階の制圧は苦労しなかった。二階からは敵が減る代わりにセキュリティ扉がいくつも配置されていて、ハッキングと作戦指示は必須になる。前回は、この第一区画から第五区画まで三時間掛かってここまでを押さえた。


 しかし、女神の居る今回は四〇分で二階の中枢を攻略した。あとの第六区画からは最上階で、侵入経路は二か所ある。セキュリティ扉を抜けて直進する正規ルートと窓を開けて壁伝いに登っていく非常口ルート。

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 打ち合わせでは正規ルートに予備部隊を配置し、先行部隊が非常口ルートを進行し、後続部隊はどちらの部隊にも合流できる位置で待機する。前回に正規ルートを使って、クシナキの反撃を受けた事を考慮しての変更点だった。


 だが、何かがおかしい。予備隊が正規ルートに居ないのだ。彼らがそこで牽制していなければ、クシナキの「ナビゲーター」に悟られてしまう。別ルートを使っている部隊がクシナキと戦うための精鋭部隊で、奇襲を狙っていることに。


 このままいくと、負ける。


「なぜ、C隊が居ない。バックアップは、どうした」


 ロボットとの通信は沈黙していた。すぐさまキズカラの映るモニタに目を移す。キーボードを絶え間なく叩き続けている。その顔に一切の薄笑いはない。ここにきて、手が回っていないのか。


 ついに、僕はロボットに転送を打診した。そこで、ようやくロボットの顔は黄色く発光した。


「コムちゃん、ボクを信じなさい。この勝負、絶対に勝つ」


 心中は穏やかではなかった。失敗の二文字が頭をよぎる。ここで失敗することを受け入れる。無理ではないが、目的は大きく遅延する。態度には現れていないが、巨大に膨らんだ不安が僕を支配していた。


 モニタに映されたA隊を見る。彼らの命が消費される。何のために失われるのか、解らない。この状況、どうしたら。視野の端でロボットが水色に発光する。


「心配することはないみたいですよ」


 その声がしたのと、A隊が地上に滑り落ちていくのはほぼ同時だった。そこでようやく、C隊のねらいが何なのかを理解した。そこには、三階から転送されたと思われるクシナキが誤差の地点から走って、本部まで戻ってくる姿が映る。


 武装したC隊のかたわらには、小学生か中学生くらいの女の子が立っている。隊員の一人が、まだ戦場を知らないであろう子供の側頭部に銃を突き付けている。状況の全てを理解はしていないが、おそらくその脅迫は一秒間におよそ一〇〇秒間の動きができる彼には効かない。


 ところが、クシナキはその場に居た、たったの三名の敵を前にして全く身動きしない。その隙に合流した精鋭のA隊が三人係りで彼を拘束する。人質にされているあの子供は、だれだ。


「あれはクシナキリア、クシナキダイゴの義弟です。年齢は13歳、中学生です。現在、彼の体内にはナノマシンが仕込まれています。形式はFVGL-X8、通称デストラクトボーン」


 午後五時〇〇分ジャスト。作戦は終了した。犠牲者はゼロ、人類存続機構は制圧済み。わずか一時間足らずで目標を捕らえる完全勝利という形で幕を閉じた。




12)兄弟

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 一月一〇日。


 あれから数日経ったわけだが、僕は晴れ晴れしない心地で「人類存続機構」の三階にある最高責任者の大きなイスに腰掛けていた。モニタ部屋のものとは比較にならないほど上質で座り心地は最高だ。


 かたわらには黒いドレスの背の高い女性が立っている。腕を組んでいる。身構えるのも解る。拘束された男性が同室していたから。そして、もう一人が彼女の隣に立っている。


「ごめんね、裡娃(りあ)くん」


 リアと呼ばれた少女の姿をした男子はぎこちない笑顔でうなずく。彼のおかげで、絵梨香の所有権を巡る優先度は僕が上になり、そこで縛られている男に彼女を支配する権限はない。


 男は粒子航行をするための服すら剥奪されており、自力で動けないほど手足を固定されているため、以前のような脅威にはならない。望んでいた結果は得られたが、やはり腑に落ちなかった。


 ここに四人が集まったのは、クシナキを始末する上で、彼の弟もろとも殺す方がよいという話し合いが絵梨香の組織で為されていたからだった。その決定に「待て」をかけたのは僕だった。


「すまない。このような、やり方になってしまって」


 敗北した男は、室内に運び込まれてから終始黙っていた。自分で立ち上がることもできず、視線はまっすぐ床の上を見つめていた。僕の謝罪からわずかな間をおいて、口が開かれた。


「やるなら、そのガキからにしろ」


「お兄ちゃん……」


 リアは絵梨香の腕に手を伸ばす。それを遮るように、容赦ない蹴りが叩き込まれる。衝撃で小さな体が兄のすぐ近くで腰を打ち付けて倒れ込む。僕は立ち上がって、そちらに歩を進めようとした。その動きを制したのはクシナキの言葉だった。


「お前ならわかってんだろ。“死を選ぶ自由”の価値を。だったら、オレはこいつの後に死ぬことを選ぶ」


 いずれにしても決定は揺るがない。いっそ逃れられないのなら、大抵の要望は通してやりたい。敗者といえども、死に方を選ぶ権利があったっていい。


 だが、このまま二人を殺す。危険因子を排除する。それで目的は遂行される。絵梨香にとっても最善の手段なのは解っている。ただ一つ受け入れがたいのは、殺してしまうという決断に落ち着いてしまうことだった。


 彼女には再三、相談はした。彼らを殺さずに済ませる方法がないのかを。しかし、返答はいつでも「死」を提示していた。その論拠は「生かしていても拷問しか待っていない」という重い現実が占めていた。だったら、もう答えは一つしかない。


 その刹那、数発の銃声が鳴り響いた。


「お兄ちゃん!!」

2/3

 控えめに振る舞っていたリアに不似合いな大きな声が室内に響き渡る。


「光陽、これは一体どういうつもり」


 復讐されるべき男の目の前には、僕が射線を遮って立っていた。余さず命中した銃弾が体に侵入して、嫌な感覚を残す。痛みは感じられず、むしろ気持ちが晴れた。


 クシナキは殺される。だが、絵梨香には彼の死に方を選ばせるつもりがなかった。弟の目の前で殺す。それが最も効果的な“復讐”だった。まだ中学生の子供を利用した、あまりに残酷で、両者に与える精神的苦痛の大きい方法だった。


「今ここで、こいつを殺すことは、あなたのためにも、ならない」


 冷淡な氷に研ぎ澄まされていた表情は次第に溶けて、憤怒の焔に焦がされていく。怒りの乗った銃弾が何発も立て続けに僕の方に浴びせられた。着弾する度に、肉体ではないどこか別の部分が悲鳴を上げたがっていた。


 なぜ、僕はこんなにも命にひたむきなのだろう。


 弾切れを起こした拳銃をデスクに放ると、スカートをたくしあげて大腿部(だいたいぶ)に巻かれていた革ケースの刃物を取り出す。絵梨香はその扇状の持ち手を握り込み、すぐ近くに居た少年を背後から抱え込み、小振りのダガーの先端を首に押し当てる。


 少年は身を震わせて、目に涙を溜め込んでいる。そして、顔が青くなっていく。


「望み通り、この子から殺してあげる!」


 透かさず、僕がその刃物を取り上げる。生身の人間には体感できない速さで、そのまま絵梨香の腕を背中に回し込んで押し倒し、組み伏せる。


「ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう!! 放せ! 殺してやる!! 殺してやる、あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁ…………ふっ、あっ……」


 品のある女性とは思えない獣のような咆哮(ほうこう)を手で塞ぎ、ついに気を失うまで抵抗は止まなかった。彼女のこんな姿はこれ以上見たくない。閉ざされた目を見届けて、僕は立ち上がる。


「どういう風の吹き回しだ。なぜ、ガキを助けた」


「僕の独断だ。死にたいなら、いつでも死ねばいい。けれど、お前の弟は、関係ない。生きていたい、という目をしていた」


 クシナキの方を見ると、メカ特有の感情の乏しい顔をしていた。それでも舌打ちを鳴らし、その胸中を垣間見させた。


 これでよかったのか確信は持てない。そこで気絶している少年が安らかに呼吸をしていることが、何よりの救いとなっていた。




 難民キャンプの一角にて。拘束されたままのクシナキの搬送が行われ、転送で先回りした僕はそこで待っていた。部屋は広めで、物置のようにたくさんの道具がコンテナに格納されている。武装や生活用品、食料に至るまで種類別に詰め込まれている。その箱に囲まれるようにして、人が出入りできるわずかな隙間が存在する。


「セッティングは順調だよん。そろそろディックが到着するようだね」


 ディックというのは、彼女がクシナキにつけたあだ名である。ロボットによるガイダンスが再生され、その言葉の意味に関わる諸説をあえて説明してくるが、男性名リチャードとは関係なくて、当然おちんちんを指すでもなく、単に彼の名前をローマ字表記にした時のもじりだった。


 キズカラは所有権を解除されてからも絵梨香たちの組織に居残り、技術者としての手腕を発揮している。その初仕事として任されているのが、クシナキの管理及びメカニカル・ソルジャーの研究だった。大学院で人間管理を専攻しているため、次回の論文の参考にしたいらしい。

3/3

 研究資材がまとめて置かれ、限られた狭い隙間の大部分は機械が置いてあって、一か所だけ堅牢で無骨な座り心地悪そうな硬いイスが中央にある。立ったままコンテナの上に置いたノートパソコンを操作してから、彼女はそこに腰掛ける。


「確認モード、開始」


 その声に反応するように、ひじ置きの内部から円弧を描く金属部品がいくつも飛び出して、両腕のひじから手首までは完全に覆い隠され、足元にも同様の部品が飛び出して、膝から足首までを固定していた。極めつけに、背もたれの隙間から両肩を細長いワイヤーが縛り付け、そのまま胴体に交差して伸縮は腰の隙間で終わり、股関節の方まで巻き付いている。キズカラの体がきつく締め付けられて、やや太った上半身の質感が強調されてしまっている。


「いい感じ。コムちゃーん、そこにあるヘルメットを被せてくんないかな」


 すぐ近くにあった丸帽子の形状をした機械が見える。それを手に取ると、思いのほか軽い。言われた通りにすると、帽子は頭部の下に目掛けて展開されて、フルフェイスのヘルメットみたいに全体を覆った。こちらの声は届かない。作成者の声すらも。


 しばしの沈黙が流れる。ふとノートパソコンのディスプレイに目を向けると、「テスト終了。エンターキーを押してください」と出ている。もう数分が経過した後だった。画面の指示に従う。


 拘束具が一斉に音を立てた。展開されていたそれぞれは内部に格納され、無個性なイスに戻った。そこに座っていた女性は丸帽子型のヘルメットを脱いで、肩で呼吸をしている。


「ぷはー。し、死ぬところだったぜ……。でへ」


 キズカラは局部を押さえる仕草をしてから、部屋を退出していった。




 クシナキの搬入は完了し、若干の心配は残るが、あの変わり者の女性に任せてある。所有権はすでにないものの、指示通りに動いてくれている。


 暫定的所有権の付与はすでに失われていて、僕はだれを選ぶかの振り出しに戻っていた。そんな状況で、地下の奥深くにある部屋に足を運んだ。「人類存続機構」は乗っ取り、「クシナキダイゴ」は取り戻された。充分すぎる戦果を掲げ、これで最後にするつもりで訪ねた。


 決められた道順に従って部屋から部屋へと歩いていく。擦れ違う構成員たちは僕に対しても片膝をついて、頭を下げて見送るようになっていた。その頭を叩くことはせず、無言で通りすぎていく。


 最後の扉が現れた。ドアノブに手を掛ける。その瞬間、電流が走り、立ちくらみが起こる。


「500mAの微弱な電流を検知。感情抑制回路に干渉を起こしました。完全修復まで一時間二三分かかります」


 これから彼女と会う。ただし、感情が抑制されない。0.5アンペアは生身の人間なら感電して死ぬ電流値を超えている。ここに訪れる人間は居ないことを知っての仕掛けだとしても、その心中は察する。


 あいさつくらいはしないと、ここまできて収まりが悪い。気を取り直して、電流が検知され続けている扉を開ける。




13)約束

1/4

 立っているだけでも体の表面が湿っていく日差しの強い日だった。学校は長い休みを迎え、登校日を除いて九月までは営業されていない。部活動を理由に行き来する生徒が居る事を考えれば、一部に限り営業中だともいえる。


 突然、真夏の私生活に放り出されても他の生徒と同じようには喜べない。羊の群れが一つの場所に移動していく場面で、たった一頭だけが集団の後ろの方で行き場を見失っている。どちらを見渡しても思い当たらずに迷っている。


 彼はどこへ行きたかったのだろう。何のために歩いているのだろう。夏休みは僕にとって、長い長い始まりを告げた。仮初めにも与えられた学業という任務がない、遠い道のりへの行軍を。


 七夕を伴って現れ出た月が先祖代々の永い哀しみを連れてくる月に替わる頃、漫画やゲームといった娯楽を持たずに過ごしている僕にとって時間は引き延ばされて感じられた。朝起きて何かを口に入れる。しばらくしたら、空を眺めて最低限の命を地球に向けて誇示する。それに飽き飽きした青空が遠くに引っ込んで、そろそろ帰れと告げる。


 眠っている間だけは解放される。なり振り構わず騒ぎ立つ音は鳴り止み、空気になって潜り込んでくる風の肌触りと刺激のある色を一瞬にして奪い去る。


 そうして覚醒する度に連続した風景に戻されていった。


 記憶に留める価値もなく過ぎゆく一日の途上、代わり映えのない高温の熱量を全身に負い、いずれ辿り着く目標に気が付かないまま歩いた。判ったことは、あの太陽は球面に張り巡らした海原を常に照らし続けている現実だった。浜辺を隔てて僕の視界を包み込む。


 さざ波に連れてこられたのは二人のどちらだったか、ここで相対して感じられた些事は答えを待たずに、緩やかだった時を足早に急かす大切な予感へ変わっていく。


「こんにちは。今日も暑いですね」


 透き通った声をした、涼しい風鈴が鳴った。つばの広い純白の帽子に対応するワンピースのすそが揺れる。汚れた手で触れることのできない生地が包み込む身体の透き通る素肌が美しく光った。描いていた想像上の女性の極致を見た。たった一人、新しく書き足された風景画に固定された僕の世界。


 それが宍戸絵梨香に初めて会った時の、色あせず消えずに残された記憶だった。




 中学卒業を経て女子は「女性」に変貌していく。同じ空間で過ごしていれば判る。だれがだれとどうしてどうなっていくのか。突き詰めると、それが生きていれば必ず通過する“大人になるための階段だ。無知が取り柄だった少女の殻を破り、現れ出るのが美しい蝶であっても、まがまがしい蛾であっても、共通の「羽ばたき」で遠くに飛び立っていく。その行き先に干渉できる立場にない空っぽの僕は一向に興味を持たなかった。

2/4

 年頃の男子程度に興味のある事柄もあった。女子ならどう感じ、どう生きていくのか、という「羽ばたき方」の裏側がそう。僕はその羽を直視せずに、ぼんやりとさなぎだけを眺めて過ごしていたから気付かずにいた。


 絵梨香に抱いた第一印象は“聖人の顕現”であり、その最たるは歴史上に数名居るのだろうけれど、有史以来のだれ一人として類似する存在はなく、僕に使命感を抱かせるほどの尊大さを放っていた。その衝撃は、一言で表せる言葉だった。


「光陽くんには行きたい場所がないのかな」


 連日浜辺にたたずんでいた彼女と「目標」について話したことがある。もう一〇〇日余りで一六歳になるその先に続く、長くても三〇〇〇〇日以内には終わる出来事がある。その進捗率一六%を回った自分が、これからの命を過ごしていくための秘訣(ひけつ)を問い掛けていた。


 相手が年長者だったからではなく、超然とした雰囲気のこの方なら答えてくれる確信があった。


「行きたい所は、ありません。……その足音が今はまだ小さくても、きっと追い付いてきて僕の背中に掴みかかって告げるからです。『ここまで』だと」


 安易に“死”という語を出さないように表現が婉曲になる。それも「試す」ために発せられていた。確信をより現実的にするための、小さな積み重ねの一つ。


 期待通りに、神々しく波風に揺らめいている髪を帽子で押さえている手の、むこうに控える横顔の、瞬く星のようにきらめく光を思わせる視線を、まっすぐに僕へ注ぎ込んだ。その眼(まなこ)は笑っているようにも泣いているようにも見えて、それでも一点を捉えて離さない強固な意志がこもっていた。


「死ぬのが怖くない人なんて、そうは居ないわ。みんな、それぞれ行き先を決めて生きてる。たとえ、それがどんなに不服でもね。なんだかんだ言っても、どこかには行きたいのだから」


 ためらいなく口に出された「死ぬ」という語が、その後の語りによって普段よりも明るい響きに聞こえて、それまで僕の内になかった概念を付け足してくれた。


「見付かるのでしょうか。仮に見付けられたら、そこへ進み続けられると思いますか?」


 熱心に積極的な気持ちから放たれた他人行儀で他人事な質問を投げ掛ける。


「それはあなた次第よ……なんて、いつもの私なら言うのでしょうけれど、言えないわ。いい? よく耳を傾けて聞いていて」


 帽子が青空を求めて舞い上がった。差し伸ばされたしなやかな枝を思わせる白い軌跡が左右から僕に伸びて、日陰を失った麗しき神秘性が正面から迫った。最後に見えたのは閉じられた瞳だった。

3/4

 口にしたことのない初めての味だった。その時、僕はどんな顔をしていたのか判らない。けれど、確かなのはそれまでとは違う様だったのは想像できた。向かい合う可憐な面持ちをじっと見つめる。ああ、心臓というのはここまで大きく鳴ることができたのか。苦しいくらいに、強く何かを主張したがっている。


 しかし、この人が先だ。何も言うな。ただそれだけを念じて、紡がれる真意を待った。


 身長差が戻り、二つの唇は離れ、僕の背中に触れたまま立っている人の姿。その距離はセンチメートルを遥かに縮めたミリメートルの域。まぶたに封印されていた眼差しがゆっくりと甦る。


「私の言う通りにしてくれるなら教えてあげる。行き先の、見つけ方」


 この目は、何かを強く睨み付ける憎しみに似ている。


 それなのに、大きくなった瞳孔を取り巻く角膜は形容できないほどに脆い事情を背負っていて、その正体は解らずとも相反する強さと弱さの混在する「訴え」が、僕の心臓が伝えようとしていた言葉を捻り出した。


「あなたのために、ここに居たい。あなたに、ついていきます」


 聖女を守るために連れてこられた、神からの御遣いが実在するのならば、そうおかしなことではない。創作でも神話でもなく、今ここで僕がその役目を担ってやろう。それが僕の生きる理由には充分すぎるほどに、光栄なものだと身を以て判った。




 世間で言うところの思春期を迎えて以来、僕はだれよりも幸福な立場にあったかもしれない。まず、自分で生きていくための術が身に付いていたからだ。あの人のために尽くすのであれば、自分でできて当然な事はすべてできていなければ話にならない。親の助けに甘えているのは論外だ。


 それまで「やろうとしていなかっただけ」の事を多く始めた。まだ中学生だったにも関わらずアルバイトを始めた。家庭や学校の身の回りに、規則や罰則にうるさく言う人間は居なかった。当時の店長もそれは承知の上で僕を使ってくれていた。大原則「自己責任」。これは社会に出るために課せられる絶対の心構えだ。


 十六歳にして自立できる能力を手に入れたものの、これらは誉められたことじゃない。しかし、過去にこの時ほど「生きている」実感を得た経験はなかった。中学三年の夏休みの某日、海であそこまで人と接した出来事もまた、母親にさえ望めなかったことであり、僕に様々な変化を与えた。


 絵梨香に会えるのはお金を渡す日、すなわち月に一度だけだったが、高校に上がったばかりの四月に一度、金銭に関係なく待ち合わせに誘われたことがあった。わずかに伸びた身長と、体もほんの少し大人になった自分を認めてもらえたのなら、これ以上の幸せはない。


 髪型の変わった絵梨香はさらに女性的な魅力がついて、出会った頃よりも棘(とげ)が鋭くなった目をするようになっていて、時の流れを暗示していた。二人だけの入学祝いの席で、僕に語ってくれたのはごく限られた日常会話だけだった。


 背が高く大人っぽく見えた絵梨香は高校を卒業したばかりだという。年齢差が明らかになり、何かが減ったわけではない。もとより、僕は「そういう付き合い」には期待していなかった。たとえ、すでに交際相手が居たとしても構わなかった。会えなくても、関わりを持ち同じ時代を生きていることこそが誇りで、そもそも女性との交際を知らなかった。


 目的がある日々を重ね、それはいつにも増して暖かな春だった。二度目の夏が過ぎて、秋を迎えて、このまま続いていく。それが僕の「行き先」になりつつあった。きたる冬もそれを承知しているとは限らなかったのに。

4/4

 肌寒くなる師走の中旬に、舞い降りる白い粒が夕刻の街をきらきら飾り立てた。あの人に会うために必要な持ち合わせを用意して駆け出す。柄にもなく力のこもった脚は前向きな命の為せる業だった。


 従来の待ち合わせ先は路地裏や駐車場がよく選ばれる傾向にある中、この日の指定されている所には小さな人だかりができている。イルミネーションで多彩な光を放つ街路樹を囲むまるいベンチと石畳の通路がある駅前の広場。その一か所に男性が多く集まっている。


 群れの後ろから背伸びをして様子をうかがうと、前の方ではダークグレーのコートを着た髪の長い女性が男性と一対一で座って会話をしている。庶民的な黒いキャスケット帽子を目深に被っている彼女の口元は緩む。聞くところによると、彼らはナンパをしているらしい。ここに居る全員。先ほどまで話していた男性がそろりと立ち上がると、次の男性が隣に腰掛ける。順番を待たなければならないのか。


 待ち合わせは午後五時ではあったものの、午後六時一〇分を回った頃、ようやく僕は待ち合わせの相手の隣に腰掛けた。「ごめん! ミッチー」そう言って、突然立ち上がり、反射的に対応する僕の手を取って、順番待ちの人混みをかき分けていく。


 広場を抜け出して、近くの公園に入っていく。雪は降り頻り、日が落ちて点いた街灯にイルミネーションも負けじと光っている。通行人の多くは連れ添った男女。僕にはひどく場違いな所だった。手を繋いだ、この人の存在がなかったのなら。


 絵梨香は本心からそう思っているように頭を下げて謝った。「嫌だったでしょ? 他の人と話してたの」心当たりがなく、否定の意を示すと、彼女は安堵するわけではなく、逆に僕のわき腹を小突いて牙を剥いた。被っている黒い帽子を誉めると、許してくれた。被ってなかったら、今頃午後七時を回っていたとは思うけど、髪や顔を隠してしまう慎ましい印象は嫌いではなかった。


 いつもなら封筒を受け取って帰るだけなのに、僕の腕に手を添えて、ゆっくり前を歩いていく。予感はしていた。この日は何かが違う。会話もなく付き従って、後ろを歩いていく。僕にできることはいつだってそれだけ。それ以上でもそれ以下でもない。


 公園の行き止まりにある池の前で、長いコートのすそが翻った。ポケットに差し込まれた両手が外に出る。中に入っていた物が落ちる。通信用の携帯端末と札のはみ出した封筒の数々。遅れて落ちた帽子がそれらを覆い隠す。


 白色の冷たさが落ちる天に、つやのある黒い髪がさらされる。すぐに拾うのをあきらめ、曲げようとされていた背を伸ばして、まっすぐに正面を見上げる。


「あなたに話したいことがある。大事な話」


 冬の寒さで凛と澄みきった眼差しが向けられていた。この人の、この角膜を、僕は一度見たことがある。大丈夫。その「訴え」は僕の行動原理を支えるものを裏付けてくれる。語られる事情を、何も疑わず信じよう。


 僕の行き先はもう見付かっていたのだから。




14)眼 -まなこ-

1/3

 扉を開ける。


 室内の事態が視界に飛び込んできた瞬間、思考よりも先に体が働いた。刃物を掴み取り、奪い取る。それを握っていた女性はベッド上で腕を後ろ手に縛られている。奪い取った時に室内にある物で僕が縛り付けたためである。


 着ていないようで着ている部屋着の時とは雰囲気の異なる、黒いドレスの装い。表情は怒りにも悲しみにも分類できないぎこちないものだった。


「やっと、来てくれたか。遅いよ」


 その声色を聞いて、慌てる必要がなくなった。この人にはその気がない。そういう人が放つ声の感じとは思えないのだ。複雑な輝きはこちらではなく、壁に架かっている帽子に向けられている。その眼差しは人類解放を志す組織の長としての目ではなくて、緊張がほどけた親しげな関係者と過ごすものだった。その既視感に、空気の冷たさが覆い被さる。


 枕に頭を着地させるように体ごと後ろに倒し込んで、短い吐息を吐いて横になる。仰向けになって、体つきの向こうから僕を見下すような視線を伸ばす。


「まさか、あたしがほんとに死ぬと思った? アハハ」


 問いに対する返答は無言だった。言いたいことはそういうことじゃない。かつて、彼女の神性を垣間見ていた僕には確信がある。眼差しでの「訴え」。立場は逆になってしまったが、込められているのは決して後ろ向きなものじゃない。


 手を使わずに起き上がり、ベッドから立ち上がった。


「…………十二月一八日。会いに行けなくてごめんなさい。言い訳はしない。私はそこに行かなかった」


 三年間、それだけをずっと目的にしていた。命を放り出すに相当した大切な、たった一つの約束。気まぐれな女性が行う通常の反故ならば、あきらめはしなかった。他ならぬ彼女からの失望が与える影響は作用して、僕をあきらめさせた。何がいけなかったのかを考えずに、先が見えなくなった。


 咎めることも許すこともしなかった。僕はたった一言、それだけのために来たのだ。


 時間は刻一刻と生きとし生けるものを余さず連れていく。その見えない流れが二人を引き裂いたとしても。沈黙が流れる。時は満ちる。言う。生きている二人に相応しい言葉を。


「絵梨香さん、会えてよかった。さようなら」


「待って。……まだ、そこに居て」


 地下の深いここで転送は使えない。僕の足は決して重くはなかった。無視して帰ることもできた。それが何を意味しているのか、彼女は知っていた。


「もう光陽は見付けたんだね。『行き先』を。あなたは“一人でも”生きていける。自分の意志で選んで、決定していける」


 僕の向かう先はすでに絵梨香とは交わらない。そのせいで、元々彼女の所有権が得られなかった。部屋を静寂が支配し、別れの時は迫っていた。

2/3

 扉に電流を流している装置の電源を落とし、ドアノブに手を掛ける。


「これだけは忘れないでいて。メカトロニクス・ムーブメントはあなたたちを甦らせて、何かをさせようとしている。もう、始まっているのかもしれない。気を付けなさい」


 僕は駆け寄った。


「メカトロニクス・ムーブメントとは、なんのことだ? 僕は、僕は……」


 目の前の人は首を横に振ったきり押し黙った。視線を逸らすと、突然首元に激痛が走る。それは彼女が噛みついているからだとすぐに気が付いた。痛覚が機能している……。


「システム異常を検知。ただちに拠点まで戻り、問題の解決を行ってください。システム異常発生」


 頭の中でロボットの声が騒がしく促す。オフラインモードのため、この状況はモニタ部屋には伝わらない。それよりも体が熱い。立っているのもつらくなって、床に膝を付く。


「手荒な真似をしてごめんなさい。これでしばらく記録は残らない。……今のあなたに聞いておきたいことがある」


 頭の中がぐらぐら揺れているようで気持ちの悪い感覚。意識を保つだけでも過度な精神力を要求される。ここで屈したら終わってしまう。直感していた。倒れてはいけない。


「人間側の味方をしてくれる意志はある?」


 その質問を受けて、台の上で目覚めた日の事を思い出す。情報の少ない視界の中。男の声。やつらが考えていること……。「あなたが思っているほど我々は甘くはないです」覆い被さるように声が脳裏で響く。悪い予感が過る。


 僕は人間の味方を、できない。胸中で沸々と湧き上がってくる負の感情に押し潰される。


「しっかりなさい! 籠河光陽! あなたは、だれかの所有物なの?」


 絵梨香の声が頭に響いて、吹き荒れる憎悪の嵐と拮抗する。生きるために目的が得られるのなら、この体がどうなっていようと構わない。しかし、これから選んだ行動には相応の責任が伴う。


 あちら側に着けば、僕は支配する側になれる。好きな人間を隣において、ロボットたちが指し示す未来へ向けて。生前には行けなかった高みから見下ろす世界の行方。死から逃れ、無感情に立ちはだかる様々を処理していく。


 人間として生きるなら、支配される側に戻るが、僕はもう一度、絵梨香のかたわらで生きていく。その道は果てしなく、勝機の一つもない。地獄行きの選択。死を恐れはしていない。怖いのはたった一つ。


「絵梨香、僕はあなたと共に行けない。だけど、ありがとう。いずれ必ず、あなたに……くっ」


 言わなければならないのに、時間切れのようだった。薄れゆく意識の最中、その人の眼差しはあの頃と同じく、僕を見つめて瞬いた。大きく開かれた瞳孔を取り巻く角膜が訴えかけていた。「私を信じて」

3/3

 目が覚める。この感覚は久しい。眠らない体になってから、初めてだった。それが一か月に達していないとしても、一日を二四時間過ごすのなら、通常の人間の倍以上の時間を体感しているようなものだ。……緑色の照明が見える。モニタ部屋に戻ってきていた。今日は何日になるのだろうか。


「心配しなくても大丈夫ですよ。コメカワサマ」


 僕を見下ろしているロボットがモニタに表示されている時刻を読み上げる。


 一月一二日午前五時一一分。一日は無駄にしてしまったことになる。最後の記憶を辿る。思い浮かぶ一人の女性の姿が儚く消えていく。


「シシツキエルカなら無事です」


 硬質の人型が折り曲げた膝に続く太ももを枕にしていた頭を上げ、体は起き上がる。記憶に残っていたのは、絵梨香が「メカトロニクス・ムーブメント」を言及した辺りだった。それ以降はもやがかかったみたいに不鮮明な断片的な情報になっている。しかし、別れ際の彼女に憎しみを抱いていたわけではなかったようだ。


「生身の人間が我々に敵うはずはありません。彼女の次の目的は機械への反乱なのでしょう。……閲覧レベルSの閲覧が許可されました。『メカトロニクス・ムーブメント』はワタシの故郷です」


 ロボットが興味深い事を述べた直後、天井から声がした。聞いたことのある男性の太い声だった。


「諸君はこの期に及んで、まだだれ一人として人間の権限を得られていない。促進せねばなるまい」


 放送は無愛想に一瞬で切れた。束の間の静けさを切り裂いたのは、やはりロボットの音声だった。伝達事項があると前置きをつけて、上位者の意図を語り始める。


「コメカワサマを含め、残るオーナー候補は五人です。この五人は人間を「モニタ」で監視した上で毎日二〇人ずつ、共通した特徴を持つ人間を殺りくしてください。ただし、だれか一人の所有権を得るか自身が死に至った場合はそこで終了です。期限は変わらず一月二〇日終了時点までです」


 その指令に僕は否定的な感情を引き出すべきなのだろうけれど、不思議と抵抗感はなかった。

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