第二章 戦い (5)~(9)

5)勝敗

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 十二月二八日。


「シシツキエルカの事を調べているようですが、どうしたんですか」


 ロボットは直接聞かなくても解っていることを聞いてくる。だが、あえてその「雑談」に興じておく。


「絵梨香は、人間側に、追われ続けている。この服と同じものを渡せば、もう少しゆっくり会話ができるんじゃ、ないのか」


「残念ながら我々のテクノロジーは旧人類を指向しておりません。粒子航行の実現には、トランジスタや半導体素子を五七五七基搭載した超高密度な集積回路七七七一個を擁する旧世代型『EX-θ(シータ=9=シリーズ)』の下位互換相当、スーパーコンピューター『MF-η(イータ=8=シリーズ)』程度の代理演算は必須ですし、コメカワサマの着ておられるそれにもη世代の同様の集積回路が繊維状に細分化されて六つも内蔵されているのです。コメカワサマご自身にも――閲覧レベルSに該当するため、ガイダンスを中止します――というわけですから、シシツキエルカはあなたが所有権を得ない限り、同様の転送をご利用いただけません」


 改めてロボットらしい詳細な解説をしてくれたものの、彼女には転送を利用できないという結論以外は何一つ理解できなかった。


 今さらだが、僕の体はもう生身の人間とは言い難い状態だと判っている。眠くならないし、お腹も空かないし、それだから当然疲れることもない。「やりたいこと」が明確に定まっていない時は、この異常を特に有り難がる理由もなかった。


 このモニタ室で絵梨香のデータに目を通してしまうまでは。


「誠に残念ながらシシツキエルカは他の“オーナー”の先約を待つ身です」


 目覚めた時にも聞かされていたが、いわゆる「選ばれた人間」は僕の他にも居たのだった。深く意識していなかったせいか、こうした事態を予想に入れてなかった。


「そんな話、聞いていない」


「つい先日から、お申し出が入ったのです。規則のため、コメカワサマの事も同様に、オーナー間の個人情報を双方に明かすことはできません」


 絵梨香が別の者の手に落ちれば、僕は潔くあきらめて違うことを考えて生きていく。それも悪くない。


 ……というふうに考えていたのは数日前までだった。人が死ぬという出来事に身近で関わって、それまでよりも鈍重で錆び付いていた鉛のような体は段々と軽くなっていき、いつまでも一点に留まっていようとする落ち着きもなくなっていた。


「ですが、一つご提案があります」


 ロボットは絵梨香を所有権取得の候補として推薦していたものの、僕がすぐに決断できなかったのは「こちら側に匿うための条件付き」だという先入観があったためと捉え、その責任の一端は自身にもあると進言した上で、こう付け加えた。


「シシツキエルカを所有するまでに、コメカワサマには『既に与えられている所有権獲得とは別として、暫定的所有権獲得の権利を一人分与える』という特例を上に請求したいと考えています」


 説明によると、暫定的所有権とは、最終決定となる所有権を得るのではなく、仮として一定期間だけ特定の人物を所有するという内容だ。もちろん、そのまま永続的な所有権を取得する運びにもできるらしく、こちらには不利な要素が見当たらない提案だった。

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 ロボットが沈黙して数分後、それまでモニタを眺めていたのだが、興味を持てる人物は数が少なく、そのだれもがそれぞれの生活に懸命で、とても所有権といった余地を挟み込めるほどではなかった。できるなら、かつての僕のように生きる目的を失った人であれば、と思っていた。知り合いにそうした稀有な人間は居ないとも思われた。


 忘れていたわけではないが、いつもの「癖」で意識的に候補から除外していた少女に目をやる。その子は学校で授業を受けているものの、黒板の文字には無関心で、ノートをいたずらに黒く塗り潰して、消しゴムで消しては、また黒く塗り潰している。生徒も教師も、周りの他人はそれを気にするでもなく、時間が過ぎていく。


「カグラヲチ、ですか」


 唐突に横のロボットが音声を発して、少し後ずさる。その反応を見て、わざとらしくお辞儀を交えて、進捗を語った。


「いきなり話し掛けてしまい申し訳ありません。さて、回答についてお話ししてもよろしいでしょうか」


「いいだろう。続けてくれ」


 事務的なしゃべり方の中にも、言葉が持つ語気でわずかながらに感情が伝わってくる。それがこのロボットの奇妙なところではあるが、この数日(一度も寝ていないから通常の三倍以上の時間的感覚で)同席していて馴れた。


 請求については概ね認可が下りたという報せだった。暫定的所有権が有する日数はロボットの裁量により決定することと指定され、事実上、僕がそれを提案してもよいことを意味していた。


「残すところ二三日一二時間五七分二七秒です。日数の指定は受け付けますが、現実的な範囲に限られます。たとえば、最終日の一月二〇日はご指定いただけません。一九日終了時刻までを指定できますが、二〇日には所有権が破棄されます」


「最長の期間を、指定した時に、何か不都合はあるだろうか」


 暫定的な所有権といえども、その間は「他のだれか」を選ぶことができない。つまり、変更が効かない点についての質問を意図していた。


「暫定的所有権もまた『一人につき一度だけ』という制約が存在します。しかし、これは期限が定められた所有権のため、人数に上限はありません。期間を最短の一日とするならば、現在からですと、暫定的所有権は二九日から始まり、最大で二三名の所有権をそれぞれ当日間だけ取得していただけます。注意事項として、次の候補は日付終了までにワタシにお申し付けください。翌日午前〇時〇〇分〇〇秒を以て、次の所有権に自動的に切り替えいたします」


 それを聞かされて、ようやく選択の幅が拡がった。一日だと相手の特性を知るのにも時間を要するが、最低でも二日程度あれば……。まだ問題は残っていた。

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「暫定的所有権の期限は、途中で変更することもできるのか」


「既に暫定的所有権を取得中の人間に関しては変更不可です。定められた日付終了時点で剥奪されます。ただし、取得以前であれば、その都度期限の設定はできますよ。最終日が一月一九日になる点は守っていただきますが。もちろん、期限のない永続的な所有権に移行する手続きなら取得前後を問わずいつでもお受けします。永続的な所有権を決定した場合、変更はできませんのでご注意ください」


 主旨は掴んだ。絵梨香を所有するまでの代替として、他の人間の所有権を得られる。その期限は一月一九日まででこちらが自由に決められて、必要ならばその者の所有権を永続的に取得できる。


 僕には一つ思い付いていた。絵梨香を助け出す方法に。


「それともう一つ」


 ロボットは最後に念を押した。


「シシツキエルカが先約の“オーナー”に所有権を奪われた場合、進行中の暫定的所有権は消失し、その後の暫定的所有権もなくなります。システムの性質上、その後、それまで取得した所有権の人間は再度お選びいただけません」


 大事な前提だった。そうとなったら、安易な気持ちでお願いするわけにはいかなくなる。先程まで見ていたモニタから目を逸らし、別の候補者を捜すことに決めた。




 モニタ部屋での人選にはいくつか当てがあった。その前に、僕は彼女にもう一度会うために、明かりの乏しい地下空洞に転送された。広さは手狭なモニタ部屋の四倍以上はある。座標が割り出されて到着したものの、システムで追跡できるのはこの近辺が最後だという。


「コメカワサマ、気を付けてください。後方から来ます」


 小気味よい蹴り出しの足音が、脳内でロボットに言われた通りの方から聴こえてくる。瞬間にして、およそ三秒にも満たないうちに、その距離は数メートルと縮まって、僕の視界は赤く染まる。体ががっくりと地面に倒れ込む。痛みはないが、このままだと死ぬ。


「侵入者かと思えば、ガキか。わりぃな。お前に恨みはねぇんだが、命令でね」


「命令、されたら、殺すのか」


 胸部を鋭利な刃物で抉られて絶命は必至の重傷を負った体が、糸で吊られたように持ち上がる。頭の中でロボットが「自然治癒、稼働率九一パーセント」と告げる。


 武装したマント姿の男は跳びのいて、逆手に握ったナイフを後方に放り投げて、懐に手を差し込んで、油断ない好戦的な目付きでこちらを見る。


「ああ。命令に逆らうも従うも、オレの意思でな」


 取り出した拳銃を素早く構えると、その銃口を即座に微調整しつつ、的確な角度で引き金が引かれた。発砲のうるさい音が響いた直後、僕の眼球に弾丸が当たる映像が飛び込んでくる。「到達、0.3秒後」アナウンスが鳴り、反射的に顔を傾ける。弾が頭のすぐ横を通り抜け、奥の壁に当たる。跳弾はせず、じわじわと消える。


「次、0.7、0.6……その次、0.8、0.7……」声は、一秒間の出来事を一〇〇分の一程度に細分化された感覚で伝えてくる。次第に加速していく意識が、0.01秒単位で弾丸を捉え、脚を狙った追撃も、腕をかすめる凡ミスも、傷付いた胸部を狙った三連射をも、苦労なく避ける。

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「化け物か、お前。解ってはいたことだが。ここまでだ」


 僕を襲っていたのは勇ましい顔をした若い男だった。彼の手にしている拳銃には、型式から推察されて、あと一発だけ残っているとロボットからのデータが受信されている。しかし、もはやその武装で僕を倒すことはできない。


 男性は銃口を自身のこめかみに当てる。0.2秒、0.19……頭の奥で浮かび上がる数字が0になる前に、僕は音を超える速さで拳銃のスライド部分に手を掛けて、銃口を天井に向かせる。引き金が絞られると同時に、どこかの扉が開いた。


「ミズグチ!」


「来ちゃいけない!!」


 銃声が鳴る。場が沈黙に包まれる。明かりが差し込む部屋から出てきた女性は銃撃戦とは不釣り合いなドレスに身を包んだ絵梨香だった。こちらに駆け寄ってきて、近くまで来ると、焦燥の表情が一変して、別種の驚きに上書きされる。


「トゥエルブ、こいつは『メカニカル・ソルジャー』だ。逃げろ」


「ククク、ハハハハ、アッハッハッハッハッ!」


「え?」


 絵梨香は腰に手を当てて仁王立ちして、雄叫びにも近い笑い声を轟かせた。その場違いな反応を目の当たりにしたミズグチと呼ばれた男は空になった鉄砲を足下にこぼし、呆然と立ち尽くしていた。


「ここまで来るとは。……じゃあ、仕方ない。入りな」


 そう言われて彼女の正面まで歩み寄る。すると、その細くて華奢(きゃしゃ)な腕からは想像できないしなやかな動きでドレスの胸元から小さな拳銃、ロボットの補足によると通称「デリンジャー」が取り出され、僕の額に押し当てられた。ためらいなく射撃される。


「ゑ瑠……寡……」


 倒れたのは僕の後ろに立っていた男性だった。「拾わせたはずの命」が硬い地面に倒れ落ちていく様を見た、彼女の瞳がほんのわずかに揺らいだのを僕は見逃さなかった。一秒にも満たない時間に、デリンジャーを豊満な胸の谷間に戻し、その感情は跡にも残らず冷淡な目に戻った。


「その動き。光陽、本当に『メカ』なんだね」


「なぜ、殺した」


 僕は尋ねた。


「あんたが『二度』勝ち、彼は『二度』負けた。戦う以上、死ぬことからは逃れられない。……それで、用件は何? メカトロニクス・ムーブメントの使者がわざわざこんな難民キャンプまで」


 聞き覚えのない単語ではあったものの、ロボットによる言語解説補助は動作していない。普段だったら視覚・聴覚の情報は優先して、詳細まで自動解説するのに。


 そんなことよりも伝えに来たのだった。


「僕は、あなたが欲しい」


 その言葉がどんな印象を与えたのかは明確だった。絵梨香の顔が不敵な笑みに戻る。


「欲しければ、実力で奪い取りなさい。あたしはあんたが『思っているほど』の女。そう簡単じゃないのは解っているわよね」


 飾らない強情さが懐かしくなった。この人はこういう人だ。何事にも屈服せず、常に何かに向かっている遠い眼差し。それでいて、本心を打ち明けない歪な強さが殻みたいに覆っている。


 生前の僕からすべてを奪った彼女だが、一生涯、やはりこの人のことをだれかの下に位置付けることはできなかった。




6)黒棘姫 -クロイバラヒメ-

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 難民キャンプとしての地下空洞の奥に案内された。アリの巣を思わせる階層で形成された複数の居室が廊下を隔てていくつも枝分かれしている。ここに来てから電波が入らないせいか、ロボットから提供されていたガイダンスはオフラインモードに移行しており、転送を含めた各種通信を用いた機能が完全に使用不可能になっている。


「コメカワサマ。この場所を記録するためのナノボットを生成できます。右手第二指をご覧くださいませ」


 オフラインなのに、閉塞環境を予測した提案を寄越す。見る間に人差し指の爪が長く伸びてきた。これを切って部屋内に配置すれば、あとで周囲の情報を確認できるらしい。だが、それでは彼女を狙っている“オーナー”にも情報がゆくのではないか。


「その心配はございません。オーナー間の『個人情報保護』は厳守されます。何より、ワタシもコメカワサマには“正規オーナー”として過ごしていただきたいのです。その妨害になるような行為はいたしません」


 いつも通り、協力的だった。だれが何のために用意したロボットかは明らかにされていないが、僕には大きな関わりがないと思っていた。


 幾重にも張り巡らされた、防護扉を兼ねる個室を一階層に三~四室ずつから一室選び、これを繰り返した。どの部屋にも武装した男性が二人以上は待機していて、絵梨香が通ると片膝を着いて頭を下げている。時折、忠誠心を表す部下の頭を気紛れにはたくと、そのかたわらに置かれていた銃器や武具、防具等が一点ずつ手渡された。しかも、厳選しているみたいだった。


 無数の分岐した部屋を決められた順番に進んでいくと、一際大きな部屋があった(正解パターンは記憶した)。その頃には、ドレス姿の女性は紛争地帯の傭兵じみた装いと備えを抱えて、最奥部への入室を果たした。


「ここがあたしの部屋。しばらくしたら、用事があってここを出るけれど、残りの時間くらいは付き合ってあげる。ざっと八三分間。勝者の特権ね。強い人は、あたしも好きだし。好きになさい」


 集めた武装を解除し、まとっていたドレスも行儀悪く脱ぎ捨てる。


 ドレス下に隠し持っていた武器は一〇や二〇では収まらない。口の中から、局部の中まで、ありとあらゆる部分にも隠すのに適したものが出てきた。ガイダンスによると、歯の間から取り出されたあのカプセルにはトリカブトと呼ばれる毒草の一〇〇倍は強い劇薬が感知された。局部から出てきた入り口の広いゴム製の細長いものには、黄色の毒ガエル一〇〇〇匹分は超える神経毒が感知されたとも。その他、錠剤や針、香水等は序章に過ぎなかった。


「だけど、どうして。それで僕を、殺せたかも、しれないのに」


 何も知らずに僕が彼女に触れでもしたら、間違いなく死亡していただろう。あの特殊なコンドームを見れば一目で解る。


「ぷっ。あんたが、そんな度胸のある男じゃないって知ってるわよ。それでもあえてこうして『無防備』な状態を作ってるんじゃない」


 およそ理解できなかった。三年も前に連絡が途絶えたきり、先日突然会いに来たばかりの男の前で、ここまで堂々とした軽率を見せびらかすほどの愚かさを。それで僕は改めて質問した。すると、彼女はあの頃のような少女の顔を思わせるいたずらな笑顔を浮かべて言った。


「趣味、だから? あはっ」

2/3

 食えない人だった。食おうとしたことは更々ないが。相手は一糸まとわぬ姿をしていて、それでも脚を組んで堂々とベッドに座っている。透き通る白い肌を観察していると、女性は体を仰向けに倒した姿勢で横になって、近くまで来るように手招く。


 僕はその美しい容貌に心では慌てていたが、この体になってから、何かの不具合みたいに声にも顔にも感情がこもらなくなっていた。立っていたのでは落ち着きがなく、それとなく隣に座り、再会してから言えずに居た言葉を、切り出した。


「あの時。どうして、会いに来て、くれなかった」


 さかのぼること三年。まだ僕が高校に通っていた頃、絵梨香には一年間ほど無償で金銭的な援助を行っていた。見返りを期待していたわけでは、なかった。当時は、アルバイトで働いて得たお金を彼女に捧げることが「唯一の目的」だった。


 生きる目標もなく過ごしていた僕に価値を与えてくれたのが絵梨香だった。十二月一八日。最後のお金を渡そうとした以来、彼女は「もう助かったから大丈夫」と言って受け取らず、僕にお金を要求しなくなった。ある約束を言い残して、姿を消した。


「んー。どうしてだろ。……それよりあんた、死ねなかったんだ」


「死のうとは、した。死ねなかった」


 無機質な声だったろう。豪快に笑い飛ばしてくれたら、僕としてもそれが一番よかった。しかし、沈黙は破られることなく、密かにベッドのシーツを動く人肌が滑る音が耳に入った。すると、その細い腕が僕を包み込んで、力一杯きつく肩を掴んだ。


「バカ光陽。…………私のこと、本当に待ってたの? 三年間も」


「約束、だったから」


 そのささやきはあの時、聞かせてくれたやさしい声と同じだった。「三年後、会いに行くから、それまで一人で生きているように」絵梨香が僕に与えた「最後の目的」。裏切られたのなら、それはそれで仕方ない。日付を間違えているかもしれないとも思った。


 しかし、せわしく過ぎていく年月の中で、僕を繋ぎ止めていた鎖は「その日」で千切れていた。


「……フンッ。だまされていたとも知らずに。あーあ、興が醒めた」


 抱きついていた僕から離れ、それとなく手繰り寄せた薄地の毛布で、露になっていた身を隠す。その行動と裏腹に、真剣だった顔が楽天的な微笑に戻っていく。どちらが本当の彼女の姿なのか分かる程、長くは付き合ってきてない。それでも、僕は伝えるべき事を伝えようと思った。


「絵梨香。あなたに、言いたいことが、ある」


 改まった前置きに、意外なほど素直に応えてみせた。


「言ってみなさい」


 それは、ここに訪れた最大の理由。


「あなたは“あちら側”から狙われている」

3/3

 追われているのはさも当然、と言わんばかりに絵梨香は鼻で笑う。だが、国際手配されている絵梨香にとっては、新しい問題が起こりつつあった。言わないで放っておけば、約束を反故にした人間への罰は自ずと下されていた。


 それは僕の本心じゃない。


「僕は、ある事情から、あなたを、絶対的に支配、する権利を、持っていた」


「…………」


「だけど、僕は、それを、しなかった。そのために、今は、支配する権利が、別の人間に、ある」


 もうすぐで、自分の思ったように生きられなくなる。その恐ろしさは期限を与えられている僕にも理解できた。自分の気持ちを無視して生かされるのは、死ぬよりも嫌だ。


「そいつは、あなたを奪う、機をうかがっている。そうなる前に、僕が、なんとか、する」


 絵梨香の顔からは笑みも余裕もろとも消えていた。先程の真剣さにはまさらない神妙な顔付きで、口元に手を添えている。


「待ちなさい。まさか、あんたは、あたしを“また”助けようだなどと考えているの?」


 助けたい、のかもしれない。絵梨香もやがては死んでしまうだろうけれど、その最期はなるべくならよい方向にいってもらいたい。それが、死を選んだ僕のできる、肯定的な動機でもある。


「どう生きるか、も、どう死ぬか、も、あなたが、決めること。……僕は、そのままの、あなたが、欲しい。生きる、目的をくれる、あなたが」


 永続的な所有権などに興味はなかった。このままいくと、僕は二度目の死を迎えるか、一生だれかの命令に従い続けるごみになるか、二つに一つだろう。幸せな結末なんて待っていない。それでもできることがある。それが――


「あなたの死は、僕が守る」


 ――失われた僕の生きる理由、それを付け足し補うもの。僕は迷いなく、現在の「目的」を断言した。


 すると、容赦ない掌底で背中を突かれた。


「ばかたれ。あんたは、どうしようもないバカよ! はあ。でも気に入った。……今日の作戦にあんたも加えてあげる。どこまでやれるか、見せてみなさい」


 そう言って、立て続けにあばらにパンチを叩き込んでくる。痛みは感じられない。しかし、その無邪気な少女のような笑みと共にうっすらと浮かんだ目元の雫に、胸の奥が痛んだような、気がした。




7)人脈

1/3

 十二月二九日。


 僕はモニタ部屋に居た。


 先日、絵梨香に連れ立って参加した「作戦」は人間側を管理している上層部の機密情報を内通者から受け取るという簡単なものだった。戦闘や駆け引きをしない点ではそうなのだが、関係者に繋がりを持つことに考えさせられた。


「現在、コメカワサマが所有されているソウナキキムは、非常に普遍的な市民です。初めてでもきっと、上手に扱えるでしょう」


 モニタには、淡い黄色の短髪をした小柄な若い女性が下着姿でベッドに横たわって映っている。カグラや絵梨香が平均的よりやや高いのと比較しての身長である。ソウナより背丈の小さい人は一定数居る。


「ですが、彼女にはすでに交際相手が居るようですね」


 ソウナの隣には、同年代と思われる男性が同じくパンツ姿で横になっていた。驚くことではない。高校在学時でも、卒業してからでも、よい相手が居たらそうなるだろうから、きっと世の中の女性は思いのほか、男性と親しく関わって過ごしている。


 内向的で他人をよく見ようとしていなかった僕なんかとは違う。


 年明けまで幾日もない。日の出と共に、男と一緒にシャワーを済ませたソウナはちゃんと服を着て、スカートも穿いて、大きな建物の中から出てきた。交際相手らしき男性と別れて、満たされたような晴れ晴れした顔で街に歩き出す。


「転送を、頼む」


「承知しました。ですが、“彼”の方でよろしいのですか」


 僕には考えがあった。ソウナと夜を明かした男がどういう暮らしをしているのか。




 その後、ソウナの交際相手、カヤギサユキスはインターネット喫茶に立ち寄っていた。ロボットからの案内を元に追い付いた僕はその隣のブースに入る。フラットシートの上でじっと座って目の前のパソコンのディスプレイを眺める。そこから頻りにマウスをクリックする音がする。一時間少々滞在したところで、カヤギサは動いた。


 会計を進め店を出ていく彼に倣い、僕もまた支払いを済ませる。


 後を追い掛けると、男は駅の方に歩き出して、南口付近に立ち止まった。手元では、連絡に使われる小型の携帯端末の画面に視線を落とし、操作している。バス停やタクシー乗り場からは離れているため、だれか人を待っているようにも見える。僕はロータリーを挟んだ向かい側の道からその様子をうかがう。


 待つこと数分、プラットホームからロングヘアの若い女性が歩いてきた。冬支度の上着をまとっていても、カヤギサとほとんど変わらないくらい背が高く(絵梨香よりは低い)、細い体型なのが判る。家族なのか友人なのか。見ていたら、二人は腕を組んで、恋人のようにバス停の方へ歩いていく。


 僕は追跡を中止した。そこで、ロボットに、ある命令を下した。


「たった今、ソウナキキムをコメカワサマの居る座標に誘導しました」

2/3

 暫定的所有権はロボットを介して、その効力を発揮した。永続的になれば、文字通り「意のままに」対象の人間を操れるようになる事を踏まえると、まさしく“トライアル”とも呼べる。この能力を断片的にでも行使している現実を垣間見ると、絵梨香に向けられる心配はより大きくなった。


 そうして、考え事をしながら待つこと数十分。


 駅の南口から、恋人と会うための先程とは違った服装のソウナが現れた。市販の緑ジャージに黒い大きめな男物のジャンパーを着込み、眼鏡を掛けていて、赤系のニット帽を被っている。靴は新しめで、良心的なスニーカー。個性的、ではあるが、通行人が行き交う駅前では映えない服装だと思った。


「……あれ、わたし、なんでこんなところに来たんだろ。って、いやぁっ!」


 僕の近くまで歩いてきて、急に身なりを気にし出した。顔を赤くして、辺りを見渡してはうつむいて歩いてくる。前方不注意でぶつかりそうになる彼女の両肩に手を置いて、その足を止める。


「籠河、くん?」


 卒業式以来、会っていなかった彼女、ソウナキキムは高校時代の同級生の一人だった。




 二人で街を歩いている。その個性的な服装は、自室で過ごす時の部屋着らしい。自分の意思がなかったのなら無理もない。それよりも、交際相手が居るにも関わらず、特に何も言ってこない。僕に「その気」がないのは、さすがに判るのか。


「籠河くんは変わらないなぁ。彼女はできたの?」


 警戒心はなく、それどころか他人事のように聞いてくる。高校時代のソウナはいつも眼鏡を掛けていて、黒かった髪は肩の辺りまで伸びていた、典型的な女子学生だった。それがここまで活動的な印象に変わるのも、時間が為せる無常ともいえる。髪型だけで見違えた。おかげで、モニタで捜すのも苦労した。


「欲しいと、思ったことは、ない」


「ふっ。教室でもそんな感じだったもんね。心ここにあらず、っていうの?」


 ソウナとは委員会が同じで、他の同級生と比べて話すことがほんの少しだけあっただけの関係だ。特筆すべき出来事もなく、飽くまで卒業した高校が同じだったあかの他人に過ぎない。わざわざ思い出話をするために、そんな人を呼んだわけじゃなかった。


 目的がとにかく何とは告げず、僕は彼女に依頼をした。いや、半ば所有権を行使する形になっていた。だから、断られることもなく素直に従わせた。


 二人は会ってから数十分も会話はせず、元の駅前で別れる。




 モニタ部屋に戻ってくるや否や、ディスプレイに目をやる。ソウナの近辺にあった縁取りがより細かなものに拡がりをみせている。これが僕の目的だった。


「人脈ですね。この中には、カヤギサユキスが居る」


 交際相手の情報は日の出前から既に引き出していた。しかしながら、彼の素行を追ったところ、むこうは付き合っているソウナを気にせず、他の女との馴れ合いが目立つ。あの子には気の毒だったが、カヤギサには利用価値がある。

3/3

 カヤギサは宿泊する部屋に根回しをして、いわゆる「盗撮」を専門とする困った男だった。複数の若い女性と親しくしている内情が明かされて、モニタからその手口も筒抜けだった。僕の行っているこれも、のぞきと何が違うのだろうか。


 一日のうち、数名の女性と宿泊を繰り返しては、その合間にいつも異なるインターネット喫茶に立ち寄る行動が目立った。撮影したものをどこかのサイトにアップロードしているようだ。夜までに、三件の動画がアップロードされていた。この中には、ソウナとのことも含まれている。


「インターネットビデオ業者です。視聴数に応じて報酬を得られる。二七七年前頃の、ソーシャルメディア黎明期に流行した職種の一つ。アダルト動画サイトもまた、現代でも衰えていない市場です。あと、不潔です」


 ロボットは女性のようなことを言う。きれいか汚いか等に然したる興味はない。必要とする者が在るからそれは存在し続けるのであって、不必要なものは消えていくだけ。どれだけの女性が泣きを見ても、その「不潔なもの」を喜んで見る人間は居るということを意味していた。


 好きでもない人を好きだと錯覚するのは虚しい。


 僕はカヤギサに個人的な恨みはない。ソウナを含めた、彼と付き合っている女性たちにもこれといって思うところはない。住んでいる世界は違うし、顔も知らなければ、ずっと縁のないまま生きて、死んでいくだけの関係に過ぎなかった。


 しかし、人から人を辿っていくと、どんな人にも営みと繋がりが見いだせる。ソウナからカヤギサという男に続いていたように。僕は、その“関係性”には感謝してもしきれないほどの、大きな利点に気付かされた。


 そうして、また一日が終わる。




 十二月三一日。


「ありがと。これでまた一つ、大きなパイプができそう。あとは内偵の検証にかけてみて、って、なるかしら」


 地下に作られた難民キャンプを訪れていた。単身でも、その部屋への行き方は覚えている。最奥には、最も強大な力を持つ、女帝のような人が居た。空調の効いた暖かい室内を、黒のキャミソールの下から透き通るショーツの下着姿で布団に寝そべって、渡したばかりの書類を乱雑に宙へ放る。


 その反応をこの目でしかと見届けて、用件の済んだ僕はドアノブに手を掛ける。


「もういっちゃうの? チューくらいしてあげてもいいのに。フフフ」


「絵梨香の役に、立てることが、今の僕を、生かしている。だから」


 後ろから、ベッドを降りて、すたすたと素足で歩いてくる音が聴こえてきた。すぐそこには、彼女の気配がじんわりと伝わってくる。


「あたしが他のだれかのものになるのが、そんなに怖い?」


 ドアは開かれる。僕には、時間がない。一日が、また一日とともに過ぎていく。


「あなたが、あなたで、居られなくなる、姿を、見たくは、ない」


 踏み出した足を、僕の二の腕を掴んだ白く細長い腕に阻まれた。


「私のこと、よく知りもしないくせに。生意気言うなよ……小僧」


 絵梨香のことなら、もう大体知っていた。六年以上前のインターネットビデオに映っていた、いくつかの猟奇的な「動画」のことも。だけど、だからというわけじゃない。一六歳の僕は、確かに生きていた。他ならぬ、この人の掌の上で。そして、今もこうして。


「なんとか言えよ。ばかやろう」


 腕に爪を立てた指先は寂しげに、離れていくのだった。




8)最後と呼ばれるもの

1/4

 絵梨香の所を出て、自宅に転送されて戻ってきていた。なぜだかここには居たくない。遠ざかりたい。そう思うようになってから、モニタ部屋の滞在時間が長くなっていた。台所のごみ入れには、何か呪われたものがあるような、近付きたくない理由があった。


 時刻は午後七時を回った。モニタ部屋に居てもいいけれど、あそこはロボットが居て落ち着かない。あのロボットは外見が機械の姿をしているのに、人間と話しているような気分にさせられる。


「そこまで誉められると照れますねぇ。もしよければ、一緒に新年をお祝いしましょう」


 遠隔でロボットの声が直に頭の中まで送られてくる。こういうところだ。


 モニタ部屋に戻るのは時間の問題で、ひとまず、街を歩き回ることにした。癖でつい通勤経路を辿ってしまう。そういえば、絵梨香は作戦や密会等、用事がなければ難民キャンプを出ることがない、あの集落の長(おさ)だった。“オーナー”に狙われているから地下からの外出は控えてもらっている。幹部だったミズグチはあの一件で死んでしまい、その穴を埋めるための人員はどうにか確保できそうだ。


 それにしても、絵梨香に面識がある「一度自分で死んだ人間」とは、どんな人物なのだろう。考え事をしていると、だれかがこつりとぶつかってきた。


「ミツハル」


 世間ではもう冬休みに入っているのにも関わらず、通学時の支度に身を包んで、今まさに更けていく大晦日の夜道を歩いている女子高生は上着の左右のポケットに両手を突っ込んで、年上の名前を呼び捨てでもう一度呼んだ。


「よぉ、ミツハル」


 少女に会うのは八日振りくらいだった。忘れていたわけではない。しかし、この場所で“生きていない”カグラは「所有権」を巡る場において、これほど不適格な人物は居ない。だから、モニタではいつも顔を見れたものの、無意識に見ないようにしていた。


「元気か」


「開口一番がそれか。『最後の日』なんだぞー。……終わりにしちゃおうかって、日、なんだよ」


 友達と話すような態度と、後の方はカグラの心が吐き出した言葉に聴こえた。最後、か。一日一日が生きているのだとしたら、僕らはその数多くの死の上で成り立っている。


「ああ。大晦日が、死んでも、また、新しい元日が、生まれ、死んでゆく。繰り返される、三六五回の、最も後だ」


 僕が答えると、カグラは無口になった。返事の代わりに、女の子特有の小さな手が小刻みに震えてポケットから出てきて、僕の手元にちょこんと触れるように差し出された。


 手を繋ぐ。彼女の手が温かったから、僕の手はきっと冷たいのだろう。

2/4

 大晦日というだけあって、街並みは思いのほか静寂に包まれていた。歩いているのは僕らのような連れ立った男女だが、決して多くはない。寒さに手が震えているカグラにかけてやれる上着はないのだろう。視覚をだましている特殊な繊維でできたこの服はつなぎのはずだから。「そんなことはありませんよ。試してみてください」ロボットの声がする。


 僕は立ち止まり、十センチ以上は身長差のある少女の方を見て手を放す。そのまま、自分が着ていると“思われる”ジャケットを脱いで、すらっとしてやせた体の背中から被せた。


 つなぎなのに、取り外しが効くのか。


「冬の匂いがする」


 そう言って、カグラは僕に擦り寄っていた。食事や排泄をしない僕からは何も匂いがしないはずだった。


 風が吹いて、乾いた空気が頬をなでる。このままだと風邪を引く。多少強引ではあるが、彼女に背中を向けて身をかがめる。それから後ろ手に、黒タイツの通っている両脚を掴む。女子にしては長身なのに、その体重は驚くほどに軽く、簡単に持ち上がった。


「なにするの、いきなり」


「家まで、送る」


 突然の暴挙に小さな怒りを噴出させつつも抗うことはなかった。僕が確かな力で地面を蹴って前に進み始める。重ね合わせた中に、冷えた体温が伝わってくる。


「あたたかい」


 そう、耳元で聴こえた。




 およそ二十分後。負ぶって、帰るべき家の付近まで来ると、少女は背中から降りた。


「帰りたくない」


 この日、カグラが一人で外出していた理由は知らないが、きっとそれは珍しいことではなさそうだった。家に居たくない気持ちはよく解る。多くの人間が家で年越しをするけれど、そうしたくない人間は外出先で適当に時間を潰すのかもしれない。


 しかし、カグラは一人でそれが許される年齢ではない。


「夜は、危ないから、一人で、出歩いたら、いけない」


「そんなのわかってる。でも、帰りたくない」


 幼いわがまま。そして、僕にはそれを許せるほどの意地悪さもなかった。これ以上、彼女を連れ回したら、本当に風邪を引いてしまう。少女は羽織っていた僕の上着を突き返して、僕の胸ぐらに勢いよく手を掛けて、前後に揺さぶった。


「ミツハルのとこに、泊まる。ねえ、泊めさせて。おい、泊めろ。はやく、はやく」


 あのアパートは生身の人間にはとても寒くて、女の子が過ごせるような生半可な環境ではない。それに、ここから歩いて行くにはさらに三〇分はかかる。あきらめさせるには、どう説得しようか悩んでいた。「いいんじゃないですか。その家には、“だれも”居ないようですし」ロボットが口を挟んできた。

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 この子一人、なのか。でも、どうして。


「家には、だれか、居ないのか?」


 服を揺らしてくる手の動きが止まる。カグラは平然としていた。


「出掛けてる。いつものことだし。むこうも、わたしとは一緒に居たくないの。ねえ、どこかに連れていって。お願い」


 ここで言い争っていても仕方がなかったから、渋々連れ帰ることにした。しかも、おんぶを強要された。疲れているのだろう。いつから外出していたのだか。





「ここがミツハルの部屋。ううっ、さぶ」


 入室した途端、想像していた通りの反応だった。お粗末な部屋なので、外気温の寒さがほとんど伝わってくる。おまけに雨まで降ってきている始末で、後には退きにくくなっていた。


 食べ物は何一つ置いておらず、冷暖房の類いもない。ただ薄汚れた布団があって、ただ着ていない生前の服がラックにいくつかぶら下げられているだけ。台所の方には、近付きたくない。


「なんにもないね。でも、なんか、そんな感じがする」


 畳の匂いがする、使い古された一室に座り込んで震えている少女に、不本意だが隅っこに畳まれていた布団を勧める。眠らない体になってからは使われていない。週に一度は干していたが、女の子にとってはきれいとは言えない。


「いいの? でも、外の格好だから」


 嫌がるどころか、着ているものをその場で脱ぎ始めた。露になったつやめく肩は当然、背筋から膝まで全身が震えている。型崩れしやすい制服は仕方ないにしても、中に着ていた衣類まで脱いでしまった。見兼ねた僕は、部屋で使っていた上着があったはずの引き出しに向かう。


 何着か見つけ出して手に取る。すると、ひやりとした手が首もとに触れて、反射的に振り向く。


「ぎゅーってしたら、はやいんじゃない。いろいろと」


 おどけた態度で僕を惑わそうとしている。だが、体の震えはごまかせていない。意にも介さず、持っていたトレーナーやはんてんを無理矢理にでも頭から被せる。


 そういったやり取りが何度か続いては、こちらの対応が雑になっていき、カグラのとがらせた口先を以て終了した。年頃の女の子が見せるお茶目な表情に、僕は久しく忘れていた心の安寧を思い出す。


 この子のことはもっと難しい事ばかり考えている、底の見えない淵(ふち)のような人間かと思っていたが、こうして過ごしていくに連れて、互いに気を許せる仲になっているように感じられた。


「一人暮らし、いつからしてるの?」


 家を出てから、まだ一年も経っていない。高校を卒業するまでにアルバイトで貯めたお金は実家から独立するために使った。稼ぐ術はとっくに身に付いていたから、思えば高校生活はなくてもよかったのかもしれない。


 そんなふうに答えると、少女は改めて部屋の中をじっくりと眺めていた。


「この先どうなるんだろう。ただ適当に生きて、適当に死んでいくだけなのかな」


 僕はこの暮らしに不満を持っていなかった。分相応の、必要最低限な暮らしが送れているだけで不自由はなかったから。何よりつらいのはこうした“貧しさ”よりも、“目標のない日々”が続いていくことに耐えられなくなったのだ。


「カグラは、何か、したいこと、あるのか」


 両脚を腕で組んで身を縮めていた少女は顔を膝の上にうずめる。それに伴って前髪がだらりと目元を覆い隠す。髪の毛の隙間からのぞかせるまなこは黒く、大きく見開かれていた。


「お母さんに、なれたらよかったのにな」


「お母さん?」


 顔を上げると、その眼差しは遠いところを見据えているようだった。まるで、あの廃墟で初めて出会った時と同じような。


「うん。たかが、わたしを生んだだけの人じゃなくて、これから赤ちゃんを生むような『お母さん』に」

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 まだ高校生の女子にしては逸脱した方針に思えた。


 この子と同じ年齢の頃、僕は学業を捨て去ってひたすら労働に従事していた。それは守るべき家族が居るわけでもなくて、ただ「目的」のためだけに必死だった。しかし、僕がカグラと同じように、子を持つ親を志すのであれば、否応なしにお金を稼いでいかなければならなくなるのだろう。


 つまりは、「そういうこと」だった。


「不自由に、なってしまうな」


 僕が表面的な感想を吐露すると、少女は膝の上に置いた顔を逸らして、こちらから表情が見えない方に向いてしまった。


「『自由』って何?」


「自由は、なにものにも、縛られず、思う通りに、なる様」


「じゃあ、自由なんて、最初から…………。最初から、どこにもないよ。だから、わたしは畏れてなんかいない。わたしは、わたしは、…………わたしは、お母さんに、なれたのに、…………」


 道端で初めて会った時から、この子に感じていたものの輪郭が、ほんのわずかだけ浮かび上がった。彼女は何かを、ずっと隠し持っていた。想像も着かない何かが、まだ大人にもなっていない少女の奥で、ひしめいていて、その苦しみが溢れ出して、やっとの思いで形を保っていた心をぼろぼろにしてしまうのだ。


「大丈夫。母になる人は、だれよりも、強い。過去の、どの、自分よりも」


 せめて、僕は僕の言える最低限のことを言った。しかし、彼女の方からは小さな寝息がすやすやと刻まれていた。少女の体を傾けて、近くの敷き布団の上に寝かせて、手足もそれに合わせた格好に動かす。


 そうして布団を被せる。部屋の明かりを消した。おやすみ。




 もうすぐ年が明ける。


 部屋の壁際に背中をもたれて考える。これまでの僕の人生に意味はあったのか。あったとしたら、これからを生きていく意味にもなるのか、と。一月が訪れれば、また忙しくなる。来なかったはずの絵梨香と再会できたのは思わぬ賜り物だった。しかし、僕は何を迷っているのだろうか。死ぬつもりだったのなら、それでいいじゃないか。絵梨香がどう生きていこうが関係ない。そう割り切って、決断したはずだったのに。また彼女を「信じようとする」自分が居る。


 僕は何がしたいのだろう。絵梨香を助けたら、その次は? 万が一助けられなかったら? どの結果でも、すべてが振り出しに戻る。その後は解らない。死のうか? だけど、本当にそれでいいのか。解らない。


 僕が居なくても、世界は回る。人々は生きる。そして、最後には死んでいく。


 一度死に直面して、身に沁(し)みている。あの何もない、無の概念が全身を多い尽くす寸前の、すべてが止まった瞬間を。その狭間でさえ、僕には悔いることはなかった。もうこれ以上ないくらいに、終わりを受け止めていた。


「死が、恋しい」


 ふと、そんなことをつぶやいた。生きている限り、探し続けなければならない。そのための目的を。そうして、今の自分がある。ならば、死は“すべての目的”が出し尽くされた後に、つまり「最後」に位置する。


 あとどれだけ僕は、目的を持てるのだろう。最後のページ以外がごっそり抜き取られた本のような、生きざまを夢想している。


 その時、少女の声がした。


「――最後に、会いたい」


 寝息は続いている。ただの寝言だった。しかし、心なしかその表情には明るい苦しみが深く、まぶたの辺りを覆っていた。




9)帰還者

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 一月三日。


 人から人へ、次から次へと繋がりを延長していき、元々少なかった人脈は劇的に拡大されていった。僕に与えられた暫定的所有権は様々な出会いを通して、「目的」に大きく貢献し、モニタ部屋にも変化があった。


「到頭、人類存続機構の制圧まで王手をかけましたか」


 ディスプレイに表示されている映像はまさに網目状となって、その目の一つ一つにだれ一人として同じではない現在の生活が映し出されている。平均して縦二センチ横三センチ程度のマスによって縁取られた網目はそれぞれ重要度に応じて、大きかったり小さかったりする。


 当初三つしかなかったモニタは合計二〇台は超え、壁側の机をはみ出すどころか、壁面に直接取り付けられて、増設されていった。その薄型の機械もまた、部屋の中を網目状に縁取っていた。


 映像を見るからに、外は日没の後だった。この日は所有権を得ていた人物を遠隔で操作して、人類存続機構と呼ばれる組織の内部をハッキングさせていた。これも絵梨香に与えられた「作戦」であり、この数年彼女が追い続けていた真実に迫る重要なものだった。


「高度な情報処理技術ですね。人間側にもこうした逸材が残っていたとは」


 モニタの一角を注意深く凝視する僕の隣が都度騒がしい。気を抜けない場面から一時的に脱して、そのうるさい方に目を向ける。


 モニタ部屋の設備と同様に改修が為されたのはディスプレイだけではなかった。いかにも旧世代型らしく飾り気のない姿だった人型ロボットは、その体の形状がより鋭利な印象に変わり、金属が剥き出されていた関節駆動部を中心に、全身が樹脂製のカバーに被われて生物的な丸みを模して、両手の指はよりしなやかに動く人間のそれと同様の形をしていた。


 目の部分に当たるセンサーのある顔面部分は不透明な仮面が被さっているが、その裏側は以前のロボットの頭部のままであるのがうかがえて、その不完全さがむしろ“機械らしくない”風情があった。髪をイメージした硬質の被り物は形状がやや変わっており、最初の黒髪おかっぱ頭から茶髪セミロングヘアに変わったようだ。


「どう? 似合ってますか」


 腰に手を当てて、もう片方の手を伸ばすポーズを取っている。それを無視して、作戦中のモニタに戻る。こんな忙しくて大変な局面に、緊張感のない。ロボットはモニタ内のナビゲートに参加して、僕の思考を補助する。


 僕が所有権を得た工作員は建物の外に配置されていて、施設に侵入した部隊へ次の指令を下す。情報戦を担当する彼と、三名一組の実働部隊を二部を動かして、封鎖されていた設備の各所を手際よく押さえていく。


 屋内は平常通りの静けさを保ち、警備には気付かれず順調に進んでいる。送り込まれた六名のうち四名は絵梨香の直属の部下であり、腕は確かだ。


 最後のセキュリティ扉を突破すれば、もうすぐ最深部に到達する。


「いけません! その奥に、異様な“生物反応”を捕捉」

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 その時、何が起こったのか、目を疑った。画面越しからでも、その“人間離れ”した動きが判る。秒を一〇〇に刻み込む、その生物とは程遠い音速を超える動きができる存在に心当たりがあった。


「まさか、やつが」


 先行部隊の三名が二秒もかからず全滅した。後の三名はすぐさま撤退させる。作戦は失敗だった。これまでがうまく行きすぎていた。手薄な警備状況に、セキュリティレベルの低さ。いかに、人類存続機構が複合組織の一角でしかないとしても、人々を影で掌握していた集団。そう容易く陥落するはずがなかったのだ。


「残念でしたね。まさか、連中が“彼”を手駒に加えていたなんて」


 ロボットは能天気に、三か所のマスが黒一色に染まったばかりの隅を見つめて言う。死亡した三名の近くの映像共有は絶たれて、設備内部の状況が判らなくなっている。このまま日付が変わると、今回、情報処理で活躍してくれた彼の所有権はなくなる。この数日、入念に組み立ててようやくのところだったのに、すべてが振り出しに戻る。


「“奴”が、オーナー、なのか」


 常人では追うことのできないあの動き、すでに人間を超えていた。ロボットの目は新設されたマスクの切れ込みから確認できて、処理中による赤い点滅をしている。機密に関わる内容に触れると、この挙動になる。


「閲覧レベルAに該当しお答えできま…………ピー、情報を更新中。…………更新完了。承認が下りました。たった今、当該項目の閲覧レベルがAからBに下がりました。情報開示が可能です」


 同席していて一度も聞いたことのなかった電子音が鳴り、ガイダンスが再開される。


「クシナキダイゴ、享年23歳。彼もコメカワサマと同様“所有権を得られし者”の一人です。そして、シシツキエルカのオーナー候補として先約しています。……情報開示許可と共に、音声データを受信しております。再生しますか」


 無言で頷く。ロボットの口元のスピーカー部分から鮮明でノイズのない声が鳴り始める。


「遅かったな、マヌケ。ゑ瑠寡はこのオレ様がいただく。あいつが無抵抗のまま蹂躙(じゅうりん)される様をそこでおとなしく見てな」


 その声を聞いて、何かに火が点いた。僕は自分の情報を相手に開示するようロボットに命令し、同様に音声データを添付する。直接の音声を録音する方式ではなかった。脳内でイメージされた言葉が自動的に、僕の肉声によって発せられた声に置き換わっていく。


「クシナキ。どちらが彼女の今後を左右するのか、この“戦い”に勝った者だけが決められる。勝負だ!」


 男と男の宣戦布告だった。




 一月四日。持てる日数が着々となくなっていく。


 絵梨香の所有権を先約しているオーナー、クシナキの実態は人類存続機構に雇われているメカニカル・ソルジャーであり、現在に至るまでだれの所有権も得ずに留まっている。条件は僕と変わらず「一回きり」の権限であって、奴も彼女に特別なこだわりを持っている。


「ワタシ個人と致しましても、シシツキエルカがこのままクシナキダイゴの手に落ちるのは望んではおりません。おそらく、彼は彼女を通して、何かを仕掛けてくるはずです。そうすると、人間側の指揮は――――」


 ロボットは音声の途中で機能停止し、身動きもなく、沈黙した。

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 モニタ部屋にある扉が空気を伴って開いた。奥の方から白煙がもくもくと室内に流れ込んでくる。規則正しい間隔の足音が近付いてくる。不確かな視覚情報の中、身長は明らかに僕よりも低い、人の形をした影がロボットの方に近付いて、その辺りをいじっている。


 窓がなくドアは閉ざされた、隙間ない、通気性の悪い一室から煙は薄れていく。そこに立っていたのは……。


「――コメカワサマ、あなたが握るべきだと、ワタシは思うのです。……なんてね」


 剥ぎ取ったマスクを片手で携えて、顔を覆い隠している。僕が着ているのと共通した特徴のツナギに身を包んだ女性だ。ロボット特有の抑揚を真似た声は、機械が生成した音声よりもはっきりと自然な響きを伴っている。この声の持ち主に覚えがある。


 彼女は、一一日前に死んだはずの人間だった。いや、直接確認したわけではない。死んでいなかったということなのか。目の前の人物を見れば見るほどに、疑わしくなった。ロボットが嘘を吐(つ)いた? 何のために? 考えを遮るように、言葉が発せられる。


「楽しんでいただけたかな? ワタシの、名演技」


 大げさにマスクを天井に放ると、その濃い目元が特徴的な少女の顔が露になった。獲物を見据えるような鋭い眼差しで僕の方を見詰めている。


 次の瞬間、放られたマスクが垂直に落下して彼女の頭を一発叩いて、床に落ちる。


「いつっ」


 僕は無視して、モニタに視線を移す。視野では、冷遇された彼女がデスクのイスに着席して、斜め下からじっとこちらに目を向けている。気にせず、次の暫定的所有権を得たい人物を選択して、これまで通りに自分の思考を通して「ロボット」に申請する。


「キズカラリヤハ、24才。羽槻沼実佐波大学院総合人間情報課に在籍中。人間管理業法の研究に関わる。趣味は片手間にオンラインゲームをしながらのハッキング。アカウントBAN回数236回、訂正たった今237、238、239回目……既存のアカウントをすべて失った模様」


 滞りなく人物の紹介を述べる女性の方を見てみる。やはり、見なければよかった。


 モニタでは、小太りの二〇代女性が、扇状に三枚並べられたディスプレイの前で入力用のキーボードを机に叩き付けて大声を上げている。外見は世間一般的な美しさとはかけ離れているが、新しいIPアドレスを取得した上で新しいアカウントを作成し、新規キャラのレベル上げを再開するその処理速度には目を見張るものがある。あっという間に、一だったものが二桁になる。数値の上昇は加速し、その間にも次のアカウントの作成がこなされている。


「キズカラリヤハにとって、オンラインゲームは自身が最強で居られる場所」


 並行処理された三名のキャラクターがパーティを組んで、他のプレイヤーに戦いを挑んでいる。レベル差があって苦戦していたものの、力押しでプレイヤーキル(よその相手キャラを倒すこと)を果たす。ディスプレイ前で、その三名を操っていた女性が拳を握り、勝利のポーズを取る。すると、おもむろに、穿いていたズボンを脱ぎ出したところで、僕は目を逸らす。


「勝利の余韻って、どんな気持ちなんでしょう。フフ、フフフ、あらあら」

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 このまま五日になれば、キズカラの所有権が得られる。今度は失敗することも織り込んで「三日間」にしてある。これまでずっと一日ずつで申請していた所有権を、三人分も使った。それだけに懸かる期待も大きい。


「どう、思う? この人物」


 モニタには目を向けられないので、ようやく彼女の顔をしっかりと見る。先程からニヤニヤしていて、あまり深追いしたくない。前々からうざったく感じられていたのが、より強くなってしまったから。


 キズカラの私生活が映されているらしき画面を見て笑いをこらえている。


「フッ。フフ、フフフッ……、えっと、腕は確かですよ。フッ、フフッ。三人構成の作戦展開に至っては、文字通り『最強』と言っても、過言ではありません。フッ、だめっ、なにそれ、アハハハ、ハハハ!」


 モニタの内容が気にはなるが、見なかった。見たら、いけないと強く思った。




 再考された作戦内容が盤石(ばんじゃく)になり、あとは絵梨香に報告するのみとなった。これを持って前回の失敗への謝罪をしなくてはならない。彼女の部下を二人も死なせてしまった。戦う以上は犠牲が出るのは仕方ないとは言われていたが、やはり気が重い。


「心配しなくても、シシツキエルカはあなたを恨んだりはしませんよ。むしろ、感謝するはずです」


 ロボットは機能停止したままだ。その代わりに、増設されたデスクの隣に女性が座っている。背もたれに触れないその姿勢は美しく、するはずのないコーヒーの匂いが幻覚みたいに思い浮かぶ。


「……イブ、なんだな。お前」


「やっとですか。ええ、ワタシはハナツカサイブです。ちなみに、このロボットQC02-EVE001の愛称もイブなんです。人間管理業務に初めて導入された初期型で、とても高い人工知能を持っているんです」


「なぜ、死んだ、などと?」


 イブはモニタを向いていたイスを九〇度回転させて、まっすぐこちらをのぞき込んだ。脚を前に伸ばして腕を天に上げて伸びをしている。答えは単純だった。


「わたしはミツハルのナビゲーターです。閲覧レベルの関係上、それ以上は言えないんだけれど、それが我々とあなたにとって最適な選択となるように動いてきました。ハナツカサイブはあちら側でのワタシ」


 そう言ってツナギの上半身の最上部にあるジッパーを下ろすと、そこには普通の人間と同様の肌が現れた。


「ごめんなさい。“権限”がないからこれ以上は言えない。でも、一言だけ。わたしは、あなたのことを、愛しています」


 僕は立ち上がり、ロボットの肩に手を掛けて、その顔に向かってつぶやく。


「お前は、これで、幸せと、いえるのか」


「ええ。ですから、あなたには、勝利していただきたいのです。それがわたしの、“本当の”願いでもあります」


 人に「愛してる」なんて言われたのは初めてだった。それを直に聞かされてしまうことがどれだけ「罪深い」ことなのか。恐れていた。遠ざけていた。だが、もう耳にしてしまった以上はやるしかない。


 僕は勝つんだ。この戦いに。

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